訪問者
元木文さん登場の回
午前十時。
朝食が終わり、宗形家のご当主が外出されてから一時間ほど経った頃。冴は蓮様とともに、客を迎えた。
予定されていた訪問のようだった。
この御屋敷には応接間が二部屋ある。私的な客を迎えるための応接間は、書斎の横にある。
家人と使用人たちはその応接間を、「小さい応接間」と呼ぶが。十六畳程度の広さはある。私には「小さい部屋」とは思えない。
冴がこの御屋敷に移り住んだ日に、まず通されたのもこの部屋だった。
その応接間の扉を冴が開けると、そこに一人でいた人が、静かに立ち上がった。
姿も顔もすっきりしていて、綺麗な人という印象である。
冴はそのお客様に歩み寄ると、嬉しそうに云った。
「元木さん。お久しぶり」
これが冴の元クラスメイトで、従姉の聡子お姉様と仲良しの元木さんか。冴と蓮様の話に聞いていたことを、すぐに色々と思い出した。
元木さんは冴よりかなり背が高くて、冴と同じく化粧をしていない。
黒く美しい髪を、無造作に紐で束ねている。墨色の夏の長着に羽織。松色の半襟と帯と足袋。落ち着きすぎた色味の着物で、なんだか男装めいていた。
「ご結婚おめでとうございます」
元木さんが丁寧に頭を下げる。
冴もまた丁寧に頭を下げた。
「お父様のこと。お悔やみ申し上げます」
元木さんの父親は僧侶だが、出版社の経営もなさっておられたという。しかし詐欺にあって出版社が倒産した。失意のためか胃腸病が重くなり、母親が髪結いをして家計を支えることになったとか。冴が蓮様に、そんな話を語っていた。
元木さんは四か月前に女学校を退学したらしい。母の代わりに家事をして父親を看病するためと、冴は聞いているようだが。まぁ、学費の捻出も難しくなったのかもしれない
元木父がひと月前にお亡くなりになったことを、冴は蓮様から聞いて知った。蓮様は、私がまだ見たことがない「聡子様」から聞いたとか。
冴の後ろにいた蓮様を見て、元木さんは目を見張った。蓮様をはじめて見た時の私同様、その美貌に驚いたのだろう。
「はじめまして。私はこの冴の身内で、宗形百蓮と申します」
蓮様の挨拶に、少し慌てた様子で頭を下げた。
「宗形家の『玉依姫』のことは、聡子様から伺っておりました。お目にかかれて光栄でございます」
「よくいらしてくださいました。どうぞお座りになってください」
ユキノさんは珈琲を三人の前に置くと、速やかに下がった。背景役に徹した身のこなし。好奇心のかけらも見せない。ツキコさんとはだいぶ違う。
「どうぞ。召し上がってください」
蓮様にすすめられると、元木さんは珈琲にクリームを入れて飲んだ。
冴の珈琲には、あらかじめ牛乳が入っていた。
この家の珈琲は美味しい。私は何も入れずに飲みたいのだが、冴はいつもカフェ・オ・レを注文する。
二人が飲み物に口をつけると、蓮様も珈琲を一口飲んだ。カップをソーサーに置くと、元木さんを見て云った。
「カフェ・プランタンで、ピアノを弾いておられるそうですね」
元木さんの顔がいきなり硬くなった。小さな声で云った。
「私の仕事の話。聡子様からお聞きになりましたの?」
蓮様の答えを待たず、早口にまた質問をした。
「聡子様は明日。私との約束の場所に、いらっしゃらないのですか?」
蓮様は目を伏せて云った。
「聡子の母親があなたと聡子の手紙を見つけて、明日の約束のことを知った。あの子は今ずっと見張られている。明日の朝、約束の場所にはいけないだろう」
元木さんは無表情に、強張った声で云った。
「本日のお招きは、そのためでございますか」
冴と私は戸惑って、元木さんと蓮様を見比べた。
「あなたはその仕事でお金を貯めて、東京音楽学校に通われるおつもりとか」
「そのつもりでした」
「若い娘があんなところに勤めていれば。どんな目にあうかわからない。その学費は、私が援助しましょう」
「なんの所縁もないわたしを、学校に通わせてくださると、そう仰いますの?」
「あなたを助けてほしいと、聡子に頼まれた」
「お姉さまはどうなさっておられますか」
「思いつめた様子で。周囲の者はみな、何をするかわからないと思っている。私にもそう見える」
「電話をかけてもとりついでいただけず。手紙の返事も参りません」
「聡子の父親は、あなたのことを、あの子を唆した、とんでもない娘と云っているらしい。あなたが直接連絡をとることは。もう難しいでしょう」
「事務仕事の手伝いをしてくれる人がほしい。ずっとそう思っていました。聡子と冴から聞いた話では。あなたは音楽の才能があるだけではなく。大変頭が良く。仏蘭西語もかなり読めるし話せるという。私の仕事を手伝っていただけませんか」
「この家で働いている方で、お役に立てそうな方はいらっしゃいませんの?」
「いないこともないが。うち二人は、この家の家事家政を切り盛りする柱で、もう一人は当主の従僕兼秘書です。三人とも忙しそうでね」
「私にできることでしたら。冴様でも」
「この子は平日の日中は学校だ」
「学費の援助は、そのお仕事への報酬として?」
「ご不満ですか」
「なんの所縁もない女を雇って、あの学費を援助してくださるなど。お気持ちが不思議に思えます」
戦前の日本の金持ちの家には、たいてい書生がいる。主の家に住み込み、その家の雑用や用心棒をして。学校に通わせてもらったりする青年が。
奥様が嫁入り前の女中に、裁縫や琴やお花を教え、いくらか教養をつけてやるのも、普通のことだったようだが。
女の使用人の学費を出したという話は、読んだことがない。この世界の日本でも、あまりない話のようだ。
蓮様の申し出には、何か下心があるのではないか。元木さんはそうあやしんでいるように見える。
そこに気づいているのか。流したのか。蓮様は云った。
「この家で働いていれば、聡子と会えるかもしれませんよ」
元木さんは云った。
「今は。明日お姉さまにお目にかかれないことで頭がいっぱいで。お申し出のことは、後日お返事させていただきたいのですが」
蓮様は頷いた。
「ゆっくり考えてください」
元木さんは立ち上がり、「失礼いたします」と頭を下げた。
蓮様と冴は元木さんを、玄関先まで見送った。
元木さんを乗せたこの家の車が、車寄せから出発すると、冴は蓮様に尋ねた。
「お姉様と元木さんは、明日どんなお約束をなさってましたの?」
蓮様は答えなかった。
冴は首を傾げ、また尋ねた。
「カフェ・プランタンって。銀座にできたお店でございましょう。高名な文士や画家の方々が集まって、サロンのようになっているとか」
「うん」
「元木さんがピアノを弾いていては危ない。そんなお店なのですか」
「良家の子女が働く場所ではないね」
私の知るカフェ.プランタンの開業は、明治四十四年の春だ。レストランというか、酒場というか、社交サロンというか。そんなお店であったらしいが。この世界の同名店舗も、そんなお店か。
阿門様が玄関から出てきた。冴の後ろで云った。
「おまえさんより気が強そうで。色気がある。なかなか良い女だ」
冴は振り返り、阿門様を睨んだ。
「お二人はすでに定まった仲なのですから。他の方に関心を持つべきではございません」
阿門様は蓮様の顔を覗きこむようにして云った。
「俺とおまえは真実恋仲になるべきだ。冴はそう云ってるぞ」
「はい」
頷く冴に、蓮様は溜息を吐いた。
本日はここまでにいたしましょう。




