回想・泥中の蓮
少し、昔の話をしよう。
私が生まれた家庭はDVで溢れているのに本人同士の間ではそれが幸せとして成立してしまう異常な状態にあった。
父は毎日浴びるように酒を飲み、空気の代わりにタバコを吸って、気に入らないことがあれば物に当たり人に当たる。とにかくどうしようもない人間だった。
しかし、母はそんな父を責め立てる訳でもなく抱擁する訳でもなく「愛とは全てを受け入れることで、愛のために私はそれら全てを実行する」的なことを言って、何もせず暴力も罵声も理不尽も全てを受け入れていた。
そんな風に歪んだ二人の間に、処女雪の肌とルビーのような燃える瞳を持つ私――久遠玲が生まれた。
両目とも開いていた頃は、その顔立ちや生まれつきの体質も相まって妖精のようだったという。外に出れば人々の目を惹き付けていたらしい。
恵まれていたのは容姿だけじゃない。頭の方もだ。年齢とは不釣り合いなほど卓越していて天才と呼ぶに相応しかった。
だから、その存在を許さないかのように、父も母も家の中に閉じ込めて私を殴る。そして、死なない程度に餌をやる。
いつ殴られるか分からなかったから、なるべく目障りにならないように浴槽で丸まってほとんどの日々を過ごしていた。
そんな地獄が続くある日、運命の巡り合わせと呼ぶべき大きな転換点が訪れる。
発端は父が私に熱湯を浴びせてきたことだった。理由は不明だがとにかく癪だったのだろう。
その出来事によって顔の右側には消えない火傷痕を残し、それまでの行いは明るみになり一時的に施設へと預けられることとなった。
まさに僥倖。やはり施設でも独りだったが、痛みを感じない日々は久しぶりだった。
だが、私にとっての幸運はこれだけじゃない。
一時保護が終わり、施設の人間は何を思って安全だと判断したのか謎だったが再び家に戻ることになった。
いつもの日常に戻ったことで施設との温度差に軽く絶望していた頃、事態は大きく動いた。
それは小学校への進学が一ヶ月後に迫るときのことだった。特別暖かい月で桜前線のニュースが早くに放送されていたのを今でも覚えてる。
いつも通り浴槽に居たら突然鈍い音がして、その直後に母の鋭い叫びが聞こえた。少し経って救急車の音が聞こえたと思ったら、次に知ったのは父の死だった。大方過度な飲酒と喫煙が祟って急死したのだろう。
それから失意に暮れた母はまるで抜け殻のようで、その姿が辿る結果は幼いながらも見え透いていた。
そして私の予想通り、三日と経たないうちにに母は自殺した。
ある日、やたら家が静かに感じ、浴槽からリビングに出ると眼前には力なく天井からぶら下がる母。その姿に私は思わず声を出して笑った。飽きるまで笑った。
笑い疲れて冷静になった私は、むせかえるような快晴の日、受話器を手に取った。
「ははが、しにました」
―――
あれから一ヶ月ほど経ち、私は伯母に引き取られた。
私の新しいお母さんはアレとは血縁を疑うほどに落ち着きがあって、豪快で、フランクな性格の人だった。
そんなお母さんの下で健やかに過ごし、私の心の傷は快方に向かっていった――――はずがない。
私は入学早々、元来持っていた才覚を遺憾無く発揮した。
水を得た魚のように、籠から解放された鳥のように、一度鉛筆を持てば私の世界は拓けていった。
だが、私は常人より出来すぎた。それに加えこの身体、理解者なぞ生まれるはずがない。
再び孤独を味わって味わい尽くして味に飽きてきた頃、その孤独は迫害へと変わっていた。
テストの結果とその容姿にかこつけて「調子乗りすぎ」と爪弾きにするクラスメイト。
私の無抵抗をいいことに、更に加速し直接危害まで加えるようになったいじめ。
「なぜ?」
口をついて出たのはその言葉だった。
両親といいコイツらといい、なぜ、そこまで人を貶めることが出来る?
奴らの考えていることが、感じていることが、言っていることが、理解出来なかった。
なぜ? なぜ?
最初は、私の頑張りが足らないからだと思っていた。
私が至らないばかりに皆を傷つけるのだと、そう思っていた。
――でも、そんな筈がないだろう?
出る杭は打たれ、出なさすぎても疎まれる。ただそれだけの話。
私はこの世界と絶望的に噛み合わせが悪かった。
――そんなの、あまりにも理不尽だ。
だとしても私は間違ってない。
あんな奴らに負けてたまるか。否、私は誰にだって負けたくない。
私は一番になる。
頂きに立って拓けた世界を見渡して見下ろしたい。
そのためなら、苦痛だろうとなんだろうと全てを受け入れてやる。
心の奥底に固く誓って、鍵を閉めた。大事なものが壊れないように、零れないようにするために。
でも、そうやって心を閉ざしたせいでまた一つ歯車が狂った――
それは中学校二年生のこと。まだ暖かい季節だったと思う。
私達は理科の授業で実験を行っていた。危険な薬品を扱う実験で、その薬品の扱いにクラス全員の神経が過敏になる中、どうやら私は逆鱗に触れてしまったらしい。
「お前ッ、いい加減にしろよッ!!!」
突然、クラスメイトの女の不快な金切り声が理科実験室に響いた。
「そんな目で、私を見るな……」
「め……なんのこと?」
「ッ!!」
次の瞬間、彼女は右手を振るった。咄嗟に避けようとしたが、私は顔の右側に薬品を浴びた。
不思議と痛みが無かったのを今でも覚えている。私が余りにも痛がらないものだから、先生も大事になっていないと思ったそうな。
でも実際は顔に浴びるどころか、眼球にも入っていた。それに気づいた先生は大慌てで私に処置を施したが、時すでに遅し。結果として、元々あった火傷痕はより惨くなり右眼を失明することになった。
その話はすぐにお母さんに共有され、長年隠していたいじめも遂にはバレてしまった。
「なんで、黙ってたの」
「お母さんに心配かけたくなかったから」
顔に包帯を巻いた私の前で、お母さんは頭を抱えた。
「仕事ばかりな私が言うのは間違ってるけど、頼って欲しかった」
「ここまで女手一つで育ててくれたんだもん、それ以上は望まないよ。それに、これは私の問題」
「いいや、貴女はもっと多くを望むべきよ……それだけの才能があるんだもの」
後日、学校で謝罪の場が設けられ、件の女は私に頭を下げた。
曰く、私の蔑むような目が気に食わないからカッとなってしまった――とのこと。
「反省の念がこもってない後頭部だった。その程度なら謝罪なんてやる意味ないのに」
帰り道、車の助手席で呟いた。
「形だけでも意味はあるのよ。それに、学校側も親御さんも心から申し訳なさそうにしてたし」
「まぁ、そうだけど」
信号が青になり、いつもと逆の方向に曲がる。ドライブにはうってつけの快晴だった。
「あの学校に通い続けるつもりなの?」
「うん」
「どうして」
「負けたくないから」
私が流れゆく住宅街を眺めながら言うと、お母さんは溜息を吐く。
「私は反対」
「…………」
「こればっかりは貴女がなんと言おうと」
「じゃあ、どうするの」
私が運転席に顔を向けると、お母さんは自信あり気な顔をしていた。
「貴女にピッタリな学校があるの。今度、そこに学校見学に行きましょう」
そう言われるまま、とある中学校を訪れた。
「私立黎明学園中等部……日本有数の名門と最高峰の偏差値……」
「玲は負けたくないし、一番になりたいんでしょ? だったら、こういう学校の方が良いと思うの」
確かにお母さんの言う通りだ。自分のレベルに近い場所ならもっと上を目指せる。
私は期待感を膨らませながら学校の設備や授業風景を見て回った。
「結構派手髪の生徒もいるんですね。なんというか、もっとお堅い感じかと」
「そうですね。我が校は自由さを売りにしてるので、校則は基本的にありません。馴染めると思いますよ、きっと」
確かに……そうかもしれない。
「やっぱりここがいいかも……」
学校見学が終わる頃にはすっかり心変わりしていた。
そうして私は翌年から黎明学園に編入することになり、初めての青春を送ることになった。
―――
時は進み――春。
超難関と言われる編入試験は楽々合格。過去最高点数だったらしい。
編入が確定した私は、そこで一体どんな世界が見れるのかと期待で胸が一杯だった。
……とは言いつつも、またいじめられないか、周りに認めてもらえるか、そんな不安で胸が押しつぶされそうだったのは言うまでもない。
顔の火傷痕は前髪を伸ばして隠すことにした。さすがに今までのように晒し続けるわけにはいかないから。
志はそのままに最低限の予防線を張った学校生活の初日、毎度の事ながら好奇の視線を浴びた。
編入生、アルビノ、眼帯、それを隠すような長い前髪。文句はない。私だってきっと同じ目を向ける。
すると当然、新しい教室では質問攻めを食らう羽目になる。
「あの激ムズ試験を過去最高成績で合格ってホント!?」
「髪、綺麗だね。肌も瞳も!」
そんな声がいくつも投げられた。
対人関係が苦手な私としては、少々辛かった。でも、私の髪や肌や瞳を気味が悪いと言う人は一切居なかった。
私はその事実がただただ嬉しくて思わず泣きそうになった。やはり私は限界だったのだろうと、今になって思う。
しかし、大勢の人々が私に興味を示す中、とある二人だけは違った反応を見せた。
一人は、伸びっぱなしの襟足と気怠げな表情の少年。彼は隣の席でヘッドフォンをして本を読んでいた。
もう一人は、そんな彼の前の席に座る腰あたりまで伸びた黒髪の少女。彼女は自分の腕に顔をうずめ寝息を立てていた。
他の生徒が離れたあと、気怠げな彼を尻目に見ていると、不意にヘッドフォンを外してこちらに振り返ってくる。
「あれ、確か編入生だっけ」
「う、うん。はじめまして、久遠玲……です。これからよろしく」
「ふ〜ん、よろしく〜」
適当に返事をしながら、私は動揺と寒気を覚えた。
彼の瞳はまるで鉛のようだった。鉛の瞳には私が、全てが映っていないように見えたのだ。
だが、それが私の心を動かした。私の事を特別視しない彼に興味が湧いた。
だけど、そんな興味はすぐに失われた。
彼の本質はただ、どこまでも無気力で無関心で無感動なだけだった。
授業は寝るし、やる気も向上心もない。私が最も嫌いな事勿れで過ごす人間だった。
こんなに頭が良い高校で過ごして可能性に溢れているというのに、その可能性を手放している姿に呆れていた。
だが二転三転、その評価は更に覆る。
五月の初め、実力テストの結果が発表されるタイミングの事だった。
この学園は三十位以上の人を成績優秀者として貼り出すらしい。そこで私は一位を取れるように努力した。驕りではなく一位になれるだけの実力があるという自覚もあった。
――だが、現実は違った。順位の一番上に書かれた名前はあの怠惰な少年だった。
ふと、視線を右に逸らすと彼がいた。彼は「またか……」といった感じで嘆息を漏らし、その場を後にする。
そんな態度の彼に対して、私の胸には身に覚えのない感情が渦巻いた。
そう、ここからが彼、"安心院奏斗"との出逢いの物語である。
―――
実力テストの結果が公表された同日、放課後のこと。
空き教室にて、私は安心院奏斗と対峙していた。
「わざわざ呼び出して、話ってのは実力テストの件だろ?」
目に浮かぶは冷たい鉛。なのに、口元は歪んでヘラヘラと笑っている。
「なんで、アナタなのよ……!」
私は彼を睨みつけた。今まで抑え込んでいた感情のままに。
「アナタはどうせ、ろくに勉強もしてないんでしょ!?」
「失礼だな……まぁ、事実だけど」
「ここでも一番に成れるように努力した。私は一番にならないと……! なのに、アナタが――」
このときの私は尋常ではなかった。矜恃が傷ついた焦りで身に覚えのない感情に委ねて八つ当たりをしていた。
しかし、彼はそんな私を肯定するが如く、真っ直ぐに捉えて言った。
「やっと理解できたんじゃないか? 君が俺に抱いてる感情は、今まで周りの人間が君に抱いていた感情と同じものだ」
その言葉に思考が止まる。
「一目見たときから気づいたよ。いじめられてただろ。優秀すぎるが故に、人と違うが故に」
ガラス玉のような澄んだ瞳で告げられた余りに無遠慮な言葉。しかし、その無遠慮さが私の閉ざした心に重く響く。
「あぁ、いや、すまん。……デリケートな部分だったよな。はぁ……俺はいつもそうだ。知ったような口を利いて、人の心にズカズカと踏み込む。ムカつく気持ちもわかるよ、ボーッと生きてるやつが全てを掠め取って行くんだから」
私の心に届いているとも知らずに、彼は滔々と独り言のように話を進めながら自虐的に笑う。
私にはそれが面白くて、面白いのに――目頭が熱くなる。
「……もしかしてアナタも?」
「俺も、苦労した時期があったよ」
前髪をいじりながら、ため息を吐いた。
「貴方のこと、無気力で怠惰な人間だと思ってた」
「言葉が強いな……」
「でも……なるほど。貴方はなんでも出来るが故に何もやらないのね」
「そんなのただの言い訳だ」
「それに人の感情を読み取るのが得意なのね。エスパーかと思ったわ」
「人との距離を見誤って何度も問題を起こしたがな」
彼は再び鉛の瞳に戻って眉根を寄せる。その苦労が滲んだ表情に、初めて誰かと同じ目線で話せているような気がした。この人の事なら理解も共感も容易だった。
「ごめんなさい、貴方に対する評価を見誤ってた。その……虫がいいのはわかってるし、貴方こそ良ければなのだけれど、初めての友達になって欲しい……です」
目を泳がせながら早口でまくしたてる私を見て、彼は微笑んだ。
「あぁ、こちらこそ。名前で呼んでくれると助かるよ、妹いるし」
「じゃあ、私の事も名前で……」
この日、大きな一歩を踏み出した。友人というものは初めてだけれど、理解されない異端同士でうまくやっていけそうな気がした。
それからというもの、彼のおかげで特に辛いことも無く、彼の妹とも仲良くなり、楽しく過ごせた。
彼は相変わらず真面目に授業を受けていなかったが不思議と不快感はなく、むしろ惹かれていった。
そのまま時は流れ、学園中が文化祭準備に追われている季節の十一月末。
私達のクラスはお化け屋敷を出店することとなり、嫌々ながらもクラスの実行委員となった彼の采配により、準備はかなりスムーズに進んでいた。
そんなある日、後の学園生活を左右する忘れられない決定的な事件が起こる。
それは私達が文化祭の買い出しを頼まれたときのことだった。
茜色に染まる空の下、買い出しを終え学園への帰路に着いたとき、私は視界の先に嫌なものを捉えた。
今はもう着ることの無い見慣れた制服。それを着る忌むべき汚濁に塗れた顔。見間違えるはずがない。目の前にいるのは私をいじめてきた奴らの一部だった。
「お、久遠じゃん、きぐー」
その集団もこちらに気づき、リーダー格の男に声をかけられる。
その途端、私の体は動かなくなった。今まであの苦しさを忘れていたから過敏になっていたのだろうか。
私が固まっていると、その軽薄そうな男は舌打ちを一つして一歩進む。
「あー、やっぱりお前見てるとムカついてくるなぁ。もう発散できなくなっちゃったし、ストレス溜まってんだわ」
脈絡のない、理不尽なことを言いながら近づいてくる男。一歩一歩踏みしめる男に私が怯えていると、彼が私と男の間に割って入ってくる。
「なんだ? テメェ」
「反吐が出る……」
「どけよ」
男は突然拳を振りかざし、奏斗の顔面に命中させる。体がよろけ、彼の鼻からは血が滴っていた。だが、男は間髪入れずに殴り続ける。
私は何もすることが出来なかった。私のために殴られている姿が辛くて目をつぶったその時、彼の呟きが耳に入る。
「こんなもんだろ」
しこたま殴られているのに、彼はニヤッと笑って鼻血を拭った。
その瞬間、彼が視界から消える。そして、次に目にしたのは男の顎に蹴りが炸裂し気絶した姿だった。
「卍蹴りとか久しぶりだわ、制服でも結構できるな」
「な、何してくれてんだお前!」
また別の男がそう叫び、殴り掛かる。だが、いとも容易く彼は身をかわし、その男は的確に殴られ蹴られ気絶する。男はあと四人居たが結果は変わらない。
私は呆然と彼の背中を眺めていた。
基本無表情な彼が、私のために激情を顕にしている。
その見た事もない表情に胸が高鳴った。彼の表情をもっと知りたかった。
「ふぅ……大丈夫か?」
陶然と眺めていると、血を流す人間から似つかわしくない言葉をかけられ我に返る。
「そ、そんなことよりも貴方は大丈夫なの!?」
「これくらい平気さ。しっかり見極めたし」
「なんでわざわざ殴られに……?」
「正当防衛を主張するために」
彼はボロボロの姿でケロリと笑顔を浮かべる。そして、地に伏した奴らを見下ろした。
「絵に描いたようなクズだったな」
「……」
「……騒ぎになる前に離れるぞ」
彼は私の手を引いて足早にその場を後にする。
「はぁ……シャツが血でダメになっちゃった」
「私のせいだよね……っ。ごめんなさ――」
「待った。聞き入れるのはお礼だけだ」
「じゃ、じゃあ……」
「だとしても、あんな過去ぶち壊すべきだ!! って俺が勝手に思っただけで、要するにただのお節介。よってお礼も言う必要は無し!」
きっぱり告げた彼に思わず笑みがこぼれる。そして、小さな声でボソッと呟いた。
「変な人……」
思えば常に追われていた人生。何一つ楽しかったと言えることが無い人生。それも気づけば全てが変わっていた。心の鍵は彼がぶち壊した。
私は立ち止まり、握られた手を引っ張って彼の足を止める。
「ねぇ、奏にぃ」
ずっと前から、貴方といると心臓がうるさいの――
ずっと前から、傍に居て欲しかったの――
ずっと前から、好きだったの――
「――私と付き合ってください」




