第三十話 また明日と、彼女は。 其の二
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明後日の夕方、結華の葬式が行われる。
母伝いにそれを聞いた肇の顔は憔悴しきっていて、彼は小さく頷くことしか出来なかった。……今はただ、幼い頃から多くの時を共に過ごした彼女が隣にいない事が信じられなくて、現実のものと思えなかったのだ。
肇は考える。……彼女の体が灼かれ骨だけが残れば、少しは実感が湧くのだろうか。
「――」
声にならない声をあげ、肇は携帯端末のメッセージ履歴を確認する。
――ほら、ここには在るじゃないか。
画面の向こうに見えるのは、いつも通りの彼女の姿だ。
普段は穏やかで、しかしその実芯が強く嫌な事には従わない彼女。……そんな彼女は、既にこの世にいない。
「……なんで、結華なんだ…………」
吐き気を堪え、肇は目を強く瞑る。
窓を叩く雨音は激しさを増すばかりで、たまに轟く雷の音と共に暗闇の自室の輪郭を浮かばせる。
……明後日が来てしまうことが、今はただただ恐ろしい。
涙はとっくに枯れてしまい、今の彼を支配しているのは彼女の死が確定してしまう事に対する恐怖心だけだった。
肇は掛け布団を頭から被り、枕にその顔を押しつける。
皮肉にも程よい倦怠感は徐々に彼の瞼を重くし、遂にその意識をブラックアウトさせてしまう。
これから先彼の生活の中に、結華はいない。ただ、深い悲しみだけが残留し心を縛るのみだ。
肇が目を覚まし携帯端末を確認すると、時間は深夜の二時手前。
重たい体をどうにか起こし、彼は忍び足で階下に下り洗面所へ向かう。
ピシャリ、ピシャリ。と何度か冷水を顔に浴びせ、気持ち悪い口内を洗口液で洗い流す。
……三面鏡で確認した自分の顔は酷いもので、先程まで眠っていたにも関わらずその顔は血色の悪い土気色だった。注意深く見ると目元からも疲れが窺え、とても若人の顔には見えない程だ。
「――クソッ」
……こんな時でも、人間というものは腹を空かせてしまうらしい。
その事実に、肇は一人怒りその下腹部を拳で殴りつけた。
居間に向かい冷蔵庫を開けると、中には母手製の家庭料理が皿に盛られ綺麗に直されていた。と、その皿を包むラップの上に一枚のメモ紙が貼られていることに彼は気づく。
「なんだ……?」
〝今の肇には口で伝えても仕方ないだろうから、紙に残しました。
結華ちゃんに出会った日のこと、肇は覚えているかな? 私は、今でもはっきりと覚えているよ。
あの頃から結華ちゃんは本当に可愛くて、肌なんか真っ白で、写真で見せてもらったお母さんそっくりの美人さんになるって、私は思っていたよ。
結華ちゃんは優しくて、でも、たまに男の子と喧嘩をする事もあるような芯の強い子でもあったよね。あんなに良い子いないって、お母さん今でも思うな。
でも、あの子は昨夜亡くなりました。それは事実です。
体があんなに綺麗なままだから、余計に信じられなかったよね。でも、もうあの子は居ないの。
もう結華ちゃんはご飯を食べたり出来ないし、永眠なんて言葉はあるけど、きっと私達のように眠る事もないと思うの。
だからあの子の分も生きろとは言いません。そんなの無責任だから。ただ、まずあなたは今を生きて下さい。
ご飯を食べて。よく寝て。洗濯物を取り込んで。
そんな日常をとりあえず続けてみて、学校にもいつも通り行って下さい。
それを続けていく中であなたが少しでも結華ちゃんの事を受け入れられるようになったなら、彼女の家に一人で行ってみて下さい。結華ちゃんのお父さんから、大事な話があるみたいです。
それから、私もお父さんも、結華ちゃんの事が大好きです。だからもう会えないのは悲しくて涙が止まりません。でも、私達は大人だから、あなたより先に今を続けていく事にします。
肇は私達のことを冷たいって思うかもしれないけど、その事を忘れないで欲しいの。それから、こんな時くらいあなたは子どもみたいに泣いて下さい。見ている方が辛いです。〟
「何なんだよ……」
ため息混じりにそれらをレンジで温め、肇は食卓に着く。
「――いただきます」
早速、肇は箸を進めていく。
――結華は、こういう時にお母さんから言葉をもらう事も出来なかったんだよな。
「けほっ――クソッ」
上手くそれを咀嚼出来ず、彼はグラスに注いだ麦茶を流し込む。
箸は止まらず、今度は皿ごとおかずを口内に掻き込んでいく。
――結華は、こういう時にお母さんから手料理を作ってもらう事も出来なかったんだよな。
「何なんだよ……今更……」
溢れた感情は止まる事なく、彼の頬を雫が伝い落ちる。
なんとか皿に盛られたおかずを平らげると、涙でその景色を歪ませながらも彼は麦茶を流し込む。……が、堰を切ったように溢れ始めた涙は止まらず、その声も震えてしまう。
「なんで……いないんだよ……また明日って、言っただろうが…………」
いつからか、彼にとって伊坂実結華という一人の少女が隣にいることはあまりに当たり前になってしまっていた。
朝起きて、制服に着替え朝食を済ませると、彼女と共に学校へ向かう。昼食も、帰り道も、休日だって、とりとめもない話でもしながら共に過ごす。
それがあまりに当たり前すぎて、彼は彼女のいない日常をイメージする事すらままならず、失って初めてその大切さに気がついたのだ。
遂に、彼は今は亡き幼馴染みを想い声をあげて泣き始める。
それは生まれたての赤子のような叫びで、二階から慌てて下りてきた両親は、彼を包み込むように抱きしめた。
◆
結華の葬儀が終わり、さらに数日後。彼女の死からおよそ一週間が経った土曜日の朝。
変わらず気持ちは沈んだままだが、どうにか今を生きることが出来るようになった肇は、母の手紙に従い伊坂実家を訪ねる事にした。
「休日だし、まだいるとは思うんだけど……」
家のチャイムを鳴らす。
ピンポンと聞き慣れた機械音を響かせると、しばらくで中年男性の声が返ってきた。
『――はい』
「あっ、僕……肇です。依本肇です」
『すぐに開けるよ』
その名を聞くなり納得したのか、言葉通り男はすぐさまその足音を響かせ、玄関のドアを開ける。
「……おはようございます」
「あぁ、おはよう。お母さんから話を聞いたんだね。……今日は暑い、中で涼みなさい」
「ありがとうございます、お邪魔します」
小さく頭を下げると、肇は男……もとい、結華の父に従い玄関に入り靴を脱ぐ。
それから彼に案内されたのは、居間の方だった。
室内はかなり物が整理されていて、しかしどこか寂しさのようなものを感じさせる。……この広い一軒家に、今は彼一人しか住んでいないのだ。
「そこで待っててくれるかな、飲み物を準備するよ」
彼の言葉に、肇は頷き食卓につく。
その四脚椅子は中々年季の入ったもので、向かいに見えるそれと同じ物らしかった。……ここにはまだ、彼女のいた証があるのだ。
「はい、ただの麦茶だけど」
「いえ、いただきます」
彼がその向かいの席に座るのを確認すると、肇は出された麦茶を一口飲む。
一分にも満たない短い沈黙の後、彼はゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「……結華の話をしても大丈夫かな」
「……はい」
今一番辛いのは実父である彼本人だろうに、穏やかな表情のまま彼は確認をする。その髪に白い物が混じり頬が僅かに痩けているのは、気のせいではないだろう。
――大人になれば、身近な人が死んでもこういう振る舞いをしなければならないんだろうか。
「……親馬鹿だと思われるかもしれないけど、僕にとってあの子は、本当に良く出来た娘だったんだ。燈華さんが亡くなってからは、その穴を埋めるように家の事を毎日こなしてくれてね。……僕は基本、働くしか能の無い男で、だから凄く助かっていたよ」
「……」
彼の言葉は重く、軽く言葉を返すことが憚られてしまう。肇はただその場に無言で耳を傾け続ける事しか出来なかった。
「…………だから、僕にはあの子が突然居なくなるなんて、まったく想像も出来なくてね。心にぽっかり穴が空いたっていうのは、きっと今の状態を言うんだろう」
「…………僕も。僕だって、まだ信じられないんです。だって、ちょっと前まで当たり前に連絡を取り合ってて、学校にも普通に行ってて…………」
「……そうだよね、きっと皆そうなんだよ。それだけ、結華は人から愛されていたという事かな。…………それで、肇君。結華があの日、どのように息を引き取ったか、聞いているかな?」
「母からは、心臓に何か異常があって、そのまま……とだけ」
「やっぱり、そうか。――肇君。僕は君には、真実を知ってもらいたい。……しかし、君に強制はしたくない。このままここを去っても良いだろう。あるいはその方が楽かもしれない」
「……一体、何があったっていうんですか」
卓上に肘をつく彼の眼光は先程までと異なり鋭く、その目は真っ直ぐ向かいに座る肇を見据える。二人きりの居間は、異様な空気となり始めていた。
「それは……真実を知りたい、と受け取って良いのかな?」
「――はい。少しでも、結華の事を知れるのなら」
言葉と共に肇は残りの麦茶を一気に呷る。
卓上に置いた空のグラスはカンと音を立て、それを聞いた彼は、あの日の真実を語り始めた。




