第二十五話 その女性は白蛇様だったのですから。
彼がそこに出現し、一秒ほどの短い沈黙の後に、その狐神はその口を開いた。
『不届き者相手ではあるが、まずは儂から名乗らせてもらう。儂は天つ神、夜長月勇槍之御狐。――結華、伶哉、結界を解け』
ノミコの言葉に、二人はすぐさまその手を横に払い術を解く。
その動作と共に女の全身を包んでいた箱はパキィンと鏡が割れるような音と共に消失し、彼女は石階段の上へと自由落下した。
『……なるほど。術者は二人いたのですね』
両手を硬い石の上につき、女の長い銀髪は彼女の表情を影に隠す。先程までの威勢はどこへやら、ノミコの姿を目の当たりにした彼女は弱々しく、ただその場に俯くばかりだ。
『……自ら名乗っておってなんだが、お前は何も言わずとも良い。大体の素性は割れておる。……神を見るのは初めてかの?』
『……えぇ。神はワタシの世界にはありませんでしたから。自分がなるものだとばかり』
『…………そのために、人を殺めたと?』
その答えを知りつつも、ノミコは先を促す。その小さな獣の手は、既に準備を始めていた。
『いいえ、日本人はワタシたちに有効活用されるべきなので。教えに従いワタシ……いいえ。ワタシたちは、この体に集いなすべきを為してきた、それだけのことです』
『……言い残すことは、それだけで良かったかの』
女の答えと共に、曇り空の向こうからゴロゴロと低く重い音が響き始める。……その音こそが、八百万の神々が住まうというこの葦原中つ国の答えだった。
『もっと、もっと沢山活用してあげたかったです。……そうすれば、きっとワタシたちだって――』
その言葉と共に見上げた女の眼前に、突如として白い閃光が走る。
その目映い光に、ただ一人を除きその場にいた全員がその顔を両腕で覆い、奥歯を噛み締める。
遅れてやって来たのは、腹の下を殴るような重々しい轟音。
一面何も見えなくなるほどの砂煙の中にあったのは、空気の灼けた匂いと、バチバチと彼女らの周囲で小さな音を聞かせる先の轟音の残滓。
――なんダ……? 何が、一体何故こんなところに、雷が?
未だ残っているその四肢に安堵しつつも、震える体で女はその煙を懸命に払う。
……何にしても、運が良い。この機に乗じてここを逃げれば、自分の命は助かるかもしれない。
そうなんとか頭を切り替え、女は石階段を駆け下りていく。
最後に一気に階段を飛ばし、振り返った彼女が見たのは、その手に持った目映い光の塊で砂煙を払い、今正に階下の彼女と目を合わせそれを振るわんとする狐神の姿だった。
『――辰槍赫赫朔徹貫』
『はっ――』
放たれた裁きの槍は彼女の体を貫き、その魂を輪廻の輪から消し飛ばす。
事切れてしまうその刹那、敬愛する主人の名を口にしようとした彼女だが、その名はゲームのバグのようにあやふやで、代わりに灼ける喉は奇怪な音を奏で始める。
結局それは獣のような悲鳴と共に消し炭となり、灰となり、唯一残ったその熱すら一陣の風に吹かれここにいた証を滅却させたのだった。
『……終わったの』
周囲の土煙が完全に晴れたのを確認し、ノミコはそのすぐ脇で体を小さく震わせている少女の肩にそっと手を置く。
『……スマン、怖がらせるつもりはなかったんじゃが……』
「いや……はは、腰……抜けちゃったかも……」
少女――結華は苦笑いを浮かべる。その膝の上で眠る褐色の乙女、月は「んん~」と寝言のような言葉をむにゃむにゃと小さく呟くも、瞼は閉じたまま、未だ夢の中にいる様だった。
『伶哉は問題ないかの?』
「いえ、私も少し……」
ふぅとため息を零すと、伶哉は結華同様石階段の上に腰掛ける。緊張の糸が切れたのか、額の汗を手の甲で拭った彼は膝の上に両腕を乗せ深く項垂れた。
「……まぁ、なんにしても修行の成果をこの目で確認出来て良かったです。結華ちゃん、お疲れ様でした」
「いやいや、わたしなんか全然! わたしが上手くやれたんだとしたら、それはきっと月ちゃん達のお陰ですから」
「……そうですか。月が目を覚ましたら、私は労わなければいけませんね」
『……特に今回は、一番の苦労人でもあったようじゃしの』
そう優しく呟くと、ノミコはその小さな獣の手で月の頭を撫でる。心地の良い柔らかな感触に、月は「ふふっ」と小さく微笑んだ。
その空気が変質したのは、まさにその瞬間のことだった。
『……なんじゃ、懐かしい気配がするの』
彼女の登場を祝福するかのように、ひぐらしの合唱が再び始まり、その全身を逢魔が時の陽光が妖しく照らす。
ぺとり、ぺとり。
その雪の生足が地面を蹴る音は独特で、その歩みは悠然としていながらもしなやかで、程なく全員がその姿を捉える。
白一色の異質な着物姿に、同じく背まで伸びた雪のような白髪。その肌も透き通るような白で、瑠璃色の瞳が一際目を惹く。
『久しいですね、夜長月勇槍之御狐。……今日は一体、なんの騒ぎなのでしょうか。……ふわぁ』
小さくあくびをする若い女。
彫刻のように美しい目鼻立ちに、結華以上に細くしなやかな肢体。その容姿は恐ろしく整っていて、一言で言うならその姿はまさに、〝絶世の美女〟そのものであった。
……が、彼女が普通の人間ではなないと証明するものも同時に存在していて、身長二メートルを優に超えその場にいた全員をその穏やかな顔で見下ろす彼女の姿は、あまりに浮世離れしていた。
『……すまんの、お主を起こすつもりは無かったんじゃが……』
『構いませんよ。……理由も無くアレを使うことは、貴方には出来ないでしょうから。……して、アレを放ったのは、わたくしの可愛い月さんが掛けられた呪いに関係するのでしょうか?』
「わたくしの……? まさか、貴女様は……!」
身を翻し彼女を見上げていた伶哉は、突如身を低くし頭を垂れる。その変化についていけず、月を抱えた結華は「誰なんですか?」と小首を傾げた。
『……やはり伶哉は気づいてくれましたか。貴方はいつもここの管理をしてくれて、本当に助かっていますよ。感謝しています』
女は伶哉に微笑みかけると、今度は隣の少女、結華の頬をその白く大きな指先で撫でる。「わふっ」と小動物のような反応に、女はからからと笑った。
『……貴女の名前は、確か結華さんでしたか。月さんとは仲良くしてくれているみたいですね、力の正しい使い方もある程度身についた様で安心しました』
「は、はぁ……。それでその、あなたは……?」
『ごめんなさい、順番が前後してしまいましたね。わたくしは羅尼曳流文月之澄蛇。……そこの夜長月と同じ――天つ神です』
天つ神、羅尼曳流文月之澄蛇。
ここ海原芍裔神社で祀られているという彼女は、同じ神であるノミコから一通りの話を聞くと、『今日は一日月さんのお傍にいて良いでしょうか』と申し出た。
『……いや、ここにお主の申し出を断れる者はおらんじゃろ』
というノミコのツッコミは至極真っ当で、伶哉は小さく頷くばかり。結華はというと彼女の言葉の真意を測りかねまたも首を傾げていた。
『……月さんが目を覚まさないのは、心の問題です。……今は寄り添う誰かが必要なのですが、解呪を施したという水無月さんであれ、この場にいる誰かであれ、それはあまり都合が良くないのです。……今この場にいない姉の蛍さんや巻き込まれた少年についても同様です』
「神様……えっと……ら、らに……何だっけ……」
『わたくしのことは、〝澄蛇〟とでも呼んで下さい』
「それじゃ――澄蛇さま。あなたなら、月ちゃんの心に寄り添って頂けるのでしょうか?」
『勿論です』
澄蛇は小さく息を吸い、言葉を続ける。
『……これでもわたくし、癒やしの神なんですよ? 神とは何も、夜長月のように戦うだけの存在ではないのです。……特に今回の一件に関しては、わたくしこそ適任でしょう』
言葉の最後に眠る月の頬を軽く指先で突くと、彼女は口角を上げる。
その指先から伝わってきたのは、いくつもの欲望と、後悔と、反省の気持ち。
白蛇にとってはそのどれもが深く理解出来てしまう事象で、だからこそその深い部分まで寄り添いその心を取り戻せると彼女は確信していたのだ。




