第28発明 おつかい・ゆうかい・もういいかいなのじゃ
ジェット亭から一夜明けて――
朝。
研究室はいつも通りだった。
博士が奥の部屋で騒がしい物音をたてている。
アルがソファでぐったりと横になり、頭に冷やしたタオルをのせている。
カロが窓の外の景色を見て物思いにふける。
やかんの中で湯が静かに鳴りはじめる。
カルテは湯呑みを並べ、茶葉を急須に落とした。
お茶を注ぐ、トクトクという音が記憶に重なっていく。
昨夜は、自分の誕生日だった。
初めて飲んだお酒。
雪の中、四人で歩いた石畳。
交わした来年の約束。
お茶の香りが現実に戻す。
カルテの頬が緩み、それを隠すように湯呑みに口をつけた。
「カルテちゃん、何にやにやしてるの」
カロがいつの間にか外の景色からこちらへ視線を移していた。
「……なんでもないです」
「昨日のこと思い出してるんでしょ」
「わかっちゃいました?」
カロは優しく笑った。
玄関先で、軽く戸を叩く音がした。
控えめで、けれどためらいのないリズム。
カルテが扉を開けると、そこには親方が立っていた。
手には小さな紙袋を提げている。
少しだけ困ったような、しかしどこか頼りにしているような表情だった。
「すまねえ、朝から」
そう言って、親方は頭をかきながら紙袋を持ち上げる。
「これ、向こうの通りの——ほら、東の薬屋あるだろ? あそこに届けてほしいんだ。急ぎじゃないんだけど、ちょっと手が離せなくてさ」
言葉の端に、申し訳なさがにじむ。
けれど同時に、
“断られないだろう”という、長くこの町で積み重ねてきた関係の気安さも混じっている気がする。
カルテの視線が紙袋に落ちる。
中身は重くなさそうで、持ち運びに困るものでもない。
親方はそれに気づいたのか、少し安心したように笑った。
「ほんと助かる。帰りでもいいから」
まだ引き渡してもいないのに、どこかもう任せたような口ぶりだ。
だがそれは押しつけというより、この町特有の、ゆるやかな信頼の形だった。
荷物を受け取り、おつかいの準備をする。
壁にかかったコートを手に取り、扉に手をかけた。
「じゃあ、ちょっと行ってきますね」
振り向きざまにそう言うとカロと目が合った。
「気をつけるのよ」
短い言葉と共に小さく手が振られる。
「はい」
扉を開くと外の冷たい空気が滑りこんでくる。
コートの襟もとを引き寄せ、カルテは研究所を出た。
◇ ◇ ◇
街はいつも通りだった。
昨夜の雪がまだ石畳に残っている。
カルテは荷物を抱えながら歩いた。
東の薬屋はすぐに見つかる。
荷物をカウンターに置いた瞬間、
「ああ、ちょうどよかった」と店主が顔を上げた。
年季の入った木のカウンター越しに、こちらを見る目が妙に生き生きしている。
「これ、例のやつでしょ?最近ね、この手の注文が増えててさ」
受領印をもらってすぐ帰るつもりだったのに、
気づけば話の矛先は商品のことから、
仕入れ先の話、
さらには最近の天気の話にまで広がっていた。
店内にはほのかにコーヒーの匂いが残っていて、外の時間が少し遠く感じる。
「昔はね、この通りももっと人がいてねえ——」
店主は懐かしそうに目を細め、棚の奥に視線をやる。
その横顔に、話を切り上げるタイミングを見失う。
相槌を打つたびに、次の話題が自然とつながっていく。
腕時計にちらりと目を落とす。
思っていたよりも針が進んでいる。
それでも「そろそろ」と言い出す隙がない。
店主の言葉は途切れそうで途切れず、静かな店内にやわらかく響き続ける。
「いやあ、悪いね。つい話し込んじゃって」
そう言いながらも、店主はまだ少し名残惜しそうだった。
カルテもようやく笑って頷き、空になった手を軽く上げる。
「また来てよ。今度はゆっくり」
外に出ると、さっきまでの空気が嘘みたいに流れていく。
気づけば空が橙色に染まっていた。
思わず深呼吸をひとつしてから、研究所へと足を向けた。
さっきの長話が、なぜか少しだけ悪くないものに思えた。
◇ ◇ ◇
帰り道。
すでに日は落ちかけている。
長話をしてしまったことをほんの少し後悔しつつ
カルテはゆっくりと歩いた。
夜の空気は、昼間より少し重い。
昨夜四人で歩いた石畳を通りながら、カルテは空を見上げた。
初めて飲んだお酒......少し、大人になれた気がした。
昨夜のことがまた頭に浮かぶ。
博士の頭をぽんと叩く手。
アルの「当たり前だろ」という声。
カロの「来年も一緒に祝うわよ」という言葉。
カルテは髪飾りに触れた。
カロから昨夜もらった髪飾り。
「誕生日プレゼント、お守りみたいなものよ」
カロはそう言っていた。
カルテは少し考えた。
何かあるわけがない。
ただの帰り道だ。
そう思いながら、また歩き始めた。
風が吹き、コートの裾が揺れる。
人気のない石畳は、やけに静かだ。
耳に届くのは風の音と、自分の足音だけ
―――のはずだった。
コツ、コツ。
ほんのわずかに、もう一つのリズムが混じる。
「失礼」
声がした。
振り返ると——
ローブをまとった人物が立っていた。
フードを深くかぶっている。
体格からして、若い男のようだった。
「道をお聞きしてもいいですか」
穏やかな声だった。
カルテは少し警戒しながら答えた。
「……はい、なんですか」
男は一歩近づいた。
「研究室はどちらの方向でしょう」
「あちらの方向ですよ」
カルテが指差した。
その瞬間。
足元から、音もなく何かが広がった。
見えない。
——何かに閉じ込められた感覚があった。
カルテが足を動かそうとする。
しかし、動かなかった。
「……え?」
男がフードを少し下げた。
細い目。
薄い唇。
静かな表情。
「カルテ・バレンタイン」
男は静かに言った。
「一緒に来てもらいます」
「な——」
突然の恐怖で言葉にならない声を漏らした。
男はしばらくカルテを見ていた。
そして——
「行きましょう」
足元の何かが動き始めた。
カルテの体が、じわりと引っ張られる。
抵抗できない。
カルテは髪飾りを——
握りしめた。
その様子を見た男は少し考えた後、その髪飾りを凝視する。
「魔力付与の髪飾り?......どうせ無駄です」
男の手は結界に阻まれることなくすり抜け
カルテの手から髪飾りを取り上げる。
そして―――
それを放り投げた。
カラン。
そうして、男はカルテを連れて森の奥へと進みだす。
まだ雪がわずかに残った石畳には髪飾りだけが残った。
◇ ◇ ◇
研究室。
湯呑みの縁から、ほそく立ちのぼる白い湯気が、ゆらゆらと空気に溶けていく。
カロは頬杖をついたまま、その流れに指先を差し出した。
触れた瞬間、湯気は散ることなく、糸のようにまとわりつく。
くすり、と小さく笑う。
指先に込めたわずかな魔力が、湯気を形に変えていく。
細く伸ばし、輪にし、ほどいてはまた結び直す。
まるで退屈しのぎの遊びのように、気まぐれに操る。
白い煙が、小さな鳥の形を取って羽ばたいた。
「……」
その様子をぼんやりと眺めながら、カロはさらに魔力を練る。
今度は羽を一枚一枚、丁寧に整える。
現実にはありえないほど精緻な、儚い造形。
だが、そのときだった。
ふ、と。
指先の感覚に、ごくわずかな“ズレ”が混じる。
糸を引くように操っていたはずの湯気が、一瞬だけ、自分の意図から外れた。
「……?」
カロの指が止まる。
鳥の形をしていた湯気は、形を保ったまま、ほんのわずかに遅れてから崩れた。
遅れ。
ほんの一拍にも満たない、微細な違和感。
だが——それは確かに、自分の魔力制御の精度では起こり得ないはずのものだった。
カロの視線が、すっと細くなる。
遊び半分で広げていた魔力探知の意識を、ゆっくりと研ぎ澄ます。
ぼやけていた感覚が、輪郭を持ち始める。
そして——
「……なに、これ」
ぽつりと、声が落ちた。
さっきまで遊んでいた湯気は、もう形を結ばず、ただ静かに消えていく。
カロはゆっくりと立ち上がった。
夜になり、調子を幾分か取り戻したアルが振り返る。
「どうした」
カロは静かに言った。
「……おかしい」
間を置かず、続ける。
「魔力反応が消えて、また戻った。でも今は——動いていない」
アルが立ち上がった。ソファから体を起こす動作に、さっきまでの気だるさはなかった。
「何?」
「カルテちゃんに魔力付与の髪飾りを渡してあったの。その反応がいったん消えて、また出てきたと思ったら——同じ場所から動かなくなってる」
言葉にすると、不安が輪郭を持つ。
アルが拳を握った。指先が白くなる。
「……何かあったってことか」
返事はなかった。カロはすでに上着を羽織っていた。
「行くわよ」
奥の部屋の扉が開いた。博士だった。何かを察したのか、表情がすでに変わっている。
「カルテちゃんが——」
カロの言葉を最後まで聞かず、博士は研究室を飛び出した。




