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精霊の花嫁  作者: 3色あんこ


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第5話 あなたの味



 花嫁が目を覚ましたとき、隣には夫がいた。

 白い寝台。薄絹のカーテン。窓から差し込む柔らかな光。

 そして、自分を抱きしめる、懐かしい腕。


「……おはよう、旦那様」


 囁くように声をかけると、夫がゆっくりと目を開いた。


「おはよう、私の花嫁」


 彼は微笑み、彼女の額に口づけた。

 その姿は、何ひとつ変わっていなかった。

 銀色の髪も、深い森のような瞳も、白い肌も。


 彼女がどれほど長く眠ろうとも、夫はいつも同じ姿で、同じように彼女を迎えてくれる。


「……旦那様」

「なんだい?」

「旦那様は、ずっと変わらないのね」


 夫は目を細めた。


「そうだね。私は精霊だから」

「私も、いつか旦那様のようになるのでしょうか」

「ああ。きっとね」


 彼は彼女の髪を撫でた。


「その日が来るのを、楽しみにしているよ」


 花嫁は嬉しそうに微笑んだ。

 以前なら、永遠に生きるという言葉を、恐ろしいと思ったかもしれない。

 人間ではなくなること。

 故郷を忘れてしまうこと。

 いつか、自分を愛してくれた人たちの顔さえ思い出せなくなること。

 けれど、今の花嫁には、それらがひどく遠い話に思えた。


 彼がいる。

 それだけで、何も怖くなかった。



◇


 その日の昼、花嫁は夫と食卓を囲んでいた。

 テーブルには、焼きたてのパン、透き通るような果実、花の蜜を使った菓子が並んでいる。

 どれも、見慣れた美しい料理だった。

 けれど、花嫁はふと、あることに気がついた。


「旦那様は、食べないのですか?」


 夫は銀の匙を置いた。


「私は、食事を必要としないからね」

「でも、以前からずっとそうだった」


 花嫁は首を傾げた。


「私が眠る前も、目覚めたあとも。旦那様が食べているところを、ほとんど見たことがないです」

「そうだったかな」

「はい、それに……」


 花嫁は夫の手を取った。

 白く美しい手。

 長い指。滑らかな肌。

 傷ひとつない。


「旦那様には、傷がひとつも無いです」


 夫は彼女を見つめた。


「傷?」

「はい、私が小枝に指を引っかけたとき、傷口から花弁が出てきましたでしょう?」

「ああ」

「でも、旦那様は怪我をしないの?」


 夫はしばらく黙っていた。

 花嫁はその沈黙を、不思議そうに見つめた。


「私、最近ときどき思うの」

「何を?」

「私の身体は、少しずつ変わっている。眠る時間が長くなって、食べる量も減って、血の代わりに花弁が出てくるようになった」


 彼女は自分の指先を見つめた。


「でも、旦那様は何も変わらない」


 そして、夫の顔を見上げた。


「……私の身体には、何が起きているの?」


 その問いに、夫は微笑まなかった。

 彼は彼女の手を握り、指先をそっと撫でた。


「君には、話しておかなければいけないことがある」


 穏やかな声だった。

 けれど、いつもより少しだけ、慎重な響きがあった。


「聞いてくれるかい?」

「もちろんです」


 花嫁は頷いた。


「旦那様のお話なら、何でも聞きたい」


 夫は彼女を見つめた。

 その瞳には、長い年月をかけて育ててきた愛情と、ほんのわずかな恐れが宿っていた。

 彼女が真実を知ったとき、どんな顔をするのだろう。

 彼女は自分を恐れるだろうか。

 それとも、もう何も感じなくなっているのだろうか。

 どちらであっても、彼は彼女を手放すつもりなどなかった。

 それでも、せめて今は彼女自身の口から、答えを聞きたかった。



◇


「君がこの庭に来てから、長い年月が経ったね」


 夫は静かに語り始めた。


「人間の身体は、とても脆い。時間とともに老いていくし、病にもかかる。怪我をすれば血を流し、やがて命を失う」

「……ええ」

「私は、それが嫌だったんだ」


 彼は花嫁の頬に触れた。


「君がいつか老いて、私の知らない場所へ行ってしまうことが。君の身体が弱り、私の腕の中で動かなくなってしまうことが」


 夫の指先が、彼女の頬をゆっくりと撫でる。


「私は、君を失いたくなかった」


 花嫁は彼を見つめた。


「だから、君の食事に私の血を混ぜた」


 あまりにも静かな告白だった。

 まるで、明日の天気を語るように。


「最初は、ごくわずかに。君が気づかないほど少しずつね。菓子に、果実に、蜜に。私の血と肉を混ぜ、君に食べてもらった」


 花嫁は瞬きをした。


「……血と、肉?」

「ああ」


 夫は目を逸らさなかった。


「私の身体の一部を、君の中に取り込んでもらったんだ」


 彼の声は、最後まで穏やかだった。


「精霊の血肉には、魔力だけではなく、私自身の性質が宿っている。人間の身体には強すぎるから、一度に与えることはできなかった。だから、何日も何ヶ月も何年もかけて、少しずつ」


 彼は彼女の手を両手で包み込んだ。


「君が長く眠るようになったのも。傷口から花弁がこぼれるようになったのも。人間だった頃の記憶が薄れているのも」


 夫は一度、言葉を切った。


「すべて、そのためなんだ」


 食堂が静まり返った。

 窓の外では、白い花が揺れている。

 どこまでも美しい庭。

 いつもと変わらない、穏やかな昼下がり。

 花嫁は自分の手を見つめた。


 この身体の中に、彼の血がある。

 彼の肉がある。

 何日も何ヶ月も何年もかけて、食べてきたもの。

 甘い菓子も、芳しい果実も、眠る前に飲んだ黄金色の蜜も、その中に彼がいた。


「……そうだったのですね」


 花嫁は呟いた。

 夫は彼女を見つめていた。

 恐怖するだろうか。

 怒るだろうか。

 自分の身体を汚されたと感じるだろうか。


 彼は、どんな反応も受け止めるつもりだった。

 たとえ、彼女が自分を嫌いになったとしても。

 けれど花嫁の胸に最初に浮かんだのは、恐怖ではなかった。


 自分の身体の中に、彼がいる。

 自分が食べてきたものの中に、彼がいた。

 彼女が眠っている間も、目覚めている間も。

 彼は、自分の一部を与え続けてくれたのだ。


 自分が老いないように。

 自分が死なないように。

 自分が、彼の隣にいられるように。

 花嫁は、ゆっくりと顔を上げた。


「……そこまでして、私と一緒にいたかったのですか?」


 夫は答えなかった。

 ただ、彼女を見つめていた。

 花嫁の唇に、小さな微笑みが浮かぶ。


「ふふ……」


 夫が息を呑んだ。


「嬉しい」

「……え?」

「だって、旦那様は私を永遠に生かそうとしてくれたのでしょう?」


 花嫁は彼の手を握り返した。


「私が旦那様の隣からいなくならないように。ずっと一緒にいられるように」


 彼女は少しだけ首を傾げた。


「旦那様は、本当に私のことが好きなのですね」


 夫の瞳が揺れた。

 長い年月を生きてきた精霊が、ほんの一瞬、言葉を失った。


 彼は彼女を愛している。

 誰よりも深く。

 誰よりも長く。

 けれど、その愛情が彼女にどう受け取られるのかだけは、最後までわからなかった。


「……君は、怖くないのかい?」


 ようやく、彼は尋ねた。


「私が君に何をしてきたのか、わかったのに」

「怖い……?」


 花嫁は考えるように目を伏せた。

 怖い、という感情を探してみる。

 自分の身体の中に、彼の血肉がある。

 知らないうちに、彼の一部を食べていた。

 それは、人間だった頃の自分なら、恐ろしいことだったのかもしれない。


 けれど、今の彼女には、その恐怖がうまく形にならなかった。

 代わりに胸を満たしていたのは、どうしようもなく温かな感情だった。


「……いいえ」


 花嫁は微笑んだ。


「旦那様が私を愛してくれていることが、わかったんですもの」


 夫は彼女を見つめた。

 彼女の微笑みは、昔と同じだった。

 いや昔よりも、ずっと穏やかで、ずっと彼に似ていた。



◇


 しばらくして、花嫁はふと思いついたように顔を上げた。


「あの、旦那様」

「なんだい?」

「ひとつ、聞いてもいいですか?」

「もちろん」


 花嫁は夫の手を握ったまま、真剣な顔で尋ねた。


「私の血肉を食べたら、旦那様も人間に近づけるの?」


 夫は、きょとんとした。


「……私が?」

「はい」


 花嫁は頷いた。


「旦那様は、私に自分の血肉を食べさせてくれたでしょう?だったら、私の血肉にも、私の性質が宿っているのではないですか?」


 彼女は自分の腕を見つめた。

 そこにはもう、人間だった頃の面影はほとんど残っていない。

 それでも、彼女は考えたのだ。

 自分も何かを与えられるのなら。

 自分も、彼に何かを返せるのなら。

 そうすれば、彼もまた、自分に近づいてくれるのではないかと。

 夫はしばらく彼女を見つめていた。

 やがて、ふっと微笑む。


「いいや、それは難しいだろうね」


 彼は首を横に振った。


「どうして?」

「精霊の血肉には、その存在の性質が宿る。けれど、取り込んだものの性質が、必ずしも相手を変えるわけではないんだ」


 夫は彼女の指先に口づけた。


「君は人間だった。だから、私の血肉を取り込むことで、少しずつ私に近づくことができた」


 そして、穏やかな声で続けた。


「けれど、私は君よりもずっと強い存在だ。私が君の血肉を食べたとしても、私が人間に近づくことはないだろう」

「……そうなの」


 花嫁は少し残念そうに目を伏せた。

 夫は彼女の表情を見て、目を細めた。


「どうして、残念そうなんだい?」

「だって……」


 花嫁は彼の手を握り直した。


「私も、旦那様に何かをしてあげたかったのですが……」


 夫は黙った。


「旦那様は、ずっと私にたくさんのものをくれたから。綺麗なお花も、おいしい果実も、眠る場所も、優しい言葉も」


 花嫁は微笑んだ。


「だから、私も旦那様に何かをあげられたら、嬉しいと思ったのです」


 その言葉に、夫は一瞬、目を閉じた。

 なんと、愛おしいのだろう。

 彼女は、自分がどれほど恐ろしいことをしてきたのか、理解していないわけではないのかもしれない。

 ただ、その恐ろしさよりも、自分が彼女を愛しているという事実を大切にしてくれた。


 そして今度は、彼女自身も、彼に何かを与えたいと願っている。

 夫は花嫁の頬を両手で包んだ。


「君は、もう十分すぎるほど、私にたくさんのものをくれているよ」

「そう、ですか?」

「ああ」


 彼は彼女の額に口づけた。


「君がここにいてくれる。それだけで、私は幸せなんだ」


 花嫁は嬉しそうに笑った。


「……よかった」



◇


 夕暮れが近づく頃、花嫁は夫と庭を散歩していた。

 生垣の蔓が、彼女の手にそっと絡みつく。

 花嫁はいつものように微笑み、その蔓を撫でた。


「今日も元気ね」


 葉が揺れる。

 生垣の根元には、昨日までなかった花が咲いていた。

 淡い水色の花弁。

 その傍らには、紺色の果実が実っている。

 花嫁はそれを見つめ、ふと呟いた。


「……ねえ、旦那様」

「なんだい?」

「私、いつか死ぬのかしら」


 夫の足が止まった。

 花嫁は、生垣から目を離さずに続けた。


「旦那様は、私を永遠に生かそうとしてくれたのでしょう?」

「ああ」

「でも、いつか何かがあって、私が死んでしまうこともあるのかもしれない」


 彼女は少し考えてから、夫を見上げた。


「そのときは、私を食べてくださる?」


 夫は、息を止めた。

 花嫁は、あまりにも自然に微笑んでいた。


「だって、私の中には、旦那様の血肉があるのでしょう?」


 彼女は自分の胸元に手を当てた。


「だったら、私が死んでも、旦那様の中に私が残るのなら……少しだけ、嬉しいと思うの」


 夫は何も言えなかった。

 花嫁は、少し恥ずかしそうに笑った。


「もちろん、そんな日が来ないのが一番だけれど」


 それから、彼の手を握った。


「でも、もしものときはお願いね?」


 長い沈黙があった。

 生垣の葉が揺れ、夕暮れの光が庭を赤く染めていく。

 やがて夫は、花嫁を抱きしめた。

 壊れやすいものを包み込むように。

 もう二度と、どこにも行かせまいとするように。


「……そんな日が来ないことを祈るよ」


 彼は彼女の髪に顔を埋めた。


「私の花嫁」


 その声は、いつもよりもかすれていた。

 花嫁は彼の背中に腕を回した。


「ええ。私も」


 2人は、しばらくそうしていた。

 庭には、甘い花の香りが満ちている。

 遠くで果実が実る音がした。

 生垣の奥では、根が静かに土を這っている。

 誰かの命を吸い、誰かの記憶を呑み込みながら。

 けれど、花嫁はもう、そのことを考えなかった。

 彼女の胸の中には、夫がいた。


 彼の血が。

 彼の肉が。

 彼の魔力が。


 そして、彼女自身のものなのか、それとも彼から受け取ったものなのか、もう区別のつかないどうしようもない愛情があった。

 花嫁は夫の胸に頬を寄せた。


「……旦那様」

「なんだい?」

「私、旦那様の味を覚えているわ」


 夫の腕が、わずかに強まった。


「果実を食べたときも、蜜を飲んだときも。いつも、旦那様のそばにいるような気持ちになったの」


 花嫁は目を閉じた。


「だから、ずっと安心出来ていたのかもしれない」


 夫は答えなかった。

 ただ、彼女を抱きしめ続けた。

 それが愛情だったのか。

 罪悪感だったのか。

 あるいは、彼女がいつか自分から離れてしまうことへの、恐怖だったのか。

 彼自身にも、もう区別はつかなかった。


 ただ、ひとつだけ確かなことがある。

 彼は彼女を愛している。

 そして彼女もまた、彼を愛している。

 その愛が、どこから始まったのか。

 どこまでが彼女自身の心なのか。

 今となっては、誰にもわからない。


 生垣の向こうで、ひとつの果実が熟した。

 銀色の皮に、赤い光がひとすじ走る。

 やがて果実は、音もなく地面へ落ちた。

 その実を、蔓が静かに土の下へ引きずり込んでいく。


 庭は今日も美しかった。

 花嫁は今日も幸せだった。

 そして夫は、彼女を抱きしめながら、いつまでも終わらない願いを胸の中で繰り返していた。


──どうか、君が死ぬ日など来ませんように。

──どうか、君が私を恐れる日など来ませんように。

──どうか、君が私を愛してくれますように。


 その願いの中に、どれほどの祈りがあり、どれほどの身勝手さがあったのか。

 もう、彼にもわからなかった。

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