第21発明 吹雪の夜と魔女の約束なのじゃ
たけきのこの国の外れに、碧眼の白狼亭という宿屋がある。
西の国から仕入れた果実で作る豊富な種類の果実酒で有名な宿だ。
夜。
カロ・リゼロは一人、宿の窓から外を見ていた。
黒髪が肩に落ちる。
月が出ていた。
西の国と同じ月が。
「……」
カロは窓を閉じた。
ベッドに横になる。
目を閉じる。
やがて——
夢を見た。
昔の夢を。
◇ ◇ ◇
吹雪は、世界を白く塗りつぶしていた。
空も地面も区別がつかない。
足跡はすぐに消え、音さえ凍りつく。
少女はその中を、ただ前へと進んでいた。
進んでいるつもりだった。
「……帰り道……どこ……」
唇は青く、声はかすれる。
膝が折れ、少女は雪に手をついた。
その瞬間、風が変わった。
荒れ狂っていた吹雪が、ぴたりと止む。
静寂の中、雪がゆっくりと落ちてくる。
その奥に――それは、立っていた。
巨大な鹿だった。
角は枝分かれした氷でできており、夜の光を受けて淡く輝く。
吐く息は白く、しかしその周囲だけは不思議と寒くない。
瞳は深い蒼。
人ではないのに、どこか知性を感じさせる。
「……小さき者」
声は空気ではなく、直接心に届いた。
少女は顔を上げる。
「……きれい……」
それが最初の言葉だった。
鹿は、ほんのわずかに首を傾けた。
「ここは命を落とす場所だ。なぜ来た」
「……わかんない……気づいたら……」
言葉は途切れ、少女の体が傾く。
その瞬間、鹿が一歩近づいた。
蹄が雪に触れると、そこだけが凍りではなく、やわらかな光に変わる。
鹿は静かに鼻先を少女へ寄せた。
触れた瞬間、冷たさはなく、代わりに澄んだ温もりが広がる。
凍りついていた感覚が戻り、少女は息を吸い込んだ。
「……あったかい……」
鹿の周囲だけ、風が穏やかになる。
吹雪は遠ざかり、二人の間にだけ、静かな空間が生まれた。
「眠れ」
鹿は言った。
「ここでなら、命はつながる」
少女は逆らわなかった。
まるでそれが当然であるかのように、雪の上に身を預ける。
鹿はそのそばに立ち、動かなかった。
一晩中。
風を押し返し、雪を遠ざけ、ただ守り続けた。
目を覚ましたとき、空は淡く明るんでいた。
少女はゆっくりと体を起こす。
寒くない。
痛くもない。
そして、すぐそばに――あの鹿がいた。
「……生きてる」
「お前が望んだからだ」
少女はしばらく鹿を見つめて、それから小さく笑った。
「助けてくれて、ありがとう」
鹿は何も答えなかった。
だが、その瞳はわずかにやわらいだ。
少女は立ち上がり、ふらつきながらも一歩近づく。
「ねえ」
「なんだ」
「また、会える?」
鹿は沈黙した。
雪原を渡る風が、静かに鳴る。
「この地に来るならば、会うことはできる。私はこの地のどこにでもいる。」
少女の顔がぱっと明るくなる。
「ほんと?」
「ああ」
少女は少し考えたあと、言った。
「じゃあ、大人になってもずっと一緒だよ」
鹿はその言葉を聞き、じっと少女を見た。
その瞳の奥で、長い時の流れがわずかに揺れる。
やがて、鹿は口を開いた。
「ならば――その時」
空気が、静かに張りつめる。
「お前の歩む季節を、我に預けよ」
少女は瞬きをする。
「……え?」
鹿は続ける。
「我が冬は尽きぬ。だが、お前の時は限りある」
雪が舞う。
「その終わりまで、我に捧げよ」
言葉は静かだったが、揺るがなかった。
少女は意味を完全には理解できなかった。
それでも――
大切な約束だということだけは、なぜか分かった。
「……うん」
少女はうなずいた。
「約束する」
鹿は目を細める。
その瞬間、風がやわらかく揺れた。
まるで祝福するかのように。
こうして氷の魔女は誕生した。
◇ ◇ ◇
カロは目を開けた。
見慣れない天井。
宿の部屋だった。
窓の外はまだ暗い。
夜明け前だった。
カロはゆっくりと体を起こした。
手のひらを見つめる。
薄く霜がまとわりついていた。
夢を見るたびに、こうなる。
「……また、この夢」
カロは静かにつぶやいた。
窓の外に目を向ける。
月が傾いていた。
「歩む季節を、我に預けよ」
あの言葉の意味を、カロはずっと考えてきた。
精霊界に連れていかれる。
おそらくこの命さえも...
そういうことだと、ずっと思っていた。
カロは膝を抱えた。
「……知ってる」
小さく、誰にも聞こえない声で言った。
「わかってる」
「でも」
窓の向こうに、研究室の灯りが見えた。
博士がまだ起きているのか、窓に明かりがついていた。
カロはしばらくその灯りを見ていた。
それから――
静かに布団を引き寄せた。
「……もう少しだけ」
目を閉じる。
夜明けまで、まだ時間がある。




