第三十二話 また明日と、彼女は。 其の四
それから程なくして、セリカは神社を後にした。……念のため、肇は家まで送る提案をしたのだが、今日は迎えが来ているので問題ないらしい。
兎にも角にも、今現在肇はこのくたびれた神社に一人きり。……神という存在がいるのかは不明だが、仮にそれに相当する何かがいるのなら、今の状況は神頼みにはおあつらえ向きだと肇には思えた。
「結華はあの夜、何を願ったんだ…………」
自分事に置き換え肇は思案する。
結華はあの夜、ここに何かを願おうとして、それが叶わず何かのきっかけで絶命した。結華の死と、潰えた彼女の願い。……この二つは、果たして無関係だろうか?
「あるいは、それ自体が……」
結華は、自分に死が迫っていると知っていて、それを止めて欲しいと神に願おうとした?
……今にして思えば、前日の結華の様子はおかしかった。それが、自分の死の運命に抗うためのものだとしたら?
「――だとしたら、ここで僕が願う事は決まったな」
神頼みというものをするのは、彼には初めての経験だ。
その正式な作法も、何の知識も無いそれは、深い一礼という形で始まりを告げる。
「――神様。……僕は、伊坂実結華という幼馴染みを、亡くしてしまいました。……結華は、まだ十七歳になったばかりで、だから……まだ死ぬべきじゃないんです。死んで欲しくないんです。
――神様。そんな彼女は、死の直前あなたに願おうとしていました。僕が今からあなたに願う事は、きっとあの時の結華の心からの叫びです。
――神様。……どうか結華を、助けて下さい」
藁にもすがる思い、という言葉の意味を噛み締めながら、肇は最後の言葉と共に改めて深々と頭を下げる。
――だって、こんな結末は、あんまりじゃないか……。
その心の叫びに応えるかのように、その全身が白い光に包まれる。
「うわっ、な――」
何だこれ、と彼が叫ぶその直前、頭の中で誰かの声が聞こえた気がした。
――良かろう。ただし、助けるのは儂の仕事ではない。まずはこの言葉を覚えておけ。
『還縛想生』
――その結末に得心いかなければ、何度でもこの言葉を口にすると良い。
遂にその意識すら光の中に溶けていき、肇は雫となり何かの中にポチャリと飛び込む。
その水面は反時計回りに回り、肇だった液ごと底の向こうへと連れて行く。
何かがその背を押したような感触が伝わり、遅れて聞こえてきたのは若者達の話し声と雨音。
「は――?」
「……? だから、今日は一緒にどこか出掛けよう、って……肇くん大丈夫? 急にぼーっとしたりして」
何度か瞬きを繰り返すと、ようやくその映像を認識する肇。……彼女だ。
「結……華…………?」
「……? 結華だよ? ……本当に大丈夫?」
しなやかな肢体に、雪の肌。目鼻立ちの良い顔立ちに、セミロングの黒髪。いつもと同じ、セーラー服姿。
それは見間違えるはずもない彼女の姿で、思わず肇は彼女を抱きしめてしまう。
「――ちょ、肇くんここ学校だから! 周りの子たち見てるって!」
「良かった……本当に、良かった…………ここに、いるんだな」
最初は赤面し小さくなっていた結華も、ただならぬ肇の様子に「……もう、何当たり前のこと聞いてるの?」とその背に手を回す。
「…………少し、悪い夢を見ていたみたいだ」
「まったく、肇くんは仕方ないなぁ」
その言葉と共に、彼女は子どもをあやす様に肇の背を撫でる。
「肇くんさえ良ければ、わたしのことはいくらでも抱きしめて良いよ? ……ただ、時と場所は考えて欲しいかな」
「……悪い。もう少しだけこのまま……」
「……まぁ、わたしも悪い気はしないけど。……本当に、もう少しだけだよ?」
それから肇は、彼女の存在を見失わないように、と彼女の温度を確かめ続けた。
……もう少しだけ、と言っていた結華もそれを止める事はしなかったため、ゆっくりと体を離しお互いに見つめ合う頃には、二人分の体温でどちらもすっかり体が火照ってしまっていた。
「…………ふふ、ジュースでも買いに行こうか」
「だな」
結華の穏やかな笑顔につれれ、肇も笑ってしまう。ようやく気持ちが落ち着いてきたが、現状を整理するその前にまずは結華の言葉に従うことにした。
ガコンガコンと音を立て、二人分の缶飲料が取り出し口に落ちてくる。
こういう悪天候の時ばかりは渡り廊下脇に設置された自販機に感謝してしまう肇である。
「ほら、結華」
「ありがと」
マスカットジュースの方を手渡す肇。今日は誕生日の前祝いも兼ねて、肇が二人分のジュース代を出す形となった。
「…………雨、止まないな」
「……だねぇ」
二人揃ってプルタブの蓋を開け、それぞれ一口ずつ飲む。
その終わりと共に、短い沈黙が訪れる。聞こえてくるのは地面を濡らす絶え間ない雨音だけで、生徒達の声もすっかり小さくなっていた。
――そうだ、結華が生きているという事は……。
安心している場合ではない。そう頭を切り替え肇は携帯端末を確認する。
本日は六月二十九日、金曜日。時刻は午後十六時十七分。
「――そうか……」
確認したそれをズボンのポケットに仕舞い、肇は勢いよくジュースを呷る。炭酸の効いたグレープが彼の喉をパチパチと刺激し、その意識をより覚醒させた。
――あの日に、僕は帰ってきたんだな。
……しかし、このままでは明日、結華は死に至る。
肇の推測では彼女はそれを知っていたわけだが、どう言葉をかけて良いか分からず頭を悩ませてしまう。……ストレートに聞いたところで、怪しまれてしまうのがオチだろう。
「……それで、肇くんあんなところで寝てたの?」
「えっ?」
意図の分からない質問に、肇は目を丸くしてしまう。
「だから、さっき言ってたじゃん。悪い夢を見てたみたいだって。……わたし、肇くんにあんなに強く抱きしめられたの、初めてだよ。…………どんな夢だったのか、聞いても大丈夫かな?」
「それは――いや、それなら僕も聞きたいことがある」
「何?」
「なんでこんな雨の日の放課後に、結華は僕と出掛けたいだなんて思ったんだ?」
……自分の死の運命を知っていたのか? その言葉を胸の奥に仕舞い、肇はどうにか質問を質問で返す。その言葉に、一瞬結華の表情に影が差したように見えたのは、気のせいではないだろう。
「それは…………きっと、肇くんとどこか遠くに逃げたいからだよ」
「結華……」
……もし。もしその言葉が事実だったとするなら、あの日の肇の行動は、彼女の思いを裏切った事になる。それなら、肇は――。
「――なんてね、もう七月になるから、六月最後の思い出でも作ろうかなって思っただけだよ。……肇くん真剣に悩みすぎだって、ちょっと顔怖いよ」
「でも……」
「はい、次は肇くんの番。……肇くんは、どんな夢を見ていたの?」
肇の心情を知ってか知らずか、結華は先を促す。
上手く答えを濁されたようだが、答えないわけにもいかず、肇は言葉を選びながらあの数日を語る事にする。
「――好きな人がいたんだ」
「……うん」
「……でも、僕にとってその人は隣にいるのが当たり前過ぎて、その大切さに気づけないんだ」
肇の言葉に、結華はただ頷いて先を促す。
「……結局、気づけたのは全てが手遅れになってから。僕はその夢の中で一人永遠に取り残されて暗闇を彷徨い続ける。……そんな夢だよ」
肇の言葉を真剣に聞いていた結華は、「ふぅん」と今度は軽い返事をし、彼の方へ一歩近づく。
それは背を押せば体が触れあってしまう距離感で、近くで見るとより分かるその女性らしい柔らかな体つきに、肇は内心ドキリとした。
「……肇くんはもう少し嘘をつくのが上手になった方が良いかもね? ……まぁ、そんなところもわたしは好きなんだけど」
結華は口角を上げたまま、しかし肇が胸の奥に仕舞っていた真実を口にする。
「お陰で確信が持てたよ。――やっぱりわたし、明日死ぬんだね」
その言葉に、肇は答えることが出来ない。……答えてしまえば、それが現実になってしまう気がしたからだ。
……ザァザァと徐々に強まる雨音が、イヤにけたたましく感じる。息をするのが難しい。
答えの代わりに、肇はゴクリと固唾を呑む。
二人の表情は正反対で、しかしそのどちらもこの物語の行く末を知っていたのだ。




