第5節 10
翌朝。窓から差し込む陽の光で、ヴァンは目を覚ます。
「あ"ぁ"…」
呻き声を思わず上げてしまうが、それすらも気が付かないくらいに余裕が無い。それでも朝になったので、彼はめまいを抑えて起き上がる。
近くにあった水瓶を手に取り、適当なコップに水を注いで流し込む。
ぬるくなった水でも、目を覚ますには十分な刺激となり、彼はようやく周囲を見渡す。
12畳程度の広さがある部屋。そして、彼の自室のように、テーブルとソファー、あとはベッドと軽い小物の食器しかないような、殺風景な部屋。窓は2つあり、カーテンは閉まっているものの、その隙間から入ってきた光が丁度当たっていたようだ。
昨晩の情事の跡が残るベッドは出来る限り見ないようにして、好き放題やったあとに1人、綺麗なソファーで寝ていた半裸の師匠を見つけた。
1人だけ綺麗な寝床で寝ていることに少し不満を覚えるも、今更な話だろう。ヴァンは諦めて、まずは部屋に備え付けてあるシャワー室で汚れた体を洗うことにした。
「あぁ……、疲れた……」
朝起きたばかりだと言うのに、体力が全く回復していないことを自覚しつつも、どうにか体を動かして準備を進める。
綺麗になって、多少はスッキリしたところで、長い髪をしっかり乾かしてからシャワー室を出た所で、入り口の扉から、控えめなノックの音が聞こえた。
「どうぞ」
面倒なので下着1枚の状態で答えると、静かに扉が開いて、掃除担当の少年たちが入ってきた。
「おはようございます…師匠は?」
「まだ寝てる。…いつも、大変だな」
この毎朝の清掃もいつものことだったのを思い出し、相手を労うと、彼らも困惑気味に答える。
「…やっぱり、昔からこんなもんだったんですね…」
「……いや、昔はもっとこの部屋に家具があったからもっと酷かったぞ。余計なものを置かないようにしたのは、よくやったとしか言えん」
真顔で伝えられた昔の情報に、彼らも苦笑するしかない。そこで、仕事を止めていたことに気が付いたヴァンが、着替えを手に聞く。
「邪魔か? それなら師匠もろとも引き取っておくが」
「あ、お願いしていいですか? その…洗浄はこっちでやっておくので」
師匠がこういう場だと邪魔で仕方ないのは今更なので、それも踏まえていくと、彼らは困りつつ答えてくれたので、ヴァンもそれに応じる。
「じゃあ、すぐ着替えてくる。終わったら師匠の服と一緒に寄越してくれ」
「頼みます」
テキパキとやる事を決めた所で、ヴァンは再びシャワー室へと戻って着替えを始め、少年たちは濡れたタオルを手に寝ているオーキスの体を拭きに向かっていった。
その後、寝ぼけた勢いで少年たちに手を出そうとしていた師匠を引っ剥がし、掃除している間邪魔なので、半分寝ている師匠を立たせて服を着せてやる。老人の介護をしているようだが、寝起きは最悪だし当たり前のように寝ぼけてセクハラしてくる女でもあるので、毅然とした態度をとれる者だけが、彼女を起こしたり着替えさせる役割になるのは今も変わらないようだ。無論、昔はもっぱらヴァンがその役目を担っていたが、今になってまたこの介護をするとは思っていなかった。
呆れながらもオーキスの着替えを終え、まだウトウトと寝ぼけている彼女に水の入ったコップを渡して飲ませてやると、ようやくしょぼしょぼしていた目が開いてきた。
「あれぇ? ヴァン、おはよ〜」
「ようやく起きたか師匠。部屋の掃除してくれてる間に朝飯を食いに行くぞ」
「今日の飲み物はジュースがいい〜」
「まだ寝ぼけてんのか。さっさと起きろ」
欠伸をしながら素っ頓狂な台詞を吐いている師匠に痺れを切らし、ヴァンは彼女を背負って食堂へと連れて行くことにした。
「あぁもう世話が焼ける…!」
「おやすみぃ〜」
「寝るな起きろ落とすぞ!」
ヴァンに背負われ、移動する時の揺れが丁度良かったのか、眠り始めてしまう師匠を叱責しながら彼はズンズン進んでいった。
1人で大きな声で文句を言いながら食堂の扉を蹴り開けるように入っていくと、中はまばらにいるだけだった。今回掃除に来た少年たちのように、先に食事を済ませて仕事に入ってる子たちもいるので、別段珍しい光景ではないが、今回は背中に余計な荷物がいることもあり、席が空いているのは助かる。さっさと席に向かい、背中の荷物を降ろして座らせる。それでもうつらうつらとしている師匠の姿を横目に見つつ、カウンターへと向かうと、その一部始終を見ていたレルベアがニヤニヤしながら聞いてきた。
「そこのでっかい子供連れてきた兄ちゃん、注文は?」
「"いつもの"を1つ、俺のは適当に見繕ってくれ」
慣れた様子で注文し、レルベアも同様に笑いながら厨房に姿を消して数分。様々なサンドイッチを小さくカットし、盛り合わせた皿と、ローストした大きな肉を挟んだサンドイッチを持ってきた。
「こっちのミックスサンドが師匠、ローストサンドはヴァンに作った。ついでに飲み物も適当に付けておいたけど、大丈夫かな?」
「ありがとう。…ところで、昨日、料理用の酒を飲まれてたみたいなんだが」
料理を受け取ったついでに、昨日の出来事を持ち主に報告すると、彼はにこやかに答えた。
「知ってる」
その笑顔と一言で全て理解し、ヴァンはそれ以上何も言わずに料理の乗った盆を受け取った。
そして師匠の隣に座って、まだ舟を漕いでいる頭を掴んで口を空けさせる。
「ほら、飯だぞ」
「んー…」
愚図る師匠もお構いなしにサンドイッチを掴み、その口に押し込むと、彼女はゆっくり咀嚼していたが―途端に涙目になって叫んだ。
「かっっっっ、辛ぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
ヴァンはうるさそうに顔をしかめ、遠くでそれを見ていたレルベアは爆笑している。
「何これ! めっちゃ辛…!! ヴァァァァン!!」
弟子からの反撃に、オーキスは怒り心頭と言いたそうにこちらを睨んでくるが、ヴァンは無表情で答える。
「久々じゃないか? レルベア特製の激辛料理は?」
それを言われて、彼女はハッとしたように厨房にいるレルベアを睨むと、彼は笑ったまま、気さくに片手を上げた。
それは2人がまだここにいる時によくやっていた悪戯。いつまで経っても起きない師匠を叩き起こすために用意した策の1つでもある。彼女はひーひー言いながら、用意していた水を飲んで舌を冷やした後、ヴァンに用意されていたサンドイッチに気が付く。
「こんなの、食べられる訳ないじゃん! 師匠権限でヴァンのもら―辛ぁぁあ!!!!!」
「ん? 俺のも辛口にしてたのか」
まさか2重でトラップを仕掛けていたとは露とも思わず、勝手にヴァンのサンドイッチにかぶりついた挙句、自爆している師匠を冷ややかな目で見ていた。彼の隣で呻いている師匠を横目に、一口食べられた、自分のサンドイッチに手を伸ばして食べ始めた。確かに多少辛いが、香辛料には慣れているヴァンにとっては丁度良いくらいの刺激。問題なく食べている間に師匠にこちらのジュースまでも奪われてしまっていたが、特に何も感じない。昨晩から好き放題された上、散々搾り取られた後なので、辛さに耐性がない故に苦しんでいる姿を見ても、同情すら沸かなかった。
なお、その後追加のジュースを届けに来たレルベア曰く、激辛サンドイッチにしていたのは一切れだけで、他は普通だと何度も伝えた所で彼女はようやく食事を再開した。
そんな、朝からの大騒ぎを終えたあと、ようやく大人の余裕を取り戻した師匠は、ヴァンを連れて、再び訓練のために外へと連れ出した。
「――こほん。今朝のことは忘れなさい」
「忘れるも何も、昔よく見た光景じゃないか」
何を今更、と言いたそうなヴァンを睨みつけて黙らせる。
「…で、昨日は色々あって訓練どころじゃなかったわね。今日こそ、ちゃんと訓練してあげるわ。
竜を仮想敵にしなきゃ意味ないでしょう?」
彼女の言うことも尤もであり、ヴァンの仇敵は魔女や人間ではなく、竜のみである。訓練をするにしても、師匠という魔女の倒し方を学んだ所で意味はない。シルとの訓練にしても、呪いが起動した際、無意識化での地力を養うためのものであり、竜を想定した訓練ではない。
その点、彼女であれば竜との戦闘経験もあり、魔法を利用することで擬似的な訓練を行うことも難しくはないだろう。
ヴァンとしても非常に助かる提案であり、いつでも動けるように、体の力を抜いて答えた。
「それだと助かります」
「じゃ、今日はそんな感じでやっていこうか。準備運動はいらないかな?」
「大丈夫です」
事前準備を確認されるも、彼としては起きがけでも動けるように訓練されている。より実戦に近い形でやるならば、その気遣いは不要。即答したのを確認して、彼女も常人で視認できるほどの淡い藍色の魔力を放ち、ヴァンに向かって跳び、左手の爪を離れた位置で振りかぶり―横向きに薙ぐように振り回すと、魔力によって肥大化した爪が、ヴァンに襲いかかってくる。
それを真正面で受け止めるようなことはせず、彼は上空に跳んで退避。それを目で確認したまま、彼女は足場を作り、方向転換して、こちらとの距離を一気に詰めてくる。そして再度爪を振りかぶると同時に、ヴァンがその射程から離れた上、右手の角を放つ。
角は魔力で巨大化した腕を捉え、師匠の元へと繋がる道を作る。ヴァンはリールを巻き戻して、一気に接近するも、彼女もそれを嫌がるように大振りに腕を振り回したと同時に、角が離れる。相手の動きを読んだ上での行動。予想を外され、隙を晒した所に更にヴァンは接近し、師匠に向けて爪を振り下ろすが、それは空いた手で簡単に防がれる。
鍔迫り合いのようになるが、師匠が軽々と振り回した勢いで紙細工のように吹き飛ばされる。
空に長い足場を作り、着地した上で勢いを殺し、立ち上がる。先ほどの攻撃で距離は離されてしまったが、それは相手も同じ事。ただ、相手は竜を想定している。師匠は片手を上げると、そこから炎の槍が作られる。
竜の吐息を模した火炎の槍は、周囲の空気を焼きながら迫ってくる。実際、竜を想定しているならば予想外でもなんともなく、彼は迷いなく上空へと駆けていき、それを回避する。
ただ、竜の火炎は1発撃って終わりではない。こちらを追いかけるように何本もの槍が放たれ、ヴァンは的確に避けて接近していく。ただ、近付けば近付くほど、着弾までの時間は短くなっていく。そして、方向も断定しやすくなり―どんどん危うい状況が続く。
それでも彼は被弾することなく、再び師匠の近くに戻ってきた所で、1本目の槍の陰に隠れて、2本目の槍が隠されており、ヴァンは避けることが出来ず、それに直撃した。
だが、師匠の目の前にあったのは、風の防壁で反射された炎だった。
風の防壁は、彼女が教えた技術だ。当然、把握していたこともあり、防壁を展開して直撃を回避する。そして、その爆炎に紛れ、ゼロ距離に迫っていたヴァンの爪をその手で受け止めた。
「うーん、9点!」
緊張感の欠片もなく、首に迫るその手を離してから、彼女は声を上げる。
「何点満点ですか?」
ヴァンも訓練である前提なので、止められるのも分かった上で詳細を聞く。それに、彼女は勿論、と胸を張って答える。
「当然10点だよ」
「減点理由は?」
「満点あげたら調子に乗るかなって」
「真面目に言え」
調子に乗ってるのはどちらなのだろう、というツッコミは置いておき、正直な指摘を聞こうとすると、彼女は笑って答える。
「んー、本当に細かいんだけど、反射した時の1本目、ブラフかどうか迷ったでしょ?」
「……、分かってましたか」
彼女も2本目の槍と、フェイントを隠していたのはズルいと思っているが、ヴァンもそこで迷いが生まれてしまった。実戦であれば、あの槍はブレスの模倣であり、まず有りえないのだが、竜ではなく、彼女が訓練している故の迷い。
完全に実戦を想定しているのであれば、1本目で反射しているのが正解だろう、という答えだ。
理解はしているが、流石に納得がいかず、彼も反論する。
「いや、でも結果的に師匠が騙して2本目投げてたことには変わりなくないか?」
「いやぁ、でも仮想敵は竜だからね?」
彼女も引くつもりはなく、これ以上言っても無駄なのだろう。ヴァンはため息混じりにそれを受け入れ、代わりに釘を差した。
「…………、じゃあ、今度はちゃんと小細工無しで訓練してくれよ」
色々言ってから、流石に大人気なかった事に気が付き、彼女もヴァンの指摘をしっかり受け止めて頷いた。
「……そうね!! じゃあ訓練を続けましょう!」




