第4話 百年のまどろみ
花嫁が初めて長い眠りに落ちたのは、白薔薇が咲き誇る春の日だった。
その朝、彼女はいつもと変わらず目を覚ました。
「おはよう、私の花嫁」
「おはようございます、旦那様」
夫に髪を梳いてもらい、朝食を食べ、庭を散歩する。
庭の隅には、見たことのない花が咲いていた。
果樹園には、銀色の果実が実っている。
花嫁はそれを見て、嬉しそうに微笑んだ。
けれど、昼を過ぎた頃から、妙な眠気に襲われるようになった。
「……なんだか、眠いです」
花嫁は小さく欠伸をした。
いつもなら、この時間に眠くなることなどなかった。
夜には夫と一緒に食事をして、庭の話をして、それから寝室へ戻る。それが毎日の楽しみだった。
「少しお休みになるかい?」
夫が尋ねる。
「ええ……ですが、まだお話ししたいことがあるんです」
「話なら、明日でもできるよ」
彼は彼女の頬を撫でた。
「君が眠るまで、そばにいるから」
花嫁は微笑み、夫の手に頬を寄せた。
「……じゃあ、少しだけ」
寝台に横たわると、夫が掛布を整えてくれた。
いつものように額へ口づけが落ちる。
彼の匂いがする。
懐かしくて、温かくて、どこよりも安心できる匂い。
「おやすみ、私の花嫁」
「……おやすみなさい、旦那様」
それが、その日最後の会話だった。
花嫁は深い眠りへ落ちていった。
夫は寝台の傍らに腰を下ろし、彼女の寝顔を見つめていた。
やがて窓の外では、日が沈み、月が昇った。
それでも彼女は目を覚まさなかった。
翌朝も。
その次の日も彼女は、眠り続けた。
◇
夫は毎朝彼女に声をかけた。
「おはよう、私の花嫁」
返事はない。
夫は微笑み、彼女の髪を撫でた。
「よく眠っているね」
3日が過ぎた。
1週間が過ぎた。
庭では新しい花が咲き、果実が実り、季節のない世界に変わらぬ朝が訪れた。
夫は毎日、花嫁のもとへ通った。
食事を用意し、彼女の身体を清め、髪を梳き、額に口づけた。
眠る彼女の指先から、時折、小さな花弁がこぼれ落ちる。
夫はそれを拾い、掌の中でそっと消した。
「もう少しだよ」
彼は囁いた。
「もう少しで、君もこちら側に来られる」
声には焦りも不安もなかった。
あるのは、長い時を待つ者の静かな喜びだけだった。
やがて、2週間が過ぎ、3週間が過ぎた。
そして、1ヶ月目の朝。
花嫁は、ようやく目を覚ました。
「……ん……」
まぶたが重かった。
長い夢から浮かび上がるように、花嫁はゆっくりと目を開いた。
見慣れた天蓋。
白いカーテン。
窓から差し込む、柔らかな光。
そして──
「おはよう、私の花嫁」
寝台のそばに、夫がいた。
彼は少しも変わらない姿で、彼女を見つめていた。
「……旦那様?」
「ああ。おはよう」
夫が微笑む。
その顔を見た途端、花嫁の胸に安堵が広がった。
「私……どうして……」
「1ヶ月ほど眠っていたんだよ」
「1ヶ月……?」
花嫁は目を丸くした。
そんなに長い間、眠っていたのだろうか。
夢を見ていたような気もする。
誰かの声を聞いたような気もする。
けれど、思い出そうとすると、指の隙間から砂がこぼれるように、何もかもが消えてしまう。
「私、そんなに長く……?」
「そうだよ。でも、心配はいらない」
夫は彼女の手を取った。
「君は、少しずつ変わっているんだ」
「変わって……?」
「ああ。人間の身体では、永遠を生きることは難しいからね」
彼は彼女の手の甲に口づけた。
「君が長く眠るのも、そのためだよ」
花嫁は自分の手を見つめた。
指先は白く、傷ひとつない。
以前、小枝に引っかけた場所も、もう跡さえ残っていなかった。
「……私、怖い夢を見た気がするんです」
「どんな夢だい?」
「わからないのです。誰かを探していたような……でも、誰だったのか、思い出せなくて」
夫の手が、彼女の髪を撫でる。
「忘れてしまったのなら、無理に思い出さなくていい」
優しい声だった。
「君は、ゆっくり休めばいいんだよ」
花嫁は夫を見つめた。
彼の瞳は、いつもと変わらず深い森の色をしている。
そこには、何の不安も、何の迷いもない。
だから花嫁も、頷いた。
「……そうですね」
思い出せないことがあっても、いいのかもしれない。
だって、ここには彼がいる。
自分を愛してくれる、たったひとりの愛しい人が。
◇
目覚めた花嫁は、以前よりも少しだけ変わっていた。
まず、空腹をほとんど感じなくなった。
食卓に並ぶ果実や菓子は、今までどおり美味しかった。けれど、ほんの少し口にするだけで満たされてしまう。
眠気も変わらなかった。
起きている時間は以前より短くなり、昼食を終える頃には、まぶたが重くなる。
そして、記憶。
それが最も奇妙な変化だった。
ある日、花嫁は夫と果樹園を歩いていた。
木々の枝には、淡い金色の果実が実っている。
「あの、旦那様」
「なんだい?」
「私が生まれた場所って、どこだったでしょうか?」
何気ない問いかけだった。
夫は歩みを止めた。
「……どうして、そんなことを?」
「なんとなく気になったので……私、人間だった頃のことを、あまり覚えていない気がするのです」
花嫁は困ったように笑った。
「故郷の名前も、家族の顔も……思い出そうとすると、ぼんやりしてしまうようで」
かつて、自分を呼ぶ声があった気がする。
誰かと手を繋いで歩いた記憶がある気がする。
温かな食卓と、夕暮れの匂い。
そんなものが、遠い遠い夢の向こう側にある。
けれど、誰の声だったのか。
誰の手だったのか。
どうしても、わからなかった。
「私には、お父様やお母様がいたのかしら」
夫はすぐには答えなかった。
やがて彼は、彼女の頬に手を添えた。
「君には、私がいるよ」
花嫁は瞬きをした。
「……ええ」
「私は君を愛している。これからも、ずっと」
彼の声は穏やかだった。
「だから、思い出せないことを悲しまなくていい」
花嫁は彼を見つめた。
その言葉を聞くと、胸の奥にあった小さな寂しさが、ゆっくりと溶けていった。
「……そう、ですね」
彼女は微笑んだ。
「旦那様がいてくださるんですものね」
「ああ」
夫は彼女を抱き寄せた。
花嫁は彼の胸に頬を寄せる。
そこから聞こえる音は、ゆったりとしていて、深い森の奥で響く水音にも似ていた。
人間の心臓とは違う。
けれど、花嫁は不思議に思わなかった。
以前は、そんな違いを気にしたことがあっただろうか。
もう、よく覚えていなかった。
◇
それから、花嫁の眠りは少しずつ長くなっていった。
3ヶ月。
半年
一年。
三年。
目覚めるたび、彼女は少しずつ何かを忘れていた。
故郷の名前。
人間だった頃に好きだった歌。
誰かと交わした約束。
それらは、夢の中に咲く花のように、目覚めれば輪郭を失ってしまう。
けれど、ひとつだけ、忘れないものがあった。
夫の顔。
夫の声。
彼が自分を呼ぶときの、あの優しい響き。
「おはよう、私の花嫁」
その声を聞くと、どれほど長く眠っていても、花嫁は安心できた。
「……おはようございます、旦那様」
彼女はそう答え、微笑む。
夫はそのたび、心から嬉しそうな顔をした。
目覚めた彼女を抱きしめ、髪を撫で、額に口づける。
そして、何度も昔話を聞かせた。
この森が生まれた頃の話。
まだ庭に一本の木もなかった頃の話。
彼が初めて花を咲かせた日の話。
月が湖に落ちた夜の話。
人間が知らない、長い長い時間の物語。
「昔、この森には、銀色の花が咲く泉があったんだよ」
ある日、夫はそう語った。
花嫁は寝台の上で彼の話に耳を傾けていた。
「銀色の花?」
「ああ。月の光を受けると、花弁が星のように輝くんだ」
「見てみたいです」
「いつか、連れていってあげよう」
夫は彼女の髪を撫でた。
「君がもう少し元気になったらね」
花嫁は嬉しそうに微笑んだ。
「約束ですよ?」
「もちろん」
彼は、花嫁が眠っている間に咲いた花のことも、庭の果樹が実らせた珍しい果実のことも、たくさん話して聞かせた。
花嫁はそれを聞きながら、幸せそうに目を細めた。
自分が眠っている間も、世界は変わらず美しかったのだ。
そして、目覚めれば必ず、彼が待っていてくれる。
それだけで十分だった。
けれど花嫁が人間だった頃の話を尋ねると、夫は決まって言葉を濁した。
「ねえ、旦那様。私が昔住んでいた家は、どんなところだったのでしょうか?」
「……どうして、そんなことが気になるんだい?」
「夢に出てきた気がするのです。小さなお家と、窓辺に咲いていたお花。それから……誰かが私を呼んでいた……」
夫は彼女を見つめた。
その瞳に、ほんのわずかな影が差した。
「夢は、記憶を曖昧にするものだよ」
「そうなの?」
「ああ。無理に追いかける必要はない」
彼は彼女の額に口づけた。
「君には、これから私と過ごす永遠があるのだから」
花嫁は、その言葉を心の中で繰り返した。
私と過ごす永遠。
なんて素敵な響きだろう。
「……ええ。そうですね」
彼女は微笑んだ。
「私、旦那様と一緒にいられれば、それだけでいいです」
夫は彼女を抱きしめた。
その腕に、わずかに力がこもった。
「そうだね」
彼は囁いた。
「それでいいんだよ」
◇
花嫁が3度目の長い眠りについたのは、それから間もなくのことだった。
目を覚ましたとき、庭の景色はほとんど変わっていなかった。
白い薔薇。
銀色の果実。
緑の生垣。
季節のない庭には、いつもどおりの朝が訪れていた。
ただ、彼女の眠りは以前より長かった。
夫が告げた眠りの長さは、7年。
花嫁は驚いたものの、やがて納得した。
自分の身体は、少しずつ変わっているのだ。
人間ではないものへ。
永遠を生きるものへ。
だから、長い眠りも必要なのだろう。
「旦那様は、寂しくなかったのですか?」
目覚めた花嫁は、夫に尋ねた。
夫は一瞬、目を見開いた。
「……寂しかったか、だって?」
「ええ。私、7年も眠っていたのでしょう?」
花嫁は申し訳なさそうに眉を下げた。
「その間、旦那様はずっとひとりだったから……」
夫は彼女の顔をじっと見つめた。
そして、ふっと笑った。
「そうだね。少し寂しかったよ」
「ごめんなさい……」
「謝らなくていい」
彼は彼女の頬に触れた。
「だから、今度は私も一緒に眠ることにしたんだ」
「……一緒に?」
「ああ。君が眠っている間、私も隣にいよう」
花嫁は目を丸くした。
「でも、旦那様は眠らなくても平気なのでは?」
「そうだね」
夫は穏やかに答えた。
「けれど、君の隣で眠るのは、思っていたより心地よかったんだよ」
花嫁は嬉しくなって、彼の手を握った。
「じゃあ、次は一緒に眠りましょう?」
「もちろん」
夫は彼女の額に口づけた。
「次も、その次も。君が目覚めるときには、必ず隣にいるよ」
花嫁は幸せそうに微笑んだ。
彼がそばにいてくれる。
それなら、どれほど長く眠っても怖くない。
たとえ、百年眠ることになったとしても。
◇
その夜、花嫁は夫の腕の中で眠った。
寝台に横たわり、彼の胸元へ頬を寄せる。
夫は彼女の髪を撫でながら、静かに目を閉じた。
精霊にとって、眠りは必ずしも必要なものではない。
まして、彼ほど古く強大な存在ならば、何千年と目を閉じずに過ごすことさえできた。
それでも彼は、彼女の隣で眠ることを好むようになった。
彼女が眠っている間も、彼女の手を握っていられる。
目覚めるまで、ずっと抱きしめていられる。
そして何より彼女が目覚めたとき、最初に見るものが自分であると、確かめられる。
それは、彼にとって何にも代えがたい幸福だった。
「おやすみ、私の花嫁」
彼は囁いた。
花嫁は、もう眠っていた。
その指先から、ひとひらの花弁がこぼれ落ちる。
白い花弁は、寝台の上で静かに消えた。
夫はその様子を見つめ、満足そうに微笑んだ。
彼女の中にあった人間の記憶は、少しずつ薄れていく。
家族の顔も。
故郷の名も。
かつて彼女が愛したものも。
それらはもう、彼女をこの庭から連れ出すことはできない。
彼女が覚えているのは、夫の声。
夫の温もり。
夫と過ごす、永遠の庭。
そして、彼女自身も気づかぬうちに、夫の腕の中を世界の中心だと思い始めていること。
夫は彼女を抱きしめ、深い眠りへと落ちていった。
窓の外では、生垣が静かに葉を揺らしている。
根の下には、忘れられた人間たちが眠っていた。
かつて彼女を救おうとした者たち。
彼女の名前を呼んだ者たち。
彼女が人間だった頃の世界から、ここまで辿り着いた者たち。
彼らの名は、もう誰にも呼ばれない。
彼女自身でさえ、思い出せない。
その代わりに、庭には新しい花が咲き続ける。
彼女が目覚めるたび、見たことのない花が増えている。
彼女が眠るたび、庭は少しずつ豊かになっていく。
そして、彼女が次に目覚めたとき。
夫は、変わらぬ姿で微笑むのだろう。
「おはよう、私の花嫁」
その声を聞けば、彼女はきっと微笑む。
「……おはようございます、旦那様」
たとえ、その声以外のすべてを忘れてしまっても。
彼女はもう、疑問に思わないのかもしれない。
なぜ自分は、ここにいるのか。
なぜ、帰る場所を思い出せないのか。
なぜ、愛する人の腕の中だけが、こんなにも安らぐのか。
彼女が眠るたび、記憶は薄れていく。
その代わりに、愛情だけが深く根を張っていく。
まるで、彼女自身が庭の花になっていくように。
いつか、人間だった頃の記憶が、ひとつ残らず消えたとしても。
夫はきっと、彼女を抱きしめるだろう。
そして、何度でも同じ言葉を囁くのだ。
「忘れてしまったのなら、無理に思い出さなくていい」
「君には、これから私と過ごす永遠があるのだから」
それは、優しい言葉だった。
花嫁を安心させる、愛情に満ちた言葉だった。
そして同時に彼女が二度と、元の世界へ帰れなくなるための、静かな呪いでもあった。




