第34発明 時をかけるワシとワシなのじゃ
さっきまで人の気配で満ちていた広場がすっと静まり返った。
風が止まったわけでもないのに、音だけが抜け落ちている。
旗の布が揺れるはずのかすかなはためきも、
石畳を踏む靴音も、誰かの咳払いすら、どこにもない。
ただ、広場の中央に広がる空間だけが、不自然なほど澄み切っている。
そして、その沈黙が、これから起こる何かを確かに告げていた。
フォン・ダシ。
シャン・ターン。
教団ウロボロスの枢機卿。
その存在が、空気に重く沈んでいた。
アルとカロが一歩、踏み出そうとしたその瞬間だった。
背後から伸びた腕が、二人の行く手を静かに力で遮った。
「アル......カロ......」
博士が静かに言った。
「カルテを頼む」
アルがわずかに眉をひそめ、振り返る。
「博士——」
博士が首を横に振る。
「奴らの狙いはカルテ......ここはワシに任せるのじゃ」
博士の目は、二人の幹部から離れなかった。
アルはしばらく博士を見ていた。
やがて——静かにうなずいた。
「……わかった」
カロがカルテの肩を引き寄せる。
「離れないで」
博士が一歩前に出てフォンと向かい合う。
「見せてもらおうか」
「ノン・シュガーを倒した実力を!」
次の瞬間。
空気が、ぴたりと張りつく。
対峙するフォンの輪郭が、ふっと揺らいだ。
蜃気楼のように歪み、
次の瞬間――その体が音もなく組み替わっていく。
背丈が伸びる。
肩幅が広がる。
筋肉が膨張する。
骨格そのものが書き換えられていくかのようだった。
やがて、そこに立っていたのは――
博士と、同じ体格のフォン。
肩幅も、腕の長さも、重心の位置すら、寸分違わない。
鏡に映したかのような“もう一人の博士”が、
わずかな遅れもなく、同じように地を踏みしめている。
そして、構え。
博士が無意識に取ったそれを、
フォンは一拍遅れてなぞるのではなく
――最初から知っていたかのように、同時に、同じ形で組み上げた。
足の開き方。拳の高さ。肩の力の抜き具合。
すべてが一致している。
違うのは、ただ一つ。
その目だけだった。
◇
その瞬間、空気が割れたように感じられた。
「……は?」
誰かの、かすれた声が漏れる。
前方に立つそれを見たまま、観衆たちは一様に動きを止めていた。
視線は釘付けになり、瞬きすら忘れている。
目の前にいるのは敵のはずなのに――形は、完全に博士だった。
「嘘だろ……」
アルの口から、思わず低い声がこぼれる。
信じようとしても、頭が理解を拒む。
肩幅も、立ち方も、構えも、見慣れたはずのそれと寸分違わない。
隣にいるはずの博士と、前にいるもう一人の博士。
どちらが本物か、一瞬わからなくなるほどだった。
カロが息を呑む。
喉の奥で空気が引っかかるような音がして、ようやく絞り出した声は震えていた。
「……コピー」
フォンが口角を上げる。
「その通り、私の能力はコピー」
「博士、あなたも自分自身とは戦ったことはないでしょう」
二つの同じ構えが、広場で向かい合った。
次の瞬間——二人が同時に踏み込んだ。
ドンッ!!
地を蹴る音は鋭く、無駄がない。
迷いのない一撃が、真正面からフォンへと放たれる――はずだった。
だが。
打ち込まれる直前、コピーの動きがわずかに先にあった。
同じ構え、同じ軌道。
にもかかわらず、ほんの紙一枚分だけ、速い。
拳と拳が交差する――そのはずの瞬間、空気が歪んだように見えた。
衝突音は、鳴らなかった。
代わりに響いたのは、鈍く、重い破裂音。
「――っ!」
博士の体が、弾かれるように後方へ吹き飛ぶ。
自分の打撃の反動ではありえない方向へ、
まるで見えない力に叩きつけられたかのように。
石畳を滑り、転がり、ようやく体勢を崩しながら止まる。
カルテが叫ぶ。
「博士!!」
煙の中から、博士が静かに立ち上がった。
眼鏡を直し、白衣の埃を払う。
カロが眉をひそめた。
「おかしい……」
何が起きたのか――理解が追いつかない。
確かに同じ動きをした。
同じ間合い、同じタイミングで打ち込んだ。
それなのに......
静まり返った広場に、ひとつ、乾いた声が落ちる。
「……理解できない、という顔だな」
フォンは、博士と同じ姿のまま、わずかに首を傾けた。
動きは滑らかで、だがどこか人形じみている。
視線が、ゆっくりと仲間たちをなぞる。
「私の能力は確かにコピーだ」
フォン・ダシは続ける。
「体格。筋力。戦闘スタイル。構え」
「全て、完全に再現する」
言葉を刻むたびに、空気が重くなる。
カルテが首をかしげた。
「同じ力なら……互角のはずです」
その時。
その言葉が空気に沈みきる前に――
世界が、わずかに引き伸ばされた。
風が止まる。
いや、正確には止まっていない。
吹いているはずの風が、布を揺らすまでに異様な時間を要している。
落ちかけた砂粒が、宙に縫い留められたようにゆっくりと沈んでいく。
「……っ、なに……?」
カロの声が、やけに間延びして響いた。
音そのものが引き延ばされ、現実の輪郭が曖昧になっていく。
その中心で――
ひとつの影が、何の抵抗も受けずに普通の速さで歩いてきた。
石畳を踏む足音だけが、異様にくっきりと響く。
シャン・ターンはゆったりとした足取りで凍りかけた世界を横切り、フォンの隣へと並ぶ。
周囲のすべてが鈍く、遅く、歪んでいる中で、
その存在だけが現実の時間を保っている。
「私の能力だ」
低く、落ち着いた声。だがそれは、この場の誰よりもはっきりと届く。
シャンは、わずかに手を上げた。すると、空気がさらに重く沈み込む。
「時空操作——対象の時間の流れを操る」
カロが息をのんだ。
「まさか、博士の動きを——」
シャン・ターンはうなずいた。
その目が、博士へと向けられる。
時間の壁越しに射抜くような視線。
「完全に動きを止めようとしたんだが......そのじいさんただものじゃないな」
「だが——」
「遅くすることは可能だ」
広場に沈黙が流れた。
カルテがハッと表情を変える。
「同じ能力……それなら動きが遅い方が......」
アルが歯を食いしばる。
「――負けるっ」
カロが唇を噛んだ。
「コピーと時間操作の組み合わせ……」
「なんて厄介な」
静寂が、さらに深く沈んだ。
遅く、重く、逃げ場のない時間の中で。
二つの異質な能力が、
完全に噛み合っているという事実だけが、
残酷なほど明確に浮かび上がっていた。




