第三十七話 また明日と、彼女は。 其の九
その後、肇を連れて自宅に戻った結華は、「ちょっと部屋で待ってて」と言い残すとすぐに脱衣所へ向かった。
「そういえば、最期を迎える前にシャワーを浴びたいとか、前の結華は言ってたっけな……」
一人呟き、肇は部屋の座椅子に体重を預ける。
階下から僅かに聞こえるシャワーの音は窓の外の雨音と重なり、彼を眠りに誘っていく。
「ん……」
遂に、腕組みをしたまま目を閉じてしまう彼。数回頭をコクリコクリと揺らすと、そのまま意識をブラックアウトさせてしまった。
それからしばらく後、部屋のドアを開ける音に反応し、下がっていた頭を起こすと、肇の眼前にいたのは、ラフな部屋着姿の結華だった。
「……ごめん、起こしちゃったかな?」
「いや、良いよ。それより今は、早く話がしたい」
「そっか……うん。ちょっと待っててね、今髪乾かすから」
何か一人納得すると、結華は片手に持っていたドライヤーのプラグを部屋のコンセントに挿す。
彼女はそのすぐ脇のカーペットの上にぺたん座りをすると、ブオォと大きな音を立てるそれで濡れ髪を乾かし始めた。
果たして、それからしばらくの後。
「……お待たせ。えっと、それじゃあ、肇くんごめん、しばらく後ろ向いてて!」
「えっ、なんで?」
「良いから!」
乾かし終えいつもの質感に戻ったセミロングの黒髪を揺らし、結華は肇の手を強く引く。
そんな彼女の姿に内心首を傾げつつも、肇は一度その場に立つと、カーテンの方へと身を翻した。
「ぜ……絶対、今後ろ向いちゃ駄目、だからね……」
「……分かったよ」
シュルリと何かが擦れる小さな音を聞きながら、肇は頷く。
シュルリ、プチッ、シュルリ、シュルリ……と連続して何かの音が室内に小さく木霊する。
その音の意味を肇が理解してしまった頃、室内にはドライヤーの風に乗ったシャンプーの甘い匂いが充満していて、彼はゴクリと生唾を飲み込んだ。
「……手、握らせて」
「……あぁ」
……手汗に濡れてはないだろうか。と心配しつつも、肇は後ろに片手を伸ばす。すると間を置かずに彼女の両手がそれを包み、肇にその温度と柔らかな感触を伝えた。
「…………神様の声は、生まれたままの姿でいるときが一番よく聞こえるんだよ。だから――ごめんなさい、しばらくこのままで集中させて」
「わ……分かった」
正直気が気でないが、肇は頷く。
結華は数度深呼吸を繰り返すと、握る手のひらに力を込める。
無言で意識を集中させていた彼女に変化があったのは、肇がようやくこの状況を飲み込み落ち着いた頃のことだった。
「…………肇くん、今、多分神様この部屋に来てるよ」
「なっ……えっ……?」
肇は右に左に首を動かすも、しかし部屋に変化はない。彼女の言葉を疑うわけではないが、信じがたいというのが彼の本音である。
「あっあっ、絶対後ろ見たらダメ! ダメだからね!」
「わ、分かってるって!」
手のひらに力を込め声を荒げる結華に、肇は頭の動きを止める。彼女に倣い深呼吸を繰り返し落ち着くと、結華は言葉を続けた。
「…………神様は、肇くんと早速話がしたいみたいだよ。興味があるって」
「そうか。えっと……今更だけどこういう時、何かお辞儀とかしないといけないのかな?」
「あー……今はそういうの必要ないって言ってるのかな? 普通にしてて良いみたいだよ」
「そうか、それじゃこのままで。えっと――神様」
目に見えない存在に話しかけるというのは中々違和感があるが、肇はあの神社で神へ祈ったあの日を思い出し、言葉を続ける。
「……結論から言います。僕はあなたと結華の結婚に反対していますし、出来るならそれを止めたいとも思っています」
「…………えっと、続けて良いって」
神の言葉を代弁する結華に、肇は小さく頷く。
「……ですが、自分が二人の間に割っては入れるほどの〝縁〟を持ち合わせていない事も理解しています。……そこで、神様に質問があります。――僕が二人の間に割って入るには、あとどれ程の縁を積み重ねれば良いですか」
「肇くん……」
「…………ごめん、結華。先に謝らせてくれ。この世界の結華は……」
「……分かってるって、もう…………あっ、ちょっと待って……これは……何かの数字かな?」
「……言ってくれ」
「う、うん……。七、八、四、零……日にち、足りる……多分これは……でも、そんな事……」
「……神様は、なんて言ったんだ? ……僕に構わず続けてくれ」
「う、うん……。これは……必要な日数だね。肇くんはこれから――七千八百四十日、わたしと縁を重ねないといけないって。……でも、そんなの……!」
「そうか……」
肇はこれから、七千回以上結華の死を見届ける事で、ようやく二人の間に割って入る事が出来る。……そう、神は言っているのである。
「……それだけなのか?」
「……えっ?」
「僕が二人の間に入るのに、他に必要なものはないのか?」
気が遠くなるような試行回数を耳にしても、肇の心は揺るがない。
今とこれまでとでは、まるで状況が異なっていたからだ。
「…………他には何も、いらないって」
「そうか……。それじゃあ神様には、一旦お帰り願おうかな」
口角を上げる肇。
これまでの十倍以上の結華の死を、彼は見届けなくてはならない。しかしその心は絶望に沈むことなく、やるべき事がはっきりとした今その目はただ前だけを見据えていた。
「えぇっ!? ……あ、あぁ神様! ……あっ、反応が返ってこない……ほんとに消えちゃったみたい」
「……そうか。それじゃあそろそろ服着てくれるか? 僕、そろそろ腰を落ち着けたいんだけど」
「えっ? あ……あぁそうだったね! ……ちょっと待っててね、すぐ着るから」
重ねた手を離し、結華は再び衣服が擦れる小さな音を部屋に響かせていく。
ようやく面と向かって話が出来る格好になると、二人は最後のひとときを過ごし始めた。
……今回の結華の最期は、これまでと明らかに様子が異なっていた。
「……それじゃ、行ってらっしゃい、肇くん」
「あぁ、必ず助けるよ」
その表情は満足どころか肇の事を心から心配するような複雑な顔で、それでもなんとか笑顔を作り別れの言葉を口にしていたのだ。
「もし、肇くんが耐えられなくなったりしたら……いつでも楽になって良いんだからね?」
横たわったベッドの上で、彼女は肇の頬を優しく撫でる。
その手を強く握ると、肇はその目を真っ直ぐに見据え、言葉を返した。
「僕は……楽になりたいわけじゃないんだよ。…………今回のことで、やっと……やっと、分かったんだ。楽になった程度じゃ、僕の心は満たされないって」
「……それなら、どうすれば肇くんは満たされるの……?」
「僕は……僕自身は、きっとどれだけ苦しくったって構わないんだよ。でも……やっぱり、隣に結華がいない人生は、考えられないんだ…………」
ほんの、一回。
しかし……今回に限っては肇は結華の死を受け入れ楽になろうとしていた。彼自身それが本心だと思っていたし、そう振る舞った。
しかし、現実は違っていた。彼には、結華のいない未来など、一切想像出来ていなかったのだから。
「楽になんて、ならなくったって良い。僕がどれだけ傷ついても構わない。だから、結華。――もう僕の傍を離れないでくれ、ずっと一緒にいたいんだ」
「…………酷いなぁ、肇くんは。鬼畜だよぉ」
その手を握り返すと、結華は口角を上げる。先程までの複雑な表情は、もうどこかへ消え失せていた。
「最後の最後なのに――もっと生きていたい、って、思っちゃったよ……叶わないのに」
彼女の横顔を、一筋の雫が伝い落ちる。
「だから言っただろ、ごめんって」
「ふふ……分かってたのにね。……肇くん、最後に一つだけ、お願い事を聞いてくれる?」
「……僕に叶えられる事なら」
「ありがとう。……あの神様のこと、恨んだりしないんで欲しいんだ。…………わたしの事は、事故みたいなものだから」
「…………それはまた、難しい願いだな……」
「だよね。……でも、あの神様は何度もわたしに謝っていたし、後悔の気持ちも沢山沢山伝わってきたの。だから……もし神様と実際に会えたら、頭を撫でてあげて。そして出来たら、一人でずっと辛かったあの子を、抱きしめてほしいの」
「…………こんな時に、他人の心配か?」
「……うん、いつまでも悲劇のヒロインなんて、ちょっとウザいでしょ?」
白い歯を見せて笑う結華。……もうすぐそこに、最期の時が迫っていた。
「……まぁ、それについては善処するよ。……そろそろ、寝た方が良い」
「そう……だね。うん、それじゃ、出来るだけ穏便にお願いします。……おやすみ、肇くん」
「あぁ、おやすみ」
瞳を閉じた彼女の頭を撫でる肇。
それからしばらく後、結華が事切れたことを確認した彼は、いつもの言葉と共にあの日へと向かっていった。




