第6話 永遠に、あなたと
花嫁が目覚めたのは、百年ぶりの春だった。
窓の向こうでは、白い花々が咲き誇っていた。
柔らかな風がレースのカーテンを揺らし、陽光が寝台の上に淡い模様を落としている。
いつもと変わらない、静かで美しい朝。
けれど、花嫁の身体は、もう以前のものではなかった。
「……あら」
寝台から手を伸ばした彼女は、自分の指先に咲いた小さな花を見つめた。
爪の根元から伸びた細い茎に、淡い白色の花弁が幾重にも重なっている。
指を曲げても痛みはなく、花は彼女の動きに合わせて、そよ風に揺れるように震えた。
不思議に思って胸元に手を当てる。
とくん……
とくん……
聞こえてくる鼓動は、かつての人間のそれとは違っていた。
ゆっくりと、深く。
まるで土の下を流れる水のように、身体の奥で何かが静かに巡っている。
彼女は、もう人間の食事を必要としなかった。
甘い菓子も、焼きたてのパンも、瑞々しい果実も。口にすれば美しい味がするのに、それらを食べたいという欲求は、いつの間にか失われていた。
代わりに、彼女の身体には花が咲く。
傷つけば花弁がこぼれ、涙を流せば露のような雫が頬を伝う。
人間だった頃の名残は、少しずつ、確実に薄れていた。
「……旦那様」
彼女が呼ぶと、すぐそばから声が返ってきた。
「ここにいるよ」
寝台の傍らに、彼が座っていた。
長い銀髪。深い森を思わせる瞳。何百年もの時を経ても、ひとつも変わらない美しい姿。
彼は花嫁の手を取ると、その指先に咲いた花をそっと撫でた。
「お目覚めだね。よかった……」
いつもどおり優しい声だった。
けれど、花嫁は気づいた。
彼の手が、ほんのわずかに震えていることに。
「旦那様?」
「……なんでもないよ」
彼は微笑んだ。
いつもの、彼女を安心させるための微笑み。
けれど、その瞳の奥には、今まで一度も見たことのない感情が揺れていた。
恐れ。
彼は恐れていた。
花嫁が長い眠りについているあいだ、何度も考えたのだ。
彼女はもう、すべてを知っている。
自分が何を食べさせてきたのか。
何を奪い、何を変えてきたのか。
彼女の身体の奥に、自分の血肉がどれほど深く根を張っているのか。
そして、目覚めた彼女は、もう人間ではない。
かつての暮らしに戻ることも、故郷を探すことも、昔の自分を取り戻すこともできない。
もしも彼女が、箱庭の外へ出たいと願ったなら。
もしも彼女が、自分を恐ろしい怪物だと知ったなら。
もしも彼女が、もう自分を愛していないと言ったなら。
彼は、どうすればよいのだろう。
今までなら、彼女を抱きしめて、優しく言い聞かせればよかった。
外の世界は危険だよ。
君には私がいるよ。
ここにいれば、何も怖いことはない。
そう言えば、彼女はいつも微笑んでくれた。
けれど、もうそれではいけないのかもしれない。
彼女は真実を知っている。
彼女の心が、まだ自分のものなのかどうかさえ、彼にはわからなかった。
「……ねえ」
彼は、花嫁の手を握ったまま、静かに尋ねた。
「君は、これからどうしたい?」
花嫁は目を瞬かせた。
「どう、とは?」
「この庭で暮らし続けたいか、それとも……外の世界を見てみたい?」
言葉にした途端、胸の奥がひどく痛んだ。
精霊である彼に、人間のような心臓はない。
それでも、失いたくないものを失うかもしれないという恐怖は、確かに彼の内側にあった。
「君が望むなら、私は君を止めないよ」
嘘ではなかった。
けれど、本心のすべてでもなかった。
彼女が出ていく姿など、想像するだけで耐えがたい。
それでも、もし彼女が本当に望むのなら。
今度こそ、彼女自身に選ばせなければならない。
長い沈黙のあと。
花嫁は、彼の手を握り返した。
「旦那様」
「……うん」
「わたし、あなたと一緒にいたいです」
彼は息を止めた。
「……本当に?」
思わず、そんな言葉がこぼれた。
何百年も愛してきた。
永遠にそばにいてほしいと願い、食べ物に自分の血肉を混ぜ、彼女の身体を少しずつ変えてきた。
記憶が失われても。
人間ではなくなっても。
いつか自分と同じものになってくれれば、それでよいと思っていた。
花嫁は、彼の手を両手で包み込んだ。
「だって、旦那様は、わたしのことをずっと愛してくださったのでしょう?」
「……ああ」
「わたしが眠っているあいだも、目覚めるのを待っていてくださったのでしょう?」
「もちろんだよ」
「なら、わたしも、あなたのそばにいたいのです」
彼女は微笑んだ。
人間だった頃と同じ、柔らかな微笑み。
けれど、その瞳の奥に宿るものは、もう人間のそれとは違っていた。
「旦那様が、最後にわたしの血肉を食べてくださるのでしょう?」
彼の指が、ぴくりと震えた。
「……あの約束を、覚えていたのかい」
「ええ」
彼女は、自分の胸元に手を添えた。
そこには、ゆっくりと、奇妙な鼓動が響いている。
「わたしの中には、もう旦那様がたくさんいらっしゃるのでしょう?血も、肉も、魔力も……わたしが何かを忘れてしまっても、旦那様のことだけは、きっと忘れません」
「……」
「いつか、わたしが本当に死ぬときが来たら。そのときは、どうかわたしを食べてくださいませ」
彼女は、少しだけ恥ずかしそうに微笑んだ。
「そうしたら、わたしも、ずっと旦那様の中にいられるでしょう?」
彼は答えられなかった。
あまりにも、残酷なほど美しい願いだった。
かつて、彼は彼女を永遠に生かしたいと願った。
死なせたくなかった。
失いたくなかった。
自分の知らない場所へ行ってほしくなかった。
だから、彼女の身体に自分を与え続けた。
けれど、彼女は今、その先を望んでいる。
生きているあいだだけではなく、死んだあとまでも。
彼の中にいたいと。
それは、彼が彼女に与えたものなのだろうか。
それとも、彼女自身が選び取ったものなのだろうか。
彼には、もうわからなかった。
わからないまま、彼は花嫁を抱きしめた。
壊れやすい宝物を扱うように、そっと。
「……愛しているよ」
声が、かすれた。
「君を、永遠に愛している」
花嫁は彼の胸に頬を寄せた。
「わたしもです、旦那様」
「……私が、君を変えてしまったのに?」
「ええ」
「君が、人間だった頃のことを忘れてしまったのに?」
「ええ」
「それでも、私がいいのかい?」
花嫁は、しばらく考えるように目を伏せた。
人間だった頃の自分を、もうほとんど思い出せない。
誰と暮らしていたのか。
どんな家に帰りたかったのか。
どんな未来を夢見ていたのか。
そのすべてが、薄い霧の向こうに消えている。
けれど、彼の声は覚えている。
彼の手の温もりも。
彼が名前を呼んでくれるときの、優しい響きも。
そして、自分が彼を愛おしいと思う、この感情も。
それが、最初から自分のものだったのか。
彼の血肉が、心の奥まで染み込んだ結果なのか。
もう、確かめる術はなかった。
「……はい」
それでも花嫁は、彼の背に腕を回した。
「わたしは、あなたと一緒にいたいです」
彼は目を閉じた。
その言葉を、何百年も待ち望んでいた。
そして、何百年も恐れていた。
腕の中の花嫁は、静かに笑っていた。
彼女の髪に、白い花がひとつ咲いた。
彼はその花に口づけ、彼女の額にも、そっと口づけた。
「ありがとう……」
誰にも聞こえないほど小さな声だった。
彼女が彼を選んでくれたことへの感謝なのか。
彼女を失わずに済んだことへの安堵なのか。
それとも、自分の望みが叶ってしまったことへの、罪悪感なのか。
彼自身にも、わからなかった。
窓の外では、風が吹いていた。
白い花々が揺れ、蔓が静かに絡み合う。
生垣の向こう側では、今日もまた、深い森が息をしている。
かつて彼女を救おうとした者たちの名も、顔も、願いも。
すべては土の下に沈み、花となり、果実となり、この庭を美しく満たしていた。
花嫁は、もう振り返らない。
振り返るための記憶さえ、ほとんど残っていないのだから。
彼は彼女を抱いたまま、寝台へと身を横たえた。
彼女もまた、彼の胸元に頬を寄せる。
長い眠りが、再び2人を包み込もうとしていた。
「おやすみ、私の花嫁」
彼は、彼女の髪を撫でながら囁いた。
「次に目覚めるときも、君の隣にいるよ」
花嫁は目を閉じた。
そして、ふと思い出したように、彼の顔を見上げた。
「……旦那様」
「なんだい?」
「わたし、あなたのお名前を呼んでもいいですか?」
彼は、わずかに目を見開いた。
彼女がその名を口にしたのは、いったい何百年ぶりだっただろう。
人間だった頃の記憶を失い、彼の血肉を受け入れ、彼と同じ世界に近づいていくなかで。
彼女は、その名だけを、心の奥深くに残していた。
「もちろんだよ」
彼は微笑んだ。
「君に呼んでもらえるなら、何度でも」
花嫁は、そっと彼の頬に手を添えた。
「……アドラステア」
たったひとつの、彼だけの名前を。
すると彼は、まるで長い孤独からようやく救われたかのように、彼女を抱く腕に力を込めた。
「……ああ」
彼もまた、彼女の名前を呼んだ。
「エララ」
何百年ものあいだ、愛し続けてきた花嫁の名前を。
2人は、互いの名を胸に刻むように、何度も囁き合った。
そして、最後に。
「愛しているよ、エララ。永遠に、君だけを」
「愛しています、アドラステア。永遠に、あなたと」
彼女は微笑んだ。
彼もまた、微笑んだ。
その愛が、いつから始まったのか。
その願いが、誰のものだったのか。
もう、誰にもわからない。
ただ、2人は互いの名前を呼び、互いを抱きしめていた。
永遠の春が巡る、この小さな箱庭のなかで。
やがて2人は、再び眠りにつく。
白い花々が咲き誇る庭の奥で。
永遠に、あなたと。
──おやすみなさい。
私の、愛しい人。
読んでいただきありがとうございました。
夢で精霊の血肉を食べる人間の花嫁がだんだんと精霊と同一化する夢を見て、これは忘れないうちにメモらなきゃ!って思ってスマホ開いたらいつの間にか6話分のプロットできてるし、いつの間にか朝を迎えてたのがここ最近の思い出です。
そしてこんな廃退美な内容はハロウィンに持ってこいじゃないか!ということで朝ごはんを食べながら、通勤中や、仕事の休憩中や、夕食作った後や、お風呂中にずーっと書き続けていました。
寝不足です。
もうひとつの「毒を啜るなら黒百合と共に」も同じく夢で見た内容を元に作っております!
良かったら読んでいただけると嬉しいです!
よろしくお願いします!




