第二十七話 あなたは向き合うことから逃げなかったのだから。
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怒濤の水曜日が明け、晴れやかな日和となった木曜日の朝。
結局昨日は最後まで目を覚まさなかった彼女を心配しつつも、学生の身分である肇は仕方なく朝の支度を淡々とこなしていく。
口の中を洗い流し、顔を洗い、寝ぐせを直したところで着慣れた夏の制服に袖を通していく。……と、ここまで来たところで突如彼の携帯端末が着信音を鳴らした。
「誰だ、こんな時間に――って、月!?」
件の少女からの着信にドキリとしつつも、肇はどうにか端末を操作し応答する。
「……もしもし、月か?」
『……おはようございます、依本くん』
「…………もう、大丈夫なのか」
『……はい。体はむしろいつもより元気なくらいで。それで、今朝はお姉ちゃんとお父さんに頭を下げて、ここまで来たんです。……家の外に出てきてもらえますか?』
「分かった、少し待っててくれ」
肇は速やかに制服に着替えいつもの姿となると、「ごめん、ちょっと友達来てるから」と一言親に言い残し玄関を飛び出す。
視界に飛び込んできたのは、いつものおさげ髪を風に靡かせ、穏やかな表情で微笑む、セーラー服姿の褐色乙女の姿だった。
「――おはようございます、依本くん」
それは昨日の妖しい雰囲気を纏った彼女とは違う、紛れもなくいつもの彼女の姿で。
ホッと胸を撫で下ろした肇は、小さく息を吸うと微笑み返す。
「おはよう、月。……おかえり、の方が良かったか?」
「ふふっ、それ……ちょっとグッときちゃいますね」
月は苦笑し、早速本題に入っていく。
「昨日はその……本当に、ごめんなさい」
彼女が深々と頭を下げると、その艶やかな黒髪が宙に美しく弧を描く。
その行動は勿論想定していた肇だが、流石にこうしてそれを目の当たりにすると中々反応に困ってしまうもので、「……いいって、顔を上げてくれ」と返すのが精一杯だった。
「……でも、私は……結華ちゃんと依本くんがどんな関係か知ってて、それでも、手を出そうとしたんです」
彼の言葉に、しかし月は頭を下げたまま動かない。
「でも、あれは……あの女が悪いんだよな? 呪いに掛けられたって」
少女は頭を振り否定する。
「あの呪いは、元々ある欲求を強く引き出してしまうものなんです。……突然その気にさせるものではないんですよ。私が依本くんのことをそういう目で見てしまうのは、事実なんです」
「なっ――」
……確かに、思い返せばあの専門家――蒼彩の言い方には何か違和感があった。その違和感の正体がこれというわけだ。
肇は思案する。
……今の彼女に、自分はどんな言葉を掛けてやれば良い。どうすれば、彼女を傷つけずに――。
「今だって……そうかもしれないんですよ?」
一体いつの間に顔を上げていたのか、肇の目をじっと見据え、月は不適に微笑む。その頬はほんのり紅潮していて、あまりに可憐で。彼は心臓がドクンと跳ねるのを感じた。
「それは、どういう――」
「こういうことです」
言うより早く、月は肇の手を握り、それを自らの柔らかな胸部へ近づけさせる。
遂にその膨らみに手が触れてしまう一歩手前で、肇は「……だ、ダメだって、こういうのは」ともう片方の手で彼女の手を止めた。
「ふふ、ちょっとからかってみました」
「朝から心臓に悪い……」
「良かったです、ちょっとはドキッとしてもらえたみたいで。……その、ごめんなさい。ちょっと、腕が痛くて」
月の言葉に、肇は「あぁっ、ご、ごめん!」と慌てて手を離す。
そんな彼の様子に月も気恥ずかしくなってしまったのか、乱れたおさげ髪をそのしなやかな指先で梳かし、視線を肇の方から横に逸らしてしまう。
蝉の鳴き声がけたたましい、ほんの数秒の沈黙。
一台の軽トラが脇の大通りを走り去り、再び静寂が訪れたのを確認すると、口を開いたのは月の方だった。
「――私、依本くんが好きです」
「……うん」
「……かなり性的な意味で」
「かなり性的な意味で!?」
「……はい。自然と依本くんの腕を見てしまったり、唇の感触を想像したり、指の形を覚えていてしまっていたり。……とにかく、そんな感じでして。――でも、私が一番になろうとすると、依本くんを困らせてしまうって、理解しているつもりです」
「……悪い。僕は結華とずっと一緒にいるって、もう決めてるから」
少年――依本肇の表情は真剣で、月を真っ直ぐ見据えるその視線に彼女はドキリとしてしまう。
――やっぱり、そうだったんですね。
「……いいんです。私、今回は謝罪プラス宣戦布告のつもりでここに来たので」
「は、せんせん、ふこく……?」
あまりにこの状況に見合わない言葉に、肇はオウム返しの如く月の言葉を繰り返す。そんな彼の様子が面白く、彼女は「ふふっ」と口角を上げてしまう。
「――私、依本くんが好きです。……でも、一番じゃなくても良いんです。だから――」
三度目の告白をして、月は更に一歩彼に近づき視線を合わせる。
彼女はそのままゆっくりと彼の耳元にその柔らかな唇を近づけ、
「――だから、人肌が恋しくなったりしたら、いつでも私を呼んで下さいね」
そう囁きかけると、最後にその耳の感触を指先で確かめ、手を離す。
数歩下がり、確かめた肇の顔は熟れたトマトのように真っ赤で、先程までの雰囲気とは一変、月は「あっはっは! 依本くん顔真っ赤!」と腹を抱えて噴き出してしまうのだった。
ひとしきり笑ったところで、月は「……それじゃ、もう行きますね」と一言言い残し依本家を後にすることにする。
携帯端末の画面を確認するなり慌てた様子で肇が家に戻ったのを確認すると、彼女はそのすぐ傍の家へと向かうことにする。……電柱の影に人影を見つけたのは、その時のことだった。
「…………結華ちゃん?」
その制服姿が半分ほど見えてしまっている彼女の名を呼ぶ月。
その声に「んぎゃっ」とおかしな悲鳴をあげると、少女――伊坂実結華は影からおずおずと姿を現した。
「お、おはよう……月ちゃん」
雪の肌にセミロングの黒髪、しなやかな肢体に目鼻立ちの良い整った顔立ち。
肇と恋仲なのだという彼女は今日も可憐で、月はつい彼女をからかってみたくなってしまう。……これは、好きな人をつい虐めたくなるというアレに近いものかもしれない。
「……結華ちゃん。さっきの、どこまで見てたんですか?」
「い、いいや、わたしは何も……」
「じゃあなんでそんなとこにいたんですか」
「これは……その……蝉」
「蝉? ……えっ、蝉?」
「うん、そう。蝉。蝉に……蝉の気持ちに、なれるかなって」
その言葉に、せっかくシャットアウトしていた蝉たちの合唱が嫌に大きく聞こえ始める。
月は小さく息を吸うと、
「いや、絶対嘘じゃないですか。……というか、嘘下手すぎですって」
そう言って苦笑いを浮かべた。
「だよね。……ほんとは、その……結構がっつり最初から見てて。言葉もある程度聞こえてたから、何話してたのかくらいは分かったよ」
「…………私のこと、軽蔑したりしないんですか?」
「えっ、なんで?」
言葉の意味が分からないのか、小さく首を傾げる結華。
そんな彼女に更に一歩近づくと、月は言葉を続ける。
「だって私、結華ちゃんと依本くんがそういう仲だって分かってて、その上で依本くんに手を出そうとしたんですよ? ……普通なら恨まれてもおかしくないと思うんですが」
「……でもそれ、あの女の人のせいだって」
「……それでも、ああしたい気持ちがあって、今もその気持ちがあるのは確かなんですよ? ……それでも、私を軽蔑したりしないんですか?」
「しないよ」
「即答なんですね」
「……だって、月ちゃんは自分の気持ちを伝えることから逃げてないから」
その言葉に、ハッとする月。
大きく見開いたその双眸を真っ直ぐ見据え、結華は穏やかな表情で言葉を続けていく。
「今日だってきっと、わたし達に直接今回のことを話そうと思ってここまで来たんだよね?」
「それは……はい」
「多分それって、凄く勇気がいることだってわたしは思うんだ。……それに、わざわざ〝宣戦布告〟をしちゃうくらいだし、軽蔑する理由もないよ」
「なんか……拍子抜けで安心しちゃいました。……正妻の余裕というやつですか?」
「あれっ、月ちゃんもうそのこと知ってたの?」
「……何がです?」
「だから……正妻ってところ」
今度は立場が逆転し、頭にハテナを大量に浮かべる月。そんな彼女の姿にクスリと笑うと、結華は「…………うん。月ちゃんには話しておくべきだよね」と一人納得し、言葉を続けた。
「実はわたし、肇くんとはもう結婚する約束してるんだ。……それがいつになるかまでは、まだ分からないけど」
「あー、結婚。……結婚? え、結婚ってあの結婚で間違いないですか? まだ学生ですよね?」
「まぁこれには色々と事情があってね。……でも大丈夫! わたしちゃんと肇くんのこと好きだから!」
――何が大丈夫なんだろう。
……自分がおかしいのだろうか。
内心深いため息をつくと、月はその口角を上げる。肇と結婚するのだと語る結華の表情は穏やかで、頬は紅潮していて、まったくお似合いの二人だと思ってしまったのだ。
結局蛇神の言った通り月が外の世界に出たことで害意を向けられるようなことはなく、むしろ心の奥に閉じ込めていたものを吐き出せたうえ、以前よりも彼らに距離を近づける事が出来たのだった。
……毒と薬は紙一重。今回の一件で毒として作用したそれは、最終的には薬となった。……きっと、そういう事なのだろう。




