第3話 棘の生垣
花嫁は、庭を囲む生垣が好きだった。
屋敷の裏手から果樹園の向こうまで、途切れることなく続く巨大な生垣。
緑の葉が幾重にも重なり、その隙間からは、鋭く長い棘が覗いている。
人の背丈の何倍もあるそれは、庭を外の世界から隔てる壁でもあった。
けれど、花嫁は恐ろしいと思ったことがない。
初めて触れた日から、生垣は彼女に優しかった。
花嫁が指先を伸ばせば、細い蔓がそっと手首に巻きつく。
彼女が近づけば、葉がさわさわと揺れ、緑の奥から小さな花が顔を覗かせる。
まるで、彼女が来るのを待っていたかのように。
「こんにちは」
花嫁が声をかけると、生垣の葉が揺れた。
「ふふ。あなたも、お返事してくれるのね」
蔓が彼女の手の甲を撫でる。
その感触は、幼い獣が甘えるようにも、誰かが愛おしいものに触れるようにも思えた。
花嫁は目を細めた。
「あなたは、私が好きなの?」
答えるように、蔓が指先へ絡みつく。
棘は、彼女の肌を傷つけなかった。
その鋭い先端は、まるで見えない手に押さえられているかのように、花嫁から遠ざかっていた。
「私も、あなたが好きよ」
そう囁くと、生垣は嬉しそうに葉を震わせた。
花嫁は知らない。
その蔓が、彼女以外の人間には決して同じ振る舞いをしないことを。
その棘が、かつて数えきれないほどの人間の身体を貫いてきたことを。
そして、その緑の壁が、ただの植物ではないことを。
◇
ある日の午後。
花嫁は、生垣のそばで小さな白い花を摘んでいた。
この庭には、毎日のように新しい花が咲く。
見たことのない形、嗅いだことのない香り、季節を無視した色彩。
花嫁にとって、庭を散歩することは何よりの楽しみになっていた。
「……たすけて……」
かすかな声が聞こえた。
花嫁は顔を上げた。
「え……?」
風の音だろうか。
耳を澄ませる。
「……たすけて……」
今度は、はっきりと聞こえた。
生垣の向こうからだった。
花嫁は摘んだ花を握りしめ、ゆっくりと立ち上がった。
「どなたか、いらっしゃるの?」
返事はない。
けれど、確かに声がした。
か細く、苦しげで、何かを必死に訴えるような声。
「大丈夫ですか?今、そちらへ……」
花嫁が生垣に近づく。
すると、足元の蔓が動いた。
いつもなら優しく手に絡みつく蔓が、今日は彼女の足首へ巻きついている。
「まあ……?」
引き止められている。
そう気づいた瞬間、生垣の奥から、もう一度声がした。
「……たすけ……」
今度は途中で途切れた。
何か重たいものが地面を引きずられるような音がした。
ずるり。
ずるり。
花嫁は息を呑んだ。
「誰かいるのね!」
蔓をほどこうとした、そのとき。
「何をしているんだい?」
背後から声がした。
振り返るより早く、花嫁の身体がふわりと浮いた。
「きゃっ!」
夫が彼女を抱き上げていた。
いつもと変わらない、穏やかな顔。
けれど、その腕は普段よりも強く、彼女を胸元へ抱き寄せていた。
「旦那様!今、向こうから声が……!」
「聞こえたのかい?」
「ええ。誰かが助けてって……」
「そうか」
夫は生垣を一瞥した。
その瞳から、温かな色が消えたように見えた。
ほんの一瞬次に花嫁を見たときには、いつもの優しい眼差しに戻っていた。
「森が君を惑わせているんだよ」
「森が……?」
「あちらには、君に見せたくないものがある」
夫はそう言って、花嫁の髪を撫でた。
「だから、近づいてはいけない」
花嫁は生垣を振り返った。
葉は静かに揺れている。
先ほどの声は、もう聞こえなかった。
「でも、誰かが困っているのかもしれないわ」
「君は優しいね」
夫の声は、どこまでも穏やかだった。
「けれど、すべてのものを助けることはできないんだよ」
「……そうなの?」
「ああ。君は、君自身を大切にしなくてはいけない」
彼は花嫁の額に口づけた。
「君に何かあったら、私は悲しい」
その言葉を聞くと、花嫁は何も言えなくなった。
彼を悲しませたくない。
彼を困らせたくない。
彼が自分を心配してくれることが、嬉しかった。
だから、花嫁は夫の首に腕を回した。
「ごめんなさい、旦那様。もう近づかないわ」
「いい子だね」
夫は微笑んだ。
そのまま彼女を抱き上げ、屋敷へと戻っていった。
背後では、生垣の葉がゆっくりと揺れていた。
まるで、遠ざかる花嫁を見送るように。
◇
その夜、花嫁は夢を見た。
暗い森だった。
月明かりはなく、空には星ひとつ見えない。
足元には湿った土が広がり、どこからか、鉄のような匂いが漂っていた。
花嫁はひとりで立っていた。
どうしてここにいるのか、わからない。
誰かを探していた気がする。
けれど、誰を探しているのかも思い出せなかった。
「……あら?」
目の前に、何かが落ちていた。
泥にまみれた手だった。
人間の手。
指先は青白く、手首には鋭い棘が深々と食い込んでいる。
花嫁は息を呑んだ。
「……どうして……」
その手には、銀色の指輪が嵌められていた。
指輪の表面には、細かな傷が幾つも刻まれている。
誰かの名前が彫られているようだった。
けれど、泥に覆われていて読めない。
花嫁が手を伸ばそうとすると、地面が動いた。
土の中から、無数の根が這い出してくる。
根は、手首へ絡みついた棘を伝い、赤い液体を吸い上げていた。
ずるり。
ずるり。
手が、土の中へ引きずり込まれていく。
「待って……!」
花嫁は駆け寄ろうとした。
けれど、足が動かない。
根はさらに伸び、指輪も、手も、何もかもを土の下へ呑み込んでいった。
最後に残ったのは、赤い染みだけだった。
その染みを、根がゆっくりと吸い込む。
そしてその場所から、小さな白い芽が顔を出した。
芽はみるみるうちに伸び、茎を伸ばし、幾重もの花弁を開いていく。
美しい白い花だった。
朝露のような光を宿し、雪のように清らかな花弁を持つ花。
花嫁は、その花を知っていた。
昨日、庭で見た花。
一昨日、屋敷の窓辺に咲いていた花。
毎朝、彼女を迎えてくれる花。
どうして。
どうして、こんなところから咲くの?
花嫁が問いかけようとした瞬間、白い花の中心から、か細い声が聞こえた。
「……たすけて……」
花嫁は目を見開いた。
「……っ!」
目を覚ますと、そこは寝室だった。
窓の外は、柔らかな朝の光に満ちている。
花嫁は荒い息を繰り返しながら、自分の手を見つめた。
何もない。
泥も、血も、指輪も。
ただ、いつもと変わらない白い指があるだけだった。
「夢……?」
そう呟いたとき、寝室の扉が開いた。
「おはよう、私の花嫁」
夫が入ってくる。
その声を聞いた途端、胸の奥にあった恐怖が少しずつ薄れていった。
「旦那様……」
「どうしたんだい?顔色がよくないね」
夫は寝台のそばに腰を下ろし、彼女の頬に触れた。
花嫁はその手に縋るように、自分の手を重ねた。
「怖い夢を見たんです」
「そうか。どんな夢だったんだい?」
「森の夢です。棘があって……人の手があって……」
言葉にするうちに、夢の光景が蘇る。
泥にまみれた指輪。
赤い液体を吸い込む根。
そこから咲いた白い花。
花嫁は夫を見上げた。
「旦那様……あの生垣は、どうしてわたしには優しいのでしょうか?」
夫の指が、彼女の髪を梳いていた。
その動きが、ほんのわずかに止まる。
「どうして、そんなことを聞くんだい?」
「昨日、生垣の向こうから声が聞こえたんです。助けてって。それに、夢の中でも……」
「夢は、夢だよ」
夫は静かに言った。
「ですが……」
「生垣が優しいのは、君がこの庭の大切な住人だからだよ」
夫は花嫁の髪を撫でた。
「生垣も、それを知っているんだ」
「わたしが、大切だから……?」
「ああ」
彼は迷いなく頷いた。
「君は、この庭にとっても特別な存在なんだ」
その言葉に、花嫁の心はゆっくりとほどけていった。
そうなのだ生垣は彼女を傷つけない。
蔓は優しく触れてくれる。
葉は彼女が近づくと揺れ、花は彼女のために咲いてくれる。
きっと、生垣も彼女を好きなのだろう。
「……よかった」
花嫁は微笑んだ。
「わたし、生垣のことが好きなんです。あの子も、私を好きでいてくれるなら嬉しい」
「そうだね」
夫も微笑んだ。
そして彼女を抱き寄せ、その頭を胸元へと導いた。
「君は、何も心配しなくていい」
その胸からは、いつもの懐かしい匂いがした。
花嫁は目を閉じた。
夢の中の赤い染みも、泥にまみれた指輪も、少しずつ遠ざかっていく。
夫の腕の中は温かかった。
ここにいれば、何も怖くない。
何も考えなくていい。
彼がそう言うのなら、それでいい。
やがて花嫁の呼吸は穏やかになり、彼女は再び眠りへ落ちていった。
夫はその寝顔を見下ろし、そっと髪に口づけた。
「そうだよ、私の花嫁」
囁きは、誰にも聞こえないほど静かだった。
「君は、ここにいてくれればいい」
彼は窓の外へ視線を向けた。
生垣は、朝日に照らされて美しく輝いている。
その根元では、昨夜呑み込んだ人間の魔力が、ゆっくりと庭へ広がり始めていた。
◇
その日の夕暮れ。
生垣の向こうから、一本の蔓が伸びていた。
棘の間を縫うように這い、湿った土の上を滑っていく。
蔓の先には、泥にまみれた何かが絡みついていた。
かつて人間だったもの。
その指先には、銀色の指輪が残っている。
蔓はそれを引きずり、土の柔らかな場所まで運んでいった。
そして、ゆっくりと地面の中へ沈めていく。
土が盛り上がり、根が動く。
赤いものが吸い込まれ、魔力が根の奥へ流れ込んでいった。
やがて、地面が静かになった。
夜が明ける頃。
その場所から、細い枝が伸びていた。
枝には、ひとつの果実が実っている。
銀色の果実だった。
月の光を閉じ込めたような、透き通る銀の皮。
表面には細かな光が浮かび、内側では淡い青色の輝きが揺れている。
生垣の葉が、そっとその果実を包み込んだ。
まるで、大切な宝物を守るように。
翌朝。
花嫁は庭を散歩していて、その果実を見つけるだろう。
きっと目を輝かせ、夫に知らせにいくに違いない。
そして夫は、いつもの優しい顔で微笑むのだ。
──おや、珍しい果実だね。
──君が食べたいのなら、用意しよう。
そうして、彼女の食卓にはまたひとつ、新しい実りが並ぶ。
誰かの命が、花になり。
誰かの願いが、果実になる。
花嫁はそれを知らない。
彼女の愛する庭が、今日もまた、誰かを養分にして美しくなったことを。
そして、その庭が彼女を守っているのではなく。
彼女を永遠に手放さないために、すべてを喰らっていることを。




