第十九話 それは既に始まっていたのだから。
◇
振り返ってみると、安瀬山月という一人の少女は昔から欲深く、しかし徐々にそれを制御する様になっていた。
姉の蛍と昼食を食べていると姉のおかずを奪い、別々の玩具を買い与えれば姉と同じ物を親に要求し手に入れる。
そんな幼少の頃の月を変えたのは、本との出会いだった。
物語の中では、彼女は自由だ。時には冒険者に、時には秘密警察に。なりたいものに、好きなようになれる。
それを覗いている間、月は自分の欲望を抑える事が出来た。
……だって、他人から何かを奪わなくとも、そこには全てが在るのだから。
しかし、欲とはなにも、他者から奪うものだけを指すのではなく、一方的に一人で得るものもある。
つまるところ、彼女は他者から距離を置くために本と過ごす時間を増やしたが、知識を増やせば増やすほどその欲求は強まり、気づけば人一倍情欲の強い女子となっていたのである。
自慰行為は、そのための発散法の一つだ。……が、欲を言えば――いや、欲に従うならば、やはり異性と交わりソレを発散したい。溶けるような行為をしてみたい。そんな気持ちが強く在る。
そんな秘めたる欲求を持つ彼女が身近な異性……それも、人のものである彼に強い興味を示すのは、無理からぬ事だったのだ。
◆
――女。
――女だ。
――それも、とびきりの美人で、巨乳の女が、俺の下半身を愛おしそうに見つめ舌なめずりをしている。
男は、眼下の女を見据える。
腰の辺りまで伸びた長い銀髪に、着崩した着物。赤いアイラインに、ピアスだらけの耳。
チロチロと蛇のように動かすその舌の上にまでピアスを付けていて、自販機の薄い明かりを受けるとそれが銀の輝きを反射する。
上気した頬に、今にも零れそうな豊満な乳房。その肌は濃い褐色で、この薄明かりの中ではより煽情的に男を高ぶらせる。
――なんで、こんな良いことがあっていいのか。
と何かおかしいと足を動かそうとした中年男を、女は見逃さない。
『なんですかお前、逃げるんですかぁ? ワタシはもう濡れているというのに』
男の手を掴むと、女は不敵な笑みを浮かべ続ける。大胆な彼女の態度に、男はその目線を泳がせてしまった。
『…………もっと、キモチヨクしてほしいな?』
女は彼の肩に腕を掛けると、そのまま行為人同士の如く唇を重ねる。
やがて男の肩から手を離した女は、彼の下顎のラインをシルバーリングだらけの指でなぞり、愛おしそうに唇を離す。
今度はその鋭い目で男の下半身を熱っぽく見つめると、舌なめずりをする女。その姿は、動揺しきった男の反応を見て楽しんでいる様子だった。
『オニーサン、気持ちよくなれるところ、行きます?』
先程までは警戒心が勝っていた男も、これにはたまらず大きく首肯する。
ここには、今あの超常の専門家はいない。
なので結論から話すことにする。
この男にとっての幸福の時間は、今この時をもって終了となった。
◇
翌日の目覚めは最悪だった。
「つ、月ちゃんおはよう! 昨日は大丈夫だった? …………いや、いやいやわたしは何も! 何も何も! 何も見ておりませんので!」
居間に下り、食卓につくなり月の姉、安瀬山蛍は全力で首を横に振りそのたわわに実った乳房を揺らしながら聞いてもいない昨日の件を否定したのだ。
……幸い、両親とも朝は早いので今は二人きり。そういう話題にも触れやすい時間ではある。
「…………隠さないで良いって。ごめんなさい。その、最近溜まってて……」
と、見え透いた嘘を言って両手を合わせる月。「いただきます」と眼前の手製料理に頭を下げ、まずはわかめの味噌汁を一口啜った。
「美味しい……」
「あ、わかる! お母さん今日のお味噌汁大成功だって!」
「いや、それはそうなんだけど……」
ただの料理をここまで美味に感じたことが、果たしてこれまであっただろうか?
……昨日はあれほど情欲を発散したのだから、一口目を美味しく感じるのも仕方ない事だろう。
そう思いもう一口啜る彼女だが、これも変わらず美味い。
それはまさしく二日酔い明けの味噌汁に対する感動に近いものなのだが、まだ十四歳の若者である彼女の脳はこの美味さを表現する言葉を知らない。
「いや、ほんとに美味しい……なにこれ」
「? 普通のわかめのお味噌汁?」
「だよね…………」
うーん、と今度は他のおかずを口に運び始める月に、蛍は話題を戻す。
「それで、ちゃんと解消出来たの?」
「どれも美味しい……。ま……まぁ、出来た、のかな?」
「なんで疑問形!?」
「うーん……だって……」
……昨日は途中から我を忘れて自慰行為にふけっていたから。と言えるはずもなく、月は「手だけじゃ限界あるし」とテキトーに言葉を続ける。
「……手以外でどうやるの?」
「それは……その……ほら、ご飯冷めちゃうから!」
「えー! 月ちゃんが言い出したのに!」
「お姉ちゃんみたいなお子様にする話じゃなかったって事! ほんとにごめんなさい! お願いだから蛍ちゃんはそのままでいて下さい!」
「お子様って……お姉ちゃんはわたしなんですけど! しかもなんで敬語!?」
騒がしい平日の朝。
その平和が仮初めのものである事実に、二人は気づかない。
気にも留めていなかった朝のニュース番組で流れていたのは、『……昨夜未明、海原然町西のホテルで、四十代とみられる男性の遺体が発見されました。男性は全身を強く打っており……』という物騒な報道で。
この町では既に有事が始まっているという事実を、彼女達は認識出来ずにいたのである。
◇
風海東高校二年、夾白鳴人の朝は遅い。
彼にとって遅刻はいつでも帳消しに出来る存在であるがゆえに、特別朝の準備を急ぐ必要もないのだ。
そんな彼は今日も鼻歌交じりにセミロングの黒髪を整えると、悠然と食卓につく。
「いただきます」
手のひらを合わせ、一人トーストにかぶりつく。鮮やかな赤を塗ったそれは、口内に運ぶと程よい甘さで味蕾を刺激する。
アラームの音が嫌いなので、彼の起床は常に自分のタイミングだ。今朝も当然そうで、登校までの時間を考えると既に手遅れの時間であっても、そんな彼を邪魔する存在はない。……いや、無いことにしていた。
「……ふわぁ」
ミルクで咀嚼物を流し込み、鳴人は小さくあくびをする。
卓上のリモコンを手に取りテレビを点けると、いつもの美人キャスターが神妙な面持ちで今朝のニュースを読み上げていく。
見ると無しにそれをボーッと見つめ、鳴人は美しく焼けた半熟の目玉焼きを口に運ぶ。今朝のそれは良い焼け具合で、舌の上でとろりと溢れる黄身は濃厚な旨味を彼に届ける。
これには彼も上機嫌になり、更にそのベーコンを口に運ぶ。……と、ここで物騒なニュースが流れた。
『……昨夜未明、海原然町西のホテルで、四十代とみられる男性の遺体が発見されました。男性は全身を強く打っており……』
「あ……?」
彼はその能力ゆえ、人の言葉の裏、真意、真実、そういったところまでを考え、推測し、自分の知識が足りなければ調べる事が日常となっている。……そんな彼にとって、今のキャスターの発言は聞き捨てならなかった。
この小さな町で、殺人が起きたのだ。それも、遺体は恐らく惨殺されており、わざわざ番組では隠語まで用いている。
……さて、この件は自分にとってどれ程の危険を孕んでいるだろうか。鳴人は思案する。……が、答えは出ない。
ともすればそれは、本日の彼の行動が決定された事を意味する。
「…………今日はサボりだな」
……とはいえ、それを通すためには、一度学校へ向かう必要がある。
鳴人は忙しく残りの朝食を平らげると、身支度を整え家を出ることにする。
今日の天気は彼の大好きな曇り空だが、今朝はずん、と気持ちが沈んでいた。……何かがこの町で始まっている、そんな予感に脳がガンガンと警鐘を鳴らしていたのである。




