おかしな夫婦
妻は清い身のまま一生恋人に仕えんと、恋人の伴侶に嫁いだが。手を出せないなら離婚すると夫は云うの回。
「おはようございます」
「おはよう」
珈琲を運んできた冴の挨拶に、阿門様は新聞から顔をあげて応えたが、すぐにまた新聞を見た。
窓際の肘掛椅子に腰かけたその姿は、三益の浴衣に、羅の茶色い帯を結び、皮の室内履きというものだ。
髪も顔もさっぱりしていて、すでに朝の身支度は終えているようだ。
その大きさと逞しさを前に、やはり冴の体が、少し硬くなる。
私は良い匂いがする男だと、改めて感心した。
上等な香水に、葉巻の香?そしてこの人自身の体臭が、混じり合った匂いだろう。
はじめて見た時は、こんなお屋敷の若様らしくない逞しさ、海賊のようだと思ったが。これまで見ていたところでは、言葉遣いと物腰は、良家の御子息のものである。野性的だが優雅。その匂いもまた、そんな人らしい。
阿門様の前にある小さな丸テーブルに、冴は珈琲カップをおいた。
運んできたお盆は、窓際の机の上において、阿門様と向かい合う椅子に腰を下ろした。反応が予測できない、まだ気ごころのしれない相手の様子を伺うような、そんな様子で阿門様を見て云った。
「御祈祷はそろそろ終わる頃でしょうか」
話しかけもいいわよね。そんな顔をしていた。
阿門様は新聞から目を離さずに云った。
「そろそろだろう」
冴は云った。
「蓮様が御祈りになってもならなくとも。一族の皆様の運命は変わらない気がいたします」
阿門様は冴を見た。その口元が笑った。
「毎朝五時に起きて身支度をして、五時四十五分から三十分くらい。律儀に毎日祈っとる。あの現実主義者の皮肉屋は、さて何を祈るんだろうな」
阿門様が新聞を畳み、珈琲に口をつけると、冴も珈琲に口をつけた。
一口飲むと、阿門様に訴えた。
「私の実家では、平日は六時に、日曜祭日は七時に、起きておりました。日曜もなく祭日もなく五時起きというのは、御気の毒です」
阿門様の顔に同情が浮かんだ。
「この家は昔から、姫に合わせて、日曜祭日関係なく五時起きだ。おまえさんは今夏休みなのにな」
どうやら五時起きは、この家の決まり事らしい。
「毎日五時」
呆れた顔の冴をからかうように、阿門様は仰った。
「蓮はおまえさんに甘い。夏休みにも毎朝五時起きは辛いですと。そう泣きついてみたらどうだ。がんばるかもしれんぞ」
「御三家の本家は、みなそうなさってますの?」
「蓮實と兼平はどうだろなぁ。姫がおわすこの家は、昔からそうなっとる」
「住み込みで働いている人たちは、もっと早い時間に起きなければなりません。なんとかなりませんの?」
「なんとかできるとしたら、蓮だけだ。朝の祈祷は朝食後の朝の十時。天からそう詔があったことにしろ。俺は蓮に何回かそう言ったが。今だにこの時刻で祈っとる」
「蓮様がそう云えば。通りますでしょうか」
「姫の言葉は天の言葉。みな従うのみ。そういうことになっとる」
「だとしたら。ほんとうにお告げがなければ、蓮様には云いにくいことだと思います」
「あいつはめんどくさがりで。忍耐強くて生真面目で。嘘をつくのが苦手だからな」
「はい」
あの方のこと、結構わかってるのね。そんな顔をした冴を面白そうに見て、阿門様は云った。
「おまえさん。俺が相手でなくとも、結婚が嫌みたいだな。どうしてだ」
冴は生真面目な顔で云った。
「どうして女は嫁に行かねばならないのでしょう?」
阿門様は云った。
「嫁ぎたくないなら。なぜ俺の嫁になった?」
冴は云った。
「蓮様のお傍で、蓮様のために働きたかったからです。女学校を出たら家を出て、この家で働きたい。蓮様にそう申し上げたら、お兄様の妻になる気はあるかというお申し出をいただいて。なるほどお兄様の妻になれば。蓮様はお兄様とずっとご一緒なのですから。蓮様にずっとお仕えできると。そうお思いました」
この二人、戸籍上はすでに夫婦なのだが。戸籍上すでに伴侶となった相手に寄せる思いは、そこそこの好意と信頼ばかりに見える。
自由恋愛はふしだらなもの。そんな江戸以来の道徳観念は、昭和の中頃でも、日本の良識の中に残っていた。
明治大正昭和の初め、良家の夫婦の多くは、周囲の大人の紹介で相手を知り、結婚してから配偶者との距離を縮めた。最初は遠い仲の夫婦は、珍しくはなかった。この世界も同様かもしれない。
だがこの二人の間には、蓮様がいる。どちらも蓮様にばかり入れあげているように見える。
それで私には、何とも奇妙な夫婦に見える。
「俺と結婚しても。男女のことはなし。おまえさん。それで通ると思ってたのか」
「私、お兄様と蓮様は、真実恋仲だと思っておりましたの」
「恋人がいるから。俺は嫁いできた女に手を出さないと。そう思ってたのか」
「お兄様は嫌がる女に、無体を働く方ですの?」
「手出しできない嫁を追い出さない男は、この世の中に、いなくもない。だがそういう男には、追い出せない理由があるんだ」
「理由」
「嫁の身内に世話になっていて、追い出すことができない。あるいは、嫁になんらかの利用価値がある。よほど相手に惚れている。そういう場合もあるかもな」
「私が妻であれば、お兄様と蓮様の仲を邪魔する方から、お二人を守って差し上げます」
「だからおまえさんと離婚せず、しかし手を出すなと?」
「蓮様はお兄様だけを、お慕いしております」
「知ってるよ。その気持ちについては、よくわからんがな」
「蓮様とお兄様は、いつか結ばれますわ」
「おまえさんはそれで良いのか」
「そうなるように願っております」
「で、あんたは一生蓮に仕えて。まともな夫も持たず。子供もいらないと。本気でそう云うのか」
「私。子供のころから、結婚しなければならないと思うと、なんだか気が重くなりました。でも、女がつける仕事で、してみたい仕事もなく。聡子お姉さまのように、もっと上の学校に行きたいとも・・・。蓮様がおそばにおいてくださるなら。蓮様にずっとお仕えしたいのです」
ここで阿門様が笑ったので、冴はむっとした。
「私、おかしなことを申しましたか?」
阿門様は云った。
「いや。俺たちは形ばかりは、もう夫婦だが。まったくおかしな夫婦だと思ってさ」
冴は首を傾げて、くすりと笑った。
「おかしい、ですわね。たしかに」
二人は少しばかり意気投合して、歩みよったように見えた。
壁にかかった時計を見て立ち上がると、阿門様は冴に、右手を出した。
「そろそろ参りましょうか。奥様」
冴は立ち上がると、おずおずと、阿門様に手を預けた。
一階に下りていく大階段へと、二人で踏み出したとき。
阿門様が冴に云った。
「子供は外でつくれと云ったな」
冴は云った。
「お二人のお約束について存じ上げませんでしたから。私、小さい方は好きです。この家に連れてきていただいて、私がお育て申し上げるつもりでした」
「母親が手放さかったらどうする?自分もこの家に入って、俺の妻になりたいと云うかもしれない。盗られるくらいなら、跡継ぎになんかさせないと。逃げちまう可能性だってある。母子を引き裂く無慈悲は、俺も嫌だ」
「そこは、考えませんでしたわ」
「まぁ。俺の嫁がおまえさんであるかぎり、俺がおまえ以外の女を求めることは、たぶん蓮が承知しない」
「お兄様のお相手として蓮様が認めた方は、私で何人目ですの?」
「おまえだけだ」
「私だけ?」
「おかげで三年以上、俺は禁欲だ」
「昔のお坊様は生涯独り身ではありませんか」
「おまえが女学校を出るまでは。披露宴をしない。寝室もともにしない。舅殿のご希望でそういうことになってるが。寝室をともにしたときには、我慢するつもりはないぞ。嫌なら、離婚だ」
「蓮様を思うなら。蓮様と結ばれるまで、他の方を求めず、身を慎まれませ」
「やれやれ。嫁を二人ももらって。どちらにも拒まれる。俺は前世で、どんな罪を犯したんだろうな」
本日はここまでにいたしましょう。




