声が届かない遠さ分
彼までの距離 ~声が届かない遠さ分~
彼が隣にいるとき、不安にならないわけじゃなかった。
付き合う前よりも、付き合い始めた後の方が不安なことは多いのだと感じたのも、同じような理由だったはずだ。あの頃と変わらず、私は同じ理由で不安を抱く。
それでも、距離が開いている分だけ嫌な予感というものはひしひしと胸に響くもので、背中から心臓を引っ張り出されるような、そんな痛みを抱いた。
その痛みを癒すすべなど持っていないわたしは、以前のように彼に手を伸ばせず、ただひたすら体を丸めて痛みに耐えるしかなかった。
ことの発端は何でもないことで、実にいつも通りの生活の中にあった。
「もしもし、咲?」
「あ、湊くん。どうしたの?」
電話がメールよりも好きだと、そんなふうに言っていた。そのことを思い出してほっと息をついた。声を聞くだけで安堵するなんて、どこの乙女だろうと思う反面、純粋に声が聞こえて笑顔になる。
今日は授業が詰まっていて、なかなか大変だったけど、湊君はこれからバスケの練習をするんだろうな、そのあとご飯食べてまた明日、朝から走るんだろうか、と考えているとこちらも元気が出てきた。
湊くんががんばっているように、わたしも頑張れたらいいな。
一人暮らしには慣れただろうか。ご飯をきちんと食べているだろうか。まだ朝、走っているんだろうか。そちらでのバスケは楽しい? ちゃんと毎日授業を受けてる?
また質問攻めにしてしまいそうで、一度口を閉じて深呼吸した。
「いや、時間が空いたから、咲はどうしてるかと思って」
「ちょうど授業が終わったところだよ。湊くんも終わり?」
少しだけ、この前の気まずさを思い出してどきりとした。同じ近状を聞くにも、心持が違うとこんなに効きやすいものなのか、と思う反面、以前はどれだけ緊張していたんだろうと首を傾げた。
「今日は何を食べる予定なの?」
「ああ、今日は……」
彼の声が不自然に途切れて、返事が中途半端に終わってしまう。
それを不審に思い、湊くん、と呼びかけるよりも早く、聞きなれない声が『湊くん』と呼んだ。
わたしの声じゃない、違う声が、わたしがまさに呼ぼうとしていたタイミングで、彼の名前を呼んだ。
わたしが呼ぶはずだったその名を、わたしが、呼びたかった名を、わたしよりも早く。
『早くしないとおいていくよ。皆もう集まってるんだから』
「あ、今電話中なんで……」
気まずそうな声が電話口で洩れて、携帯電話を両手で握りしめた。
耳から放してしまえばいい。切ってしまえばいい。
彼の声も、知らない人の声も聞こえないように。だって、携帯さえ離してしまえば、わたしたちの声は届かないほど離れている。
それが今はひたすらにありがたいと思った。耳から遠くしてしまえばいい。それだけでわたしは。
「咲?」
「あ、うん。呼ばれてたね。そろそろ切ろうか」
自分がしていた話も忘れて、何でもないように返事をしようとした。
当然、そんなことはできなくて不自然に声は震えたけど。しかしそれもはじめの返事だけで、あとはいつもどおりに言えた気がする。
「今日はバスケの新歓なんだ。さっきの人はマネージャーで」
「あ、そうなんだ。楽しみだね」
さっきまで忘れていた気まずさが、わたしの胸を支配する。
どうして、忘れていたんだろう。こんなに息が詰まって苦しかったことを。
また、忘れちゃうんだろうか。時間が経てば、さっきみたいに『どうしてこの前は気まずかったんだろう』なんて、首を傾げるんだろうか。
この前のように、時間が解決してくれるんだろうか。この息苦しさは。この胸に宿る不安とは少し違った感情の正体など、とっくの昔に分かってはいたが、認めるのに時間がかかった。
「美味しいもの出てくるといいね」
「そこは、同級生や先輩と仲良くなれればいいね、とかだろ」
くすっと湊くんが笑って、それから『じゃぁまた』と言った。
その言葉に、『うん、またね』と会話を切り上げようとすると、向こうの方からまた『彼女さん?』という声が聞こえた。
それに何か思う前に電話は切られて、携帯の画面を見つめる。何を考えていいのか分からずに、暗くなった画面をしばらくぼんやりと見つめていると、いきなり肩を叩かれてびくりと震えた。
「びっくりした!」
「え、ごめん」
苦笑いを含んだ声が聞こえて慌てて振り返ると、そこにいるのは田上くんでほっと息をついた。びっくりした、けどそれと同時に今まで胸にたまっていた感情が一瞬のうちに出て行った気もした。
「高木さんがぼーっとしてたから気になって。どうしたの?」
「いや、あの……」
何といえばいいか分からなくてしばらく携帯を見つめていると、『よし』と頭上で声が聞こえた。何に対しての『よし』か分からず、彼を見つめて小首を傾げる。
「お茶しよう」
「え?」
「お茶、しにいこう!」
同じ言葉を二回繰り返して、彼は先に歩き始めた。その後ろをついて行って、追いつくと彼がにっこりと笑う。
ずきっと胸が痛んだのは、どうしてだろう。
……わたし、何を考えていたっけ。何で携帯なんて握りしめて、ぼんやりしていたんだっけ?
「田上くんっ」
「いいじゃん、今日は頑張った日だし、甘いもの食べようよ」
俺がおごるからさーと彼は笑って、それから嫌な時には甘いものだ、などと目線を合わせずに呟いた。
あぁ、と不意に納得して携帯を見つめた。
わたし、彼に分かるほどひどい顔をしていたのか。そんな、顔をしていたんだろうか。
ほんの少し、電話の向こうで知らない女の声がしただけで、わたしは隠しきれないほど情けない顔をしていたのか。
「わたし、嫌な顔してた?」
「いいや、嫌な顔じゃないよ」
どんな顔をしていたのだろう。わたしは、どんな顔をして携帯を見つめていたんだろう。どんな顔で、湊くんを、湊くんの会話の相手を考えていただろう。
とても、嫌な顔をしてはいなかっただろうか。嫉妬して、醜くはなかっただろうか。
湊くんに見せられない顔をしていたのかと思うと、本当に居たたまれなくなって俯いた。見られたくない、誰にも、自分でも見たくない。それなのに。
「ただちょっと、疲れて見えただけだよ」
「……疲れてるように、見えた?」
疲れている、という表情ではない気がした。
もっと、もっと違う表情をしていたんじゃないかと不安になる。だって、わたし、確かに考えていたもの。
湊くんに話しかけた、わずかに甘い声の彼女は誰なのかと。
いつも、彼女はあの声で湊くんを呼んでいるのかと。わたしがいないところで、わたしが入り込めない関係で、わたしが、どうやったっていられない時間を、彼女と湊くんは過ごしているんだろうか。
そんなことを考えると、堪らなくなるんだ。
わたしは彼女の顔を知らない、性格を知らない、何も知らない、それなのに、どうしたって好意的に思えない。
彼女が湊くんをどう思っていようと、湊くんが彼女をどう思っていようと、わたしのこの気持ちは変わらないと思った。
「すごく、悲しそうだっただけだよ。そういう日もある」
そういう日、なのか。それなら、明日になれば、わたしのこの気持ちは、変わってくれるだろうか。