第2話 花嫁の食卓
朝、目を覚ますと、窓辺に一輪の白い花が咲いていた。
昨日まではなかった花だ。
細い茎に、幾重にも重なった白い花弁。
朝露を抱いたその花は、朝日を受けて淡く輝いている。
「まあ……」
花嫁は寝台から身を起こし、嬉しそうに微笑んだ。
この庭では、毎日のように新しい花が咲く。
昨日は見事な白薔薇が咲き誇り、一昨日は見たこともない紫色の花が石畳の隙間から顔を出した。
果樹園では、季節など知らぬかのように、次々と果実が実っていく。
ここには冬がない。
花が枯れることも、果実が腐ることもない。
まるで世界から切り離された、永遠の春のようだった。
「おはよう、私の花嫁」
振り返ると、寝室の扉に夫が立っていた。
銀色の髪が朝の光を受けて輝いている。
その美しい顔を見た途端、花嫁の胸の奥がふわりと温かくなった。
「おはようございます、旦那様」
「よく眠れたかい?」
「ええ。とても」
夫は満足そうに目を細め、彼女の頬にそっと触れた。
「それはよかった」
その手は、いつだって優しい。
花嫁はその手に頬を寄せた。
彼のそばにいると、何も心配することがない。
明日のことも、過去のことも、ここではひどく遠いものに思えた。
ただ、この温かな手があればいい。
そう思うことが、最近ますます増えていた。
◇
変化に気づいたのは、朝食のあとだった。
庭を散歩していた花嫁は、石畳から伸びた小枝に指先を引っかけた。
「あっ」
小さな痛みが走る。
見れば、人差し指の腹に細い傷ができていた。
けれど、血が出ていなかった。
「……あら?」
以前なら、ほんの小さな傷でも赤い血が滲んだはずだ。
ところが、今の傷口からは一滴の血も流れていない。
代わりに、ひらり、と小さな白いものが指先から落ちた。
花弁だった。
雪のように薄く、柔らかな花弁が、石畳の上に舞い落ちる。
花嫁は不思議そうにそれを拾い上げた。
「どうして、お花が……?」
傷口をそっと押さえてみる。
痛みはすぐに消えていた。
傷そのものも、初めからなかったかのように塞がりつつある。
恐ろしくはなかった。
ただ、少しだけ不思議だった。
「旦那様に見せなくちゃ」
花嫁は花弁を大事に両手で包み、屋敷へと戻っていった。
◇
「怪我をしたのかい?」
夫は花嫁の指先を見ると、眉をわずかに下げた。
「ごめんなさい。小枝に引っかけてしまったんです。でも、もう痛くありません」
「見せてごらん」
彼は彼女の手を取り、指先を確かめた。
傷口はほとんど塞がっている。
その周囲には、淡い白色の光が薄く残っていた。
夫はしばらく黙っていたが、やがて花嫁の指先に口づけた。
「もう大丈夫だよ」
「ねえ、旦那様。わたしの傷から花弁が出てきたの」
「ああ」
「不思議でしょう?」
「いいや」
夫は穏やかに微笑んだ。
「君の身体が、少しずつこの庭に馴染んできたんだよ」
「この庭に?」
「そう。ここは私の領域だからね。君もまた、ここに生きるものへと変わり始めている」
花嫁は自分の指先を見つめた。
人間の身体ならば、傷から血が流れる。
けれど、彼女の身体からは花弁がこぼれた。
それは確かに、人間だった頃とは違う変化だった。
「……わたし、人間ではなくなってしまうのかしら」
問いかける声は、思ったよりも小さかった。
夫は彼女の手を両手で包み込んだ。
「人間でなくなったとしても、君は君だよ」
「本当に?」
「もちろん」
彼は少しも迷わなかった。
「君がどんな姿になろうと、私は君を愛している」
その言葉を聞いて、花嫁の胸から不安が消えていった。
彼がそう言うのなら、大丈夫なのだろう。
だって、この人は嘘をつかない。
花嫁はそう信じていた。
夫が彼女の指先に残った花弁を、誰にも見られないようにそっと拾い上げたことにも。
その花弁を掌の中で溶かすように消したことにも、気づかなかった。
◇
昼食の食卓には、見事な果実が並んでいた。
透き通るような薄紅色の桃。
金色の皮を持つ小さな林檎。
宝石のように青く輝く葡萄。
どれも、この世のものとは思えないほど美しい。
「今日は果樹園で新しい実が採れたんだ」
夫が小さな銀の皿を差し出した。
そこには、淡い紫色の果実がひとつ載っていた。
丸みを帯びた果実の表面には、細かな光が浮かんでいる。
熟した香りは甘く、どこか懐かしい。
花嫁は目を輝かせた。
「初めて見る果実です」
「君に食べてもらいたくてね」
「ありがとうございます、旦那様」
花嫁は果実を手に取り、ひと口かじった。
甘い。
舌の上で柔らかくほどけ、花の蜜のような香りが広がった。
そして、その奥に、ふと、懐かしい匂いを感じた。
夫の髪に顔を寄せたとき。
彼に抱きしめられたとき。
眠る前、額に口づけられたとき。
いつもそばにある、あの安らぎの匂い。
「……あら?」
「どうしたんだい?」
夫が尋ねる。
花嫁は果実を両手で持ったまま、首を傾げた。
「この果実、旦那様の匂いがします」
その瞬間、ほんの一瞬、夫の手が止まった。
銀の匙が皿に触れる音が、静かな食堂に小さく響く。
「私の匂い?」
「ええ。旦那様のそばにいるときと同じ匂いです。食べていると、なんだか安心します」
花嫁は嬉しそうに微笑んだ。
「不思議ですね。こんなに甘いのに、旦那様のそばにいるみたい」
夫は彼女を見つめていた。
その深い瞳の奥で、何かが静かに揺れる。
やがて彼は、いつもの優しい笑みを浮かべた。
「私の魔力を含んでいるからね。この庭で実るものは、みな私の一部なのだよ」
「旦那様の一部……」
「そう。だから、安心するのかもしれないね」
嘘ではなかった。
この庭に根を張る草木も、咲き誇る花々も、実を結ぶ果樹も、すべて彼の魔力に繋がっている。
そして、その根の奥深くには、彼の領域へ足を踏み入れた人間たちの痕跡が眠っていた。
騎士。
冒険者。
魔術師。
そして、花嫁を救い出そうとした者たち。
彼らは皆、庭の境界を越えた。
生垣は侵入者を拒み、棘を絡ませ、逃げ道を奪った。
どれほど剣を振るおうと、どれほど魔法を放とうと、庭の主にとっては小さな抵抗にすぎなかった。
やがて彼らは、音もなく土の下へ消えていった。
血は根に吸われ、肉は土に還り、魔力は草木を満たす。
その翌朝には、新しい花が咲いた。
その翌日には、新しい果実が実った。
庭は今日も美しい。
花嫁が微笑んでくれるように。
彼が愛する花嫁のために、世界で最も美しい場所であり続けるように。
「もっと食べるかい?」
夫が尋ねた。
「はい、とてもおいしいです」
花嫁は、もうひと口果実をかじった。
彼女が飲み込むたび、夫の瞳には静かな喜びが浮かんだ。
彼女の身体に、彼の魔力が満ちていく。
人間の血が流れていた場所に、少しずつ別のものが根を張っていく。
それがどれほど取り返しのつかない変化なのか、花嫁はまだ知らない。
ただ、食べ終えた彼女の唇に果汁が残っているのを見て、夫は嬉しそうに微笑んだ。
「口元が汚れているよ」
「あら、恥ずかしいです」
彼は柔らかな布で、彼女の唇をそっと拭った。
その仕草は、どこまでも優しかった。
「おいしかったかい?」
「ええ。旦那様と一緒に食べると、もっとおいしいです」
「そうか」
夫は彼女の額に口づけた。
「それなら、明日も用意しよう。君が喜んでくれるものを、いくらでも」
花嫁は幸せそうに笑った。
彼女のために用意された食卓。
彼女のために咲き誇る花々。
彼女のために実る果実。
そして、彼女のためならば、どんなものでも養分に変えてしまう庭。
そのすべてが、彼女を愛していた。
あるいは彼女を、逃がすまいとしていた。
◇
その夜。
花嫁が眠りについたあと、夫はひとりで庭を歩いていた。
月明かりの下、生垣がゆっくりと揺れている。
風は吹いていなかった。
それでも蔓は動き、葉は擦れ合い、深い緑の奥から、かすかな音が聞こえてくる。
夫は生垣の前で足を止めた。
「ご苦労だったね」
彼が囁くと、棘の先が静かに垂れ下がった。
その根元には、わずかに赤黒い土が残っている。
つい先ほどまで、そこにはひとりの男がいた。
錆びた鎧を身につけ、折れた剣を握りしめた男だった。
彼は最後まで、庭の奥にいる娘の名を呼んでいた。
花嫁を迎えに来たのだろう。
あるいは、彼女を哀れに思ったのだろう。
どちらでもよかった。
夫にとって重要なのは、彼が境界を越えたという事実だけだった。
生垣が再び身じろぎする。
土の中で、根が何かを包み込むように蠢いた。
「明日も、庭を美しくしておくれ」
夫はそう言い残し、屋敷へ戻っていった。
生垣は答えなかった。
ただ、葉の隙間から伸びた細い蔓が、土の上に落ちていた小さな金属片を静かに覆い隠した。
それは、男が身につけていた指輪だった。
◇
翌朝。
「まあ……!」
庭を散歩していた花嫁は、思わず足を止めた。
見たこともない花が咲いていた。
生垣から少し離れた、庭の隅。
そこに、たった一輪だけ、鮮やかな青い花が咲いていた。
花弁は深い夜空のような色をしている。
中心には露がひと粒宿り、陽の光を受けて、涙のようにきらめいていた。
「こんなお花、初めて……」
花嫁は膝をつき、そっと顔を近づけた。
甘い香りはしなかった。
代わりに、胸が締めつけられるような、ひどく寂しい気持ちになった。
どうしてだろう。
初めて見る花なのに、どうして、こんなにも泣きたくなるのだろう。
「……旦那様?」
花嫁は振り返った。
いつの間にか、夫が背後に立っていた。
「このお花、なんていう名前なのですか?」
夫は青い花を見つめた。
その表情から、微笑みが消えた。
ほんのわずかな間。
彼は花嫁の頭越しに、生垣の奥を見やった。
それから、いつもの優しい声で答えた。
「さあ。私も初めて見る花だね」
「そうなのですか?」
「ああ」
夫は花嫁の肩に手を置いた。
「綺麗だね」
「ええ……でも、なんだか悲しい気持ちになるんです」
「そうかい?」
「どうしてでしょうか」
夫は答えなかった。
代わりに彼女を抱き上げ、青い花からそっと遠ざけた。
「もう少し散歩をしよう。今日は果樹園に、新しい果実が実っているはずだから」
「本当?」
「ああ。君の好きなものもあると思うよ」
花嫁の顔がぱっと明るくなった。
「楽しみです!」
彼女は夫の首に腕を回し、嬉しそうに頬を寄せた。
夫はその小さな身体を抱きしめる。
背後では、青い花が風もないのに、ゆっくりと揺れていた。
その根元の土から、銀色の指輪が半分だけ顔を覗かせている。
花嫁は、もう振り返らなかった。
彼女の知らないところで、庭は今日も美しくなっていく。
そして食卓には、明日もまた、新しい果実が並ぶのだろう。
彼女が、ひとつも疑わずに食べられるように。




