第二十六話 それは性癖というものなのですから。
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……自分は、なんという事をしてしまったのだろう。
枷を外された自分という生き物は自分の考えていた以上に醜悪で、理性を置き去りに〝彼〟と体を交わらせようとしてしまった。……その行動が、どんな結果を生むのかなんて、考える余裕すらあの時の自分には無かったのだ。
少女は思考の海の中を深く潜り沈んでいく。
……自分は、何故こんな欲求を持ってしまうのだろう。
人が大切にしているものを見ると同じものが欲しくなる。姉と同じ玩具を親にねだったのは一度や二度ではないし、物以外のものを欲したのは何も今回が初めてではない。
人より情欲が強いのは仕方がない。……程度の違いはあれど、それは皆持っているものなのだから。
だが……この欲求ばかりはあまりに醜く、あの人の言っていたとおり彼女にどんな顔をすれば良いのかも分からない。
間違いは、無かった。……それは、いつも答えを後に回す彼女が自分を止めてくれたから。
――でも、それが無かったら?
少女は耳を塞ぎ、顔を深く俯かせる。
……ここは心地が良い。ここには、この真っ暗な海の中には自分が向き合うべきものは何も無い。……何も、見なくて良いのだから。
……もう一度彼に会うのも。彼女に会うのも。姉に会うのだって、怖い。……自分のことをあんな目で見つめこの海に沈めた彼女に会うのも、怖い。
……あのときの彼女と同じよう、二人も自分に冷たい目を向けるのだろうか。考え無しだと罵るのだろうか。……気持ち悪いと、突き放されるのだろうか。
「嫌だ……私……嫌われたくないです……」
涙は海に溶け、少女は震える両腕を抱きしめる。その言葉は、心の底から出た本当の気持ちだった。
『大丈夫ですよ、月さん。……皆、貴女のことが大好きなんですから』
「誰……?」
何処からともなく女性の優しい声が少女の耳に届く。……それは、彼女にとって聞き覚えのある声で。しかしそれがいつのことか思い出せない、不思議な声でもあった。
『……実はわたくし、夢の中で何度か貴女と会ってはいるんですよ』
「夢……? これは、夢なんですか……?」
少女は意識を集中させてみる。……しかし、自分の輪郭はおぼろげで、そもそもこの海に一人浮かんでいる現状自体がおかしいと今更ながら気がついた。
『……そう。夢ですよ。……ですから貴女は、その世界から出てこなければいけないんですよ』
「……出たく、ありません」
……外の世界ではきっと、自分は嫌われてしまう。それだけのことをしようとしたのだ。……いくらこの声の主が自分を励まそうと、その疑いが晴れることはない。
『……それは、貴女があの少年にしようとしたことと関係が?』
「それは――」
『……ここは貴女の夢の中です。素直に思ったことを話して良いのですよ』
「素直に……」
少女は顔を上げる。
「私には、欲しいものが出来たんです」
『……はい』
「欲しい人が、出来たんです」
『はい』
「…………でも、その人には既に恋人がいて。……でも、私が欲しいと思うのは、そういう人で。だから……これは、この気持ちは、いつもは胸の奥に仕舞っていて……!」
『……貴女は、優しいですから』
「……違う! 違うんです! ただ、私は臆病で……卑しくて……嫌われたくなくて……だから」
『……貴女が今貴女自身を強く責めているのは、その優しさが故であるとわたくしは思うのですが』
「…………あの時はほんとに、頭がぼーっとして、ずっと体が熱くて、思考が上手くまとまらなくて。……それで、私……彼に酷いことをしようとしたんです。――今のこの気持ちは、ただ。自分の薄汚い欲と、それを止められなかった自分自身に対する強い怒りです」
『……その気持ちは、いえ、欲は。果たして悪なのでしょうか?』
「――悪ですよ! こんな……人に迷惑をかけてしまうような、不幸にしてしまうような、欲なんて……」
『聞き方を変えましょうか。……では果たして、善なる欲とは何でしょう?』
「それは――その聞き方は……ズルいです」
『わたくしは蛇ですからね、舌で出来る事は得意なんです』
「な……なんかエッチです」
『……そう! 今のそれですよ』
「な……何が?」
『わたくしの発現に対し今貴女がそう感じたその気持ちは、善ですか? 悪ですか?』
「いや、そんなの……どっちでもないですよ。……あっ」
『わたくしの言いたいこと、少しは理解してもらえましたか?』
「でも…………それを既に恋人がいる人の中に求めるのは……」
『まったく、貴女は一体、誰に言い訳をしているんですか? その欲に善も悪もないですよ。ただの欲なんですから、本能といっても良いでしょう』
「ほ、本能……?」
『そうです、本能です。……続いての質問です。貴女は、食欲旺盛な人物と食の細い人物、どちらが生物として正しいと思いますか?』
「それは……よく食べる方でしょうか?」
『そうですね、人は生きていく上で、何かを食べなくては生きていけませんから。……では、睡眠は?』
「……よく寝る人が、正しい?」
『そうですね、人は生きていく上で必ず休息が必要になりますから。……では、性欲は?』
「えっと――」
『……この世界では、何も恥ずかしがることなんてありませんよ。強いのと弱いの、どっちですか?』
「つ……強い方が、正しい……?」
『そうですね、人間は世代交代をする生き物ですから、子孫を残し繁栄するためには〝異性と交わりたい〟という本能は強いほど生物として正しいと言えるでしょう』
「はぁ……」
『貴女のその欲は人から男を奪い自分のものにしたいという、強い独占欲でもありますね。自分が〝上〟だと証明したいのでしょう。……別にこれ、わたくしは悪いことだとは思わないのですが、どうでしょう?』
「悪く……ないんですか?」
『……こういう、〝性〟に関する認知が浅いところが、今の葦原中国の弱点ですね。勿論悪くないですよ。……だってこれ、単に人の性癖の話ですよね? 聞いたことありません? 寝取られとか人妻とか』
「せ、性癖!?」
『……そうです! 貴女は人の男をその体で満足させ自分のものにしたいという欲求が強い女の子なんです!』
「それって私が凄いエッチな娘ってことになりませんか!?」
『……それは、まぁ。……はい。そうですね、凄く本能が強くて、生物として〝正しい〟娘だとわたくしは思いますよ』
「は、はぁ……そうですか。なんか……ツッコんでたら疲れてきちゃいました」
『そうでしょう。……そろそろ、貴女のことを許してあげたらどうですか? 貴女を真の意味で許してあげられるのは、貴女自身だけなんですから』
「許す……とかは、ちょっと分かんないですけど。この欲を諦めるとかなら、出来そうです」
『……そうですね。それも良いでしょう』
「自分でも酷い性癖だって思いますけど。……でも、この気持ちも自分のものだって、欲なんだって、胸の奥に隠してたこれと付き合ってみようと思うんです」
……この欲には善も悪も無い。ただの本能なのだから。
そう言った優しい彼女の声に、自分は騙されてみることにする。
これより来たる外の世界では、今回の一件に関して色々と面倒が起きるだろうと思う。……その世界に行くのは、正直に言うとまだ怖い。
……けれど、ずっと閉じ込めていた自分の気持ちに、寄り添ってもらえた。向き合い方を、教えてもらえた。
声の主は言った。自分は蛇なのだと。……その言葉に合致する人物に自分は一人心当たりがあるのだが、今はそれを考えても仕方ない。
兎に角、蛇の言葉なのだからそのよく回る舌で嘘も混ぜているのかもしれない。……だが、それでも良いのだ。
今はただ、自分がしてしまった事に向き合わなければいけなくて。
まずは直接的に迷惑を掛けてしまった彼に頭を下げ、同居人である姉に頭を下げ、修行を疎かにした件で彼女に頭を下げ……と、とにかく謝らなければいけない相手が沢山いるのだから。眠っている場合では無いのだ。
何より、自分を優しく騙してくれた蛇の女性には、感謝の言葉を伝えるべきだろう。
意を決すると、おぼろげだった少女の輪郭ははっきりと、手のひらにも確かな感触が伝わってくる。
暗闇の海が晴れていく。白い光に全身が包まれていく。
喉の渇きと、上下する自分の胸部。徐々にその解像度が上がっていく。
最後にその頬を撫でる大きな指先の感触に温かみを感じると、少女はゆっくりと瞬きを繰り返し静かに目を覚ました。




