徒歩三日分
彼女までの距離 ~徒歩三日分~
練習が終わってシャワーを浴びて、それから何となく疲れた体を持て余して。
そんな生活をここ数週間過ごしていた。大学生活というものに少しずつ慣れ始め、時間の使い方なんかも意識せずに周りの学生と同化していく。
それが当たり前なのだろうと思いつつ、いつのまにか順応していく『大学生』というものにほんのわずかな違和感なんてものを覚えた。
それは、隣に彼女がいないからだろうか、なんて柄にもなく感傷に浸って見せる。彼女に出会う前は、そんなこと考えもしなかったくせに。
ただバスケができればそれで満足だと、誰に宣言するでもなく思っていたはずなのに。
「おーい、日野くんー」
「あ、はい」
後ろから呼ばれて振り向けば、明るい色の髪の毛がふわりと風になびいて目の端に映った。その人物はそれを手で押さえながら笑顔でこちらによって来る。
おおよその人間が美人と表現するだろうその顔をじっと見つめ、いつも思う。
マネージャーだって力仕事が多いだろうに、いつもきっちりメイクをして大変じゃないのか、と。
……この辺が朴念仁と言われる所以かもしれないということは分かっているが。
「新歓のことなんだけど、いつがいいかな? 一年生三人だけだし、皆が出れる日にしたいってキャプテンが言ってるんだけど」
「あぁ、いつでもいいですけど。俺より他の二人の予定を優先させてもらえますか? バイトまだ始めてないんで、俺が合わせる方が」
まだ知り合ったばかりの同級生兼チームメイトを思い浮かべながら、頭にかけてあったタオルで髪を拭った。
放っておいてもいいが、水滴が落ちて誰かが滑るという事態になるのはいただけないだろう。短い髪だから、どうせすぐ乾いてしまうんだし。
「んー、いつでもいいの? 本当に?」
「丸一日拘束とかじゃないんだったらいつでも」
ふうん、とその人は口元に指先を当てて緩く微笑んだ。光る唇には一体何がついているんだろうと不思議に思った。
……咲も、大学に入ったからあんな恰好をするのだろうか。黒髪を明るく染めて、訳の分からない化粧で自分には理解のできない方法で、そうやって自分を飾るんだろうか。
もやっとするのはそれを自分が見ることはないからだ。自分以外が日常として見るからだ。
「何か日野くんは固いなー。試合のときみたいに情熱的なのかと思ったら意外に静かよねぇ」
「あぁ、それは二人にも言われました。そんなに試合中がつがつしてますかね?」
自覚はないし、まして試合中の自分がどんな風なのかよく分からない。あとでビデオを見たりしても、そんなもんか、と思ってしまう。
しかし他人から見ると随分と違うようで、話してみるとびっくりする、という人も多い。もっとも普段見ていて、試合を見てびっくりした、という人物も知ってはいるが。
『日野くん、すっごくかっこよかったよー。でも何か別人みたいに目が鋭かったね』という感想をいただいた時にも首を傾げたものだ。怖かったのだろうかと尋ねると、その子はにっこりと笑って首を振ってくれたけど。
「がつがつっていうか、まぁ、すごく好戦的にはなるよね。プレイスタイルもどっちかというと強気だし」
自覚はないが、これほどまでに他人に指摘されるということはそうなのだろう。まぁ、ポジションの関係もあるし、確かによく攻める方だとは思う。
相手を振り切り、シュートするときの快感はやったことのない人に伝えられないだろうと思う。
「自覚はないんですけど」
「自覚なしにあそこまでだと、逆にすごいね」
ルールを知らない彼女が、『すごいね』と笑ってくれた。バスケなんて授業以外でやったことがないという彼女が、『かっこいいね』とほめてくれた。
それだけで自分のしていることが、とても有意義に思えたし、勝ちたいと思った。いつも思っていることをひときわ強く、心の奥底で思ったのは初めてだった。
彼女のためではなく自分のために、チームのためではなく自分自身のために、そう思ってプレーをするようになった。
どうすれば勝てるか、どうすればよりよくなるのか、元からあったバスケの執着に、ほんの少し何かが加わった。それがいいことか悪いことかと聞かれたら、悪いことかもしれないなと思ったけど。
「彼女の、せいかもしれませんね」
「彼女いるの?!」
「え、はい」
何気なく出したその言葉に、目の前の人はひどく驚いて次いで『女の子に興味ありませんって顔してるのに!』とひどく失礼な言葉を吐かれた。
確かに、すごく興味があるって感じの様子じゃないかもしれないけど、少なくとも全然興味ありませんって顔をしているつもりなんてさらさらないし、そもそも咲と一緒にいるときならその辺の男と考えていることなんて変わらないと思う。
「へぇー。高校バスケで有名なくせに、全然そういうの聞かなかったのに」
「……ただの高校生ですから。そこまで注目されるものじゃないですよ」
「自覚がないっていうのは罪ね」
目の前の彼女はうっそりと笑いつつ、首を傾げた。それから引き上げた唇もそのままに、『日野くんは結構人気者よ』とそんなことを口に出す。
あぁ、やっぱり気になってしまう。目の前のこの人同様に彼女が唇に何かを塗っているのかどうか。
元々線が細いし、華奢だし、本人はそんなことないって言うけどやっぱり女の子だからだろうか、色も白いし。
だからこの人みたいにはっきりとした色よりはもっと淡くて可愛らしい色の方が似合うだろう。でも何も塗らなくても、十分艶やかなことは知っている。
「あ、今彼女のこと考えたでしょ」
「……分かるんですか」
「日野くんが男の子の顔をした」
「どんな顔ですか」
でも次いで襲ってくるのはびっくりするくらい冷静な自分の考えで、今は触れられもしないし彼女と満足に会話もできないという事実だった。
そうだ、今自分は遠いところにいて、彼女の顔も見えなくて、泣いている彼女の頬に触れることさえできなくて、それから彼女の口から本当のことさえ引き出せない。
いつも彼女に気を遣わせてばかりいる。そんなことが瞬時に頭を過ぎった。
「いいなぁ、彼女さんは。君にそんな風に思ってもらえて」
「そんな、いいものじゃないと思いますけど」
ええ、どうしてー? と彼女は少しだけ語尾を伸ばして、体ごとこちらに寄って来た。
そういうのは少し苦手だと思って体を半歩ずらせば、こんなに真面目で彼女のことしか考えてないのにねぇ、と訳の分からないところで同意を求められる。
彼女に対しては真面目であろうと思った。彼女のことをずっと考えていようとも思った。
それでも、それだけでは彼女を笑顔にすることなんてできなかった。彼女の心から不安をすべて取り除きたいと思うのはこちらの身勝手だとは思ったが、どうしてもそう思うのだ。
……自惚れているんだろうな、彼女の不安は自分がいないことからきているのだと。
「距離に負けそうで怖いだけですよ」
「彼女さんはどこにいるの?」
彼女はあの頃のまま、自分たちがゆっくりと関係を深めていった場所にいる。自分は、前進しているわけでもないのにあの場所から遠く離れたこの土地にいる。
距離だけが離れた。自分だけが離れていった。そんな感じがした。
「歩いて……三日くらいかかるらしいです、直線でも」
「え?」
「何でもありません」
なんでそんなことを調べたのか、どうしてわざわざ徒歩なのか、そんなこと全然わからないけれど、調べた後に苦笑しか出てこなかったけれど。
もう俺は、帰る方法を探していた。
新幹線、鈍行、夜行バスに飛行機、それから徒歩。
本当に笑ってしまうけれど、ありとあらゆる方法を調べた。いつでも、どんなときでも帰れるように。他のどんな方法が断たれてしまっても、彼女のもとに行けるように。
「……三日間、休まず歩き続けたら」
どんなときでも、彼女のもとに帰れるんだと知って少し安心してしまった自分がほんの少し、バカらしかった。




