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精霊の花嫁  作者: 3色あんこ


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3/6

第3話 棘の生垣



 花嫁は、庭を囲む生垣が好きだった。


 屋敷の裏手から果樹園の向こうまで、途切れることなく続く巨大な生垣。

 緑の葉が幾重にも重なり、その隙間からは、鋭く長い棘が覗いている。

 人の背丈の何倍もあるそれは、庭を外の世界から隔てる壁でもあった。


 けれど、花嫁は恐ろしいと思ったことがない。

 初めて触れた日から、生垣は彼女に優しかった。

 花嫁が指先を伸ばせば、細い蔓がそっと手首に巻きつく。

 彼女が近づけば、葉がさわさわと揺れ、緑の奥から小さな花が顔を覗かせる。

 まるで、彼女が来るのを待っていたかのように。


「こんにちは」


 花嫁が声をかけると、生垣の葉が揺れた。


「ふふ。あなたも、お返事してくれるのね」


 蔓が彼女の手の甲を撫でる。

 その感触は、幼い獣が甘えるようにも、誰かが愛おしいものに触れるようにも思えた。

 花嫁は目を細めた。


「あなたは、私が好きなの?」


 答えるように、蔓が指先へ絡みつく。

 棘は、彼女の肌を傷つけなかった。

 その鋭い先端は、まるで見えない手に押さえられているかのように、花嫁から遠ざかっていた。


「私も、あなたが好きよ」


 そう囁くと、生垣は嬉しそうに葉を震わせた。

 花嫁は知らない。

 その蔓が、彼女以外の人間には決して同じ振る舞いをしないことを。

 その棘が、かつて数えきれないほどの人間の身体を貫いてきたことを。

 そして、その緑の壁が、ただの植物ではないことを。



◇


 ある日の午後。

 花嫁は、生垣のそばで小さな白い花を摘んでいた。

 この庭には、毎日のように新しい花が咲く。

 見たことのない形、嗅いだことのない香り、季節を無視した色彩。

 花嫁にとって、庭を散歩することは何よりの楽しみになっていた。


「……たすけて……」


 かすかな声が聞こえた。

 花嫁は顔を上げた。


「え……?」


 風の音だろうか。

 耳を澄ませる。


「……たすけて……」


 今度は、はっきりと聞こえた。

 生垣の向こうからだった。

 花嫁は摘んだ花を握りしめ、ゆっくりと立ち上がった。


「どなたか、いらっしゃるの?」


 返事はない。

 けれど、確かに声がした。

 か細く、苦しげで、何かを必死に訴えるような声。


「大丈夫ですか?今、そちらへ……」


 花嫁が生垣に近づく。

 すると、足元の蔓が動いた。

 いつもなら優しく手に絡みつく蔓が、今日は彼女の足首へ巻きついている。


「まあ……?」


 引き止められている。

 そう気づいた瞬間、生垣の奥から、もう一度声がした。


「……たすけ……」


 今度は途中で途切れた。

 何か重たいものが地面を引きずられるような音がした。


 ずるり。

 ずるり。


 花嫁は息を呑んだ。


「誰かいるのね!」


 蔓をほどこうとした、そのとき。


「何をしているんだい?」


 背後から声がした。

 振り返るより早く、花嫁の身体がふわりと浮いた。


「きゃっ!」


 夫が彼女を抱き上げていた。

 いつもと変わらない、穏やかな顔。

 けれど、その腕は普段よりも強く、彼女を胸元へ抱き寄せていた。


「旦那様!今、向こうから声が……!」

「聞こえたのかい?」

「ええ。誰かが助けてって……」

「そうか」


 夫は生垣を一瞥した。

 その瞳から、温かな色が消えたように見えた。

 ほんの一瞬次に花嫁を見たときには、いつもの優しい眼差しに戻っていた。


「森が君を惑わせているんだよ」

「森が……?」

「あちらには、君に見せたくないものがある」


 夫はそう言って、花嫁の髪を撫でた。


「だから、近づいてはいけない」


 花嫁は生垣を振り返った。

 葉は静かに揺れている。

 先ほどの声は、もう聞こえなかった。


「でも、誰かが困っているのかもしれないわ」

「君は優しいね」


 夫の声は、どこまでも穏やかだった。


「けれど、すべてのものを助けることはできないんだよ」

「……そうなの?」

「ああ。君は、君自身を大切にしなくてはいけない」


 彼は花嫁の額に口づけた。


「君に何かあったら、私は悲しい」


 その言葉を聞くと、花嫁は何も言えなくなった。

 彼を悲しませたくない。

 彼を困らせたくない。

 彼が自分を心配してくれることが、嬉しかった。

 だから、花嫁は夫の首に腕を回した。


「ごめんなさい、旦那様。もう近づかないわ」

「いい子だね」


 夫は微笑んだ。

 そのまま彼女を抱き上げ、屋敷へと戻っていった。

 背後では、生垣の葉がゆっくりと揺れていた。

 まるで、遠ざかる花嫁を見送るように。



◇


 その夜、花嫁は夢を見た。


 暗い森だった。

 月明かりはなく、空には星ひとつ見えない。

 足元には湿った土が広がり、どこからか、鉄のような匂いが漂っていた。


 花嫁はひとりで立っていた。

 どうしてここにいるのか、わからない。

 誰かを探していた気がする。

 けれど、誰を探しているのかも思い出せなかった。


「……あら?」


 目の前に、何かが落ちていた。

 泥にまみれた手だった。

 人間の手。

 指先は青白く、手首には鋭い棘が深々と食い込んでいる。

 花嫁は息を呑んだ。


「……どうして……」


 その手には、銀色の指輪が嵌められていた。

 指輪の表面には、細かな傷が幾つも刻まれている。

 誰かの名前が彫られているようだった。

 けれど、泥に覆われていて読めない。


 花嫁が手を伸ばそうとすると、地面が動いた。

 土の中から、無数の根が這い出してくる。

 根は、手首へ絡みついた棘を伝い、赤い液体を吸い上げていた。


 ずるり。


 ずるり。


 手が、土の中へ引きずり込まれていく。


「待って……!」


 花嫁は駆け寄ろうとした。

 けれど、足が動かない。

 根はさらに伸び、指輪も、手も、何もかもを土の下へ呑み込んでいった。

 最後に残ったのは、赤い染みだけだった。

 その染みを、根がゆっくりと吸い込む。


 そしてその場所から、小さな白い芽が顔を出した。

 芽はみるみるうちに伸び、茎を伸ばし、幾重もの花弁を開いていく。

 美しい白い花だった。

 朝露のような光を宿し、雪のように清らかな花弁を持つ花。


 花嫁は、その花を知っていた。

 昨日、庭で見た花。

 一昨日、屋敷の窓辺に咲いていた花。

 毎朝、彼女を迎えてくれる花。


 どうして。

 どうして、こんなところから咲くの?


 花嫁が問いかけようとした瞬間、白い花の中心から、か細い声が聞こえた。


「……たすけて……」


 花嫁は目を見開いた。


「……っ!」


 目を覚ますと、そこは寝室だった。

 窓の外は、柔らかな朝の光に満ちている。

 花嫁は荒い息を繰り返しながら、自分の手を見つめた。


 何もない。

 泥も、血も、指輪も。

 ただ、いつもと変わらない白い指があるだけだった。


「夢……?」


 そう呟いたとき、寝室の扉が開いた。


「おはよう、私の花嫁」


 夫が入ってくる。

 その声を聞いた途端、胸の奥にあった恐怖が少しずつ薄れていった。


「旦那様……」

「どうしたんだい?顔色がよくないね」


 夫は寝台のそばに腰を下ろし、彼女の頬に触れた。

 花嫁はその手に縋るように、自分の手を重ねた。


「怖い夢を見たんです」

「そうか。どんな夢だったんだい?」

「森の夢です。棘があって……人の手があって……」


 言葉にするうちに、夢の光景が蘇る。

 泥にまみれた指輪。

 赤い液体を吸い込む根。

 そこから咲いた白い花。

 花嫁は夫を見上げた。


「旦那様……あの生垣は、どうしてわたしには優しいのでしょうか?」


 夫の指が、彼女の髪を梳いていた。

 その動きが、ほんのわずかに止まる。


「どうして、そんなことを聞くんだい?」

「昨日、生垣の向こうから声が聞こえたんです。助けてって。それに、夢の中でも……」

「夢は、夢だよ」


 夫は静かに言った。


「ですが……」

「生垣が優しいのは、君がこの庭の大切な住人だからだよ」


 夫は花嫁の髪を撫でた。


「生垣も、それを知っているんだ」

「わたしが、大切だから……?」

「ああ」


 彼は迷いなく頷いた。


「君は、この庭にとっても特別な存在なんだ」


 その言葉に、花嫁の心はゆっくりとほどけていった。

 そうなのだ生垣は彼女を傷つけない。

 蔓は優しく触れてくれる。

 葉は彼女が近づくと揺れ、花は彼女のために咲いてくれる。

 きっと、生垣も彼女を好きなのだろう。


「……よかった」


 花嫁は微笑んだ。


「わたし、生垣のことが好きなんです。あの子も、私を好きでいてくれるなら嬉しい」

「そうだね」


 夫も微笑んだ。

 そして彼女を抱き寄せ、その頭を胸元へと導いた。


「君は、何も心配しなくていい」


 その胸からは、いつもの懐かしい匂いがした。

 花嫁は目を閉じた。

 夢の中の赤い染みも、泥にまみれた指輪も、少しずつ遠ざかっていく。


 夫の腕の中は温かかった。

 ここにいれば、何も怖くない。

 何も考えなくていい。

 彼がそう言うのなら、それでいい。


 やがて花嫁の呼吸は穏やかになり、彼女は再び眠りへ落ちていった。

 夫はその寝顔を見下ろし、そっと髪に口づけた。


「そうだよ、私の花嫁」


 囁きは、誰にも聞こえないほど静かだった。


「君は、ここにいてくれればいい」


 彼は窓の外へ視線を向けた。

 生垣は、朝日に照らされて美しく輝いている。

 その根元では、昨夜呑み込んだ人間の魔力が、ゆっくりと庭へ広がり始めていた。



◇


 その日の夕暮れ。

 生垣の向こうから、一本の蔓が伸びていた。

 棘の間を縫うように這い、湿った土の上を滑っていく。

 蔓の先には、泥にまみれた何かが絡みついていた。


 かつて人間だったもの。

 その指先には、銀色の指輪が残っている。

 蔓はそれを引きずり、土の柔らかな場所まで運んでいった。

 そして、ゆっくりと地面の中へ沈めていく。

 土が盛り上がり、根が動く。

 赤いものが吸い込まれ、魔力が根の奥へ流れ込んでいった。


 やがて、地面が静かになった。

 夜が明ける頃。

 その場所から、細い枝が伸びていた。

 枝には、ひとつの果実が実っている。

 銀色の果実だった。

 月の光を閉じ込めたような、透き通る銀の皮。

 表面には細かな光が浮かび、内側では淡い青色の輝きが揺れている。

 生垣の葉が、そっとその果実を包み込んだ。

 まるで、大切な宝物を守るように。


 翌朝。

 花嫁は庭を散歩していて、その果実を見つけるだろう。

 きっと目を輝かせ、夫に知らせにいくに違いない。

 そして夫は、いつもの優しい顔で微笑むのだ。


──おや、珍しい果実だね。

──君が食べたいのなら、用意しよう。


 そうして、彼女の食卓にはまたひとつ、新しい実りが並ぶ。

 誰かの命が、花になり。

 誰かの願いが、果実になる。


 花嫁はそれを知らない。

 彼女の愛する庭が、今日もまた、誰かを養分にして美しくなったことを。

 そして、その庭が彼女を守っているのではなく。

 彼女を永遠に手放さないために、すべてを喰らっていることを。

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