第十六話 依本肇、その光景から目を背けるな。
◇
少年は、今朝も鼻歌交じりに教室のドアを開ける。
濃い褐色の肌に、剃り込みの入った独特のセミロング。特にその目元が特徴的で、穏やかさを感じさせる垂れ目に泣きぼくろという組み合わせは、彼を見る者達の視線を一度にそこへ集中させてしまう程だ。
そんな彼は肩まで掛かったその黒髪を揺らして、生徒の一人に話しかける。
「おはよう。えっとまず君は……『誰だったかな?』『それを君は〝俺〟に教える義務があるんだ』……そうだろう?」
彼の言葉は、さもそれが絶対的な命令であるかのように眼前の少年に言葉を吐かせる。
「ぼ、僕の名前は……山西。山西、拓真」
その行為に、山西と名乗らされた少年は疑問を持てない。……何故ならその行為は、〝義務〟なのだとたった今決定されたのだから。
「あー、そうかそうか拓真くん! そんな名前だったなぁ! 意識してないと俺は忘れっぽいからイチイチ確認をしないといけなくて面倒だよ。……それで、拓真くん、君は……『〝俺〟のことを嫌いになれない』『だから窓際の席を〝俺〟の席と入れ替えるのは当然のこと』……そうだろう?」
「そうか、そうだな。好きに使いなよ」
「ありがとうな、拓真くん」
二人の席を入れ替え窓際に彼が着席したところで、教室のドアを担任が開ける。……と、ここで最後に彼は一言加えることにした。
担任の姿を前に静まりかえる教室。……その機を、彼は見逃さない。
「それから、お前ら全員……『席を入れ替えた事実に疑問を持たない』『この教室で最も強い権力を持つのは〝俺〟なのだから』……そうだろう?」
彼の言葉に、教師を含めた全員が席を立ち〝彼〟に軍隊の如く頭を垂れる。
風海東高校二年四組、夾白鳴人。
「……ふわぁ。午前中はおやすみタイムだな」
彼にとってその教室は、自らの所有物に他ならなかった。
◇
なかなか結論を言い出さない彼女は今この場にいない。だから……というわけではないが、先に結論づける事にする。
七月十七日火曜日、朝のホームルーム前の風海東高校に、突如として〝ソレ〟は現れた。
生徒のいないグラウンド上を闊歩していたのは、昏い人型のナニカ。
ソレが一歩進む度に玲那の脳内にガンガンと警鐘が鳴り響き、遂にその人型と視線を交錯させる。
「悪い、少しアレの相手してくる」
「は……? えっ、ちょっ!」
返事を待っている暇は無い。今はスピードが全てだ。
……何故このタイミングで来た……? 何故わざわざこの場所を選んだ……?
思考を巡らせても答えは浮かばず、玲那は屋上の鉄柵を蹴り宙を舞う。
「――おい、死ぬ気か!」
「バカか、走って行くよりこっちのが速いだろ。――『幕』」
そのまま屋上から地面へ向かって落ちていく彼は、しかし冷静にその全身を何かで覆い隠す。
幕。狐神も使っていたこの術は、対象を一般人から認識されにくくする。
まずはこれが第一段階。
そして目標――グラウンドの方へとその起動を修正するべく、彼の行動は第二段階へ。
「――『界』」
人差し指と中指を揃えて真っ直ぐ立たせ、彼は眼前の空中に箱の姿をイメージし、それを両足用に二つ設置する。
結界術。……それも、これだけ不安定な状況下での行使となるとその難易度は数倍に跳ね上がる。それを充分に理解している彼は正規の方法で術を発動しその箱に着地する。
「――『弾』」
そして最後に、第三段階へ。
本来は堅い板のような感触の結界は、弾性を得ると高所から落ちてきた彼の体をトランポリンの様に弾く。……いや、この場合彼はその目標へと向かうべく予め結界の角度を調整したのだから、弾丸と表現するのが適切だろうか。
ともかく軌道を変えグラウンドの方へ真っ直ぐ向かった玲那は足下に一枚の結界を板状に展開し、スキー板の要領で地面を滑り華麗な着地を決める。
砂埃が舞うその中から、玲那は遂にそれと対峙する。
「……よう。挨拶は必要か?」
「楼蛇胃ナ歯ミイ#弐いうこ苑」
こうして正面から見るとよく分かるその人型は全身黒ずくめで、モヤがかかったような黒い煙も相まってその姿は捉えずらい。オマケに話す言葉は意味不明で、玲那は内心「火の本言葉話せや」と毒づいた。
「オーケー、正体は知らん、お前に恨みもない。ただ……目的はあの女だろう? 嫌でも相手してもらうぞ」
「詫璃ワマクヤ奈ンソ#苦たっま」
「ハハッ、何言ってんのか全然わかんねーや。……まだホームルーム前なんだ、さっさと片付けさせてもらうぞ」
乱れた白髪を掻き上げる玲那。そのブラウンの瞳は、既に眼前のソレを祓うべき対象として睨み始めていて、胸ポケットの中も彼同様揺れていた。
「……わかっているさ」
ポケットに仕舞ってある三枚の札を指先で撫でると、玲那は口角を上げる。
……小鬼の機嫌を取るのには丁度良いか。イタズラ好きの相手を朝からするのは気が引けるが、これを逃すと後が面倒そうだ。
と、一番手前側の札を手に取る玲那。横から吹く風にヒラヒラと揺れるそれは、これからやって来るであろう活躍の場に、〝彼〟が歓喜しているかのようだった。
◇
その異変には、狐神と繋がりを持ち、超常を認識出来る彼――肇もまた玲那と同じように気づいていた。
一つ違いがあるとすればそれは凰院玲那が超常に対し実力を行使する専門家であり、対する肇はあくまでも一般人という事だけで……制止の声も聞かずに屋上を飛び出した玲那に面食らってしまったのである。
「…………何なんだ、今の」
眼下の様子を見ていた肇には、玲那が何か怪しい術を用いて宙を跳ね、グラウンドにいる黒々とした人型に向かっていったように見えた。
『結界術の応用じゃの。……見に行くか?』
独り言のように呟いたそれに、コン! と脇から現れた狐神は言葉を返す。その丸々とした瞳は真っ直ぐグラウンドの砂埃の中を覗き警戒していた。
「そうだな、ここまで見ちゃったんだし。……もしもの時は、頼んだぞ」
と、一応最後に言葉を繋げ、肇は階段の方へ駆け出す。
『……阿呆が、アレがあんな雑魚を取り逃すものか』
力の差は歴然。突然の来訪者に同情しつつ、ノミコはその場で大きな跳躍を決めると、肇の肩をその小さな獣の手で掴んだ。
もふり。
「うわぁ、な、何!? 凄い幸せな感触が!?」
『これこれおかしな声を出すでない。前を見て走らんか、事態は一刻を争うぞ』
「そんなにヤバいヤツなのか……」
一瞬動揺を見せるも、どうにか切り替え肇は階段を駆け下りていく。
その道中、担任から「おい依本、ホームルーム始めるぞ」と声を掛けられるも、「便所っす!」と全力で切り抜けた。……これは二人揃って遅刻だな。
「デカい方か!?」「デカいっす! 多分音めっちゃ出るんで一年のトイレ使ってきます!」
こういう時に限って話の本筋に絡みのない連中の勘は鋭いのだから困ったものである。
全力で階段を駆け下り下駄箱で靴に履き替えた肇は、間髪入れずに扉を開けてグラウンドへ向かって駆け出す。その瞬間、大人しくしていた狐神は再び話を始めた。
『……それからの、さっき儂が〝一刻を争う〟と言ったのは凰院玲那の身を案じてでは無いんじゃ』
「? ……ハァ……どういう事だよ?」
何かが滑りその表面を削った形跡があるその場所を、肇はその目で捉える。……そして、それを目撃した。
『ぴぎゃははははは! 話二なンねーなぁオい!』
耳を劈いたのは、肇の膝下程もない小さな黄色い生き物の笑い声。……と、ここで肇はその光景のおかしさに気がつく。数が合わないのだ。
その小さな生き物と、 脇に佇む玲那。……肝心の、件の黒い来訪者の姿がどこにも無い。
『……間に合わんかったか』
「だから、何が――」
何が……の言葉の続きを、遂に彼は目撃してしまう。
……そう。何故その小さな生き物に赤い液体が付着しているのか。何故全てが終わったかのように高笑いをしているのか。
その答えは、最初から地面に横たわっていたのだから。
「…………うわぁっ!?」
砂埃の煙幕が晴れ、遂にその全貌が明らかとなっていく。
黄色い生き物の正面に横たわっていたそれは、つい先程まで臨戦態勢でいた黒い来訪者……の、顔面らしき物体だった。
「なんだ依本、遅かったな」
そんな光景を前に、しかし玲那は屋上で話していたときと何も変わらない態度で口を開く。
その足下には、飛び散った赤い液体、ふわふわとした柔らかい物体、日の光を受けると白く輝く十本ほどの何かの連なり、吹き飛んだ指、手、足、大きな白い骨、今にもこちらを覗きそうな目玉、等この世の地獄が溢れ鮮やかな朝を赤黒く染めている。
『準備運動二もならなカったゼご主人ー』
「悪いな、かえって退屈させたか?」
『俺様の気持チヲ汲んデくれたんダロ? 文句ナんかあルわけねェよ』
その光景はあまりに現実離れしていて、しかし玲那とその生き物はその光景が当たり前のように淡々と会話を続ける。
……気持ち悪い。気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い…………。
「……とりあえず〝巡り〟を待ってからホームルームに行くか」
カラカラと肇の喉は渇いていき、酸っぱいものがこみ上げてくる。それを無理にゴクリと奥に戻すと、ついて出たのは「人を…………殺したのか?」という当たり前の疑問だった。
「……あ? コイツは人間じゃねーよ。強いて言えば人間の真似っこだこれは」
その質問に呆れた様子の玲那。
吐き気を堪える肇の脇にいる狐神を一瞥すると、彼は今回の来訪者について説明を始めた。




