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薔薇と百合  作者: 黒澤 白
幽霊

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8/18

おかしな夫婦

妻は清い身のまま一生恋人に仕えんと、恋人の伴侶に嫁いだが。手を出せないなら離婚すると夫は云うの回。

「おはようございます」

「おはよう」

 珈琲を運んできた冴の挨拶に、阿門様は新聞から顔をあげて応えたが、すぐにまた新聞を見た。

 窓際の肘掛椅子に腰かけたその姿は、三益《みます》の浴衣に、羅の茶色い帯を結び、皮の室内履きというものだ。

 髪も顔もさっぱりしていて、すでに朝の身支度は終えているようだ。

 その大きさと逞しさを前に、やはり冴の体が、少し硬くなる。

 私は良い匂いがする男だと、改めて感心した。

 上等な香水に、葉巻の香?そしてこの人自身の体臭が、混じり合った匂いだろう。

 はじめて見た時は、こんなお屋敷の若様らしくない逞しさ、海賊のようだと思ったが。これまで見ていたところでは、言葉遣いと物腰は、良家の御子息のものである。野性的だが優雅。その匂いもまた、そんな人らしい。


 阿門様の前にある小さな丸テーブルに、冴は珈琲カップをおいた。

 運んできたお盆は、窓際の机の上において、阿門様と向かい合う椅子に腰を下ろした。反応が予測できない、まだ気ごころのしれない相手の様子を伺うような、そんな様子で阿門様を見て云った。

「御祈祷はそろそろ終わる頃でしょうか」

 話しかけもいいわよね。そんな顔をしていた。

 阿門様は新聞から目を離さずに云った。

「そろそろだろう」

 冴は云った。

「蓮様が御祈りになってもならなくとも。一族の皆様の運命は変わらない気がいたします」

 阿門様は冴を見た。その口元が笑った。

「毎朝五時に起きて身支度をして、五時四十五分から三十分くらい。律儀に毎日祈っとる。あの現実主義者の皮肉屋は、さて何を祈るんだろうな」

 阿門様が新聞を畳み、珈琲に口をつけると、冴も珈琲に口をつけた。

 一口飲むと、阿門様に訴えた。

「私の実家では、平日は六時に、日曜祭日は七時に、起きておりました。日曜もなく祭日もなく五時起きというのは、御気の毒です」

 阿門様の顔に同情が浮かんだ。

「この家は昔から、姫に合わせて、日曜祭日関係なく五時起きだ。おまえさんは今夏休みなのにな」

 どうやら五時起きは、この家の決まり事らしい。

「毎日五時」

 呆れた顔の冴をからかうように、阿門様は仰った。

「蓮はおまえさんに甘い。夏休みにも毎朝五時起きは辛いですと。そう泣きついてみたらどうだ。がんばるかもしれんぞ」


「御三家の本家は、みなそうなさってますの?」

「蓮實と兼平はどうだろなぁ。姫がおわすこの家は、昔からそうなっとる」

「住み込みで働いている人たちは、もっと早い時間に起きなければなりません。なんとかなりませんの?」

「なんとかできるとしたら、蓮だけだ。朝の祈祷は朝食後の朝の十時。天からそう詔《みことのり》があったことにしろ。俺は蓮に何回かそう言ったが。今だにこの時刻で祈っとる」

「蓮様がそう云えば。通りますでしょうか」

「姫の言葉は天の言葉。みな従うのみ。そういうことになっとる」

「だとしたら。ほんとうにお告げがなければ、蓮様には云いにくいことだと思います」

「あいつはめんどくさがりで。忍耐強くて生真面目で。嘘をつくのが苦手だからな」

「はい」

 あの方のこと、結構わかってるのね。そんな顔をした冴を面白そうに見て、阿門様は云った。

「おまえさん。俺が相手でなくとも、結婚が嫌みたいだな。どうしてだ」

 冴は生真面目な顔で云った。

「どうして女は嫁に行かねばならないのでしょう?」

 阿門様は云った。

「嫁ぎたくないなら。なぜ俺の嫁になった?」

 冴は云った。

「蓮様のお傍で、蓮様のために働きたかったからです。女学校を出たら家を出て、この家で働きたい。蓮様にそう申し上げたら、お兄様の妻になる気はあるかというお申し出をいただいて。なるほどお兄様の妻になれば。蓮様はお兄様とずっとご一緒なのですから。蓮様にずっとお仕えできると。そうお思いました」


 この二人、戸籍上はすでに夫婦なのだが。戸籍上すでに伴侶となった相手に寄せる思いは、そこそこの好意と信頼ばかりに見える。

 自由恋愛はふしだらなもの。そんな江戸以来の道徳観念は、昭和の中頃でも、日本の良識の中に残っていた。

 明治大正昭和の初め、良家の夫婦の多くは、周囲の大人の紹介で相手を知り、結婚してから配偶者との距離を縮めた。最初は遠い仲の夫婦は、珍しくはなかった。この世界も同様かもしれない。

 だがこの二人の間には、蓮様がいる。どちらも蓮様にばかり入れあげているように見える。

 それで私には、何とも奇妙な夫婦に見える。


「俺と結婚しても。男女のことはなし。おまえさん。それで通ると思ってたのか」

「私、お兄様と蓮様は、真実恋仲だと思っておりましたの」

「恋人がいるから。俺は嫁いできた女に手を出さないと。そう思ってたのか」

「お兄様は嫌がる女に、無体を働く方ですの?」

「手出しできない嫁を追い出さない男は、この世の中に、いなくもない。だがそういう男には、追い出せない理由《わけ》があるんだ」

「理由」

「嫁の身内に世話になっていて、追い出すことができない。あるいは、嫁になんらかの利用価値がある。よほど相手に惚れている。そういう場合もあるかもな」

「私が妻であれば、お兄様と蓮様の仲を邪魔する方から、お二人を守って差し上げます」

「だからおまえさんと離婚せず、しかし手を出すなと?」

「蓮様はお兄様だけを、お慕いしております」

「知ってるよ。その気持ちについては、よくわからんがな」

「蓮様とお兄様は、いつか結ばれますわ」

「おまえさんはそれで良いのか」

「そうなるように願っております」

「で、あんたは一生蓮に仕えて。まともな夫も持たず。子供もいらないと。本気でそう云うのか」

「私。子供のころから、結婚しなければならないと思うと、なんだか気が重くなりました。でも、女がつける仕事で、してみたい仕事もなく。聡子お姉さまのように、もっと上の学校に行きたいとも・・・。蓮様がおそばにおいてくださるなら。蓮様にずっとお仕えしたいのです」

 ここで阿門様が笑ったので、冴はむっとした。

「私、おかしなことを申しましたか?」

 阿門様は云った。

「いや。俺たちは形ばかりは、もう夫婦だが。まったくおかしな夫婦だと思ってさ」

 冴は首を傾げて、くすりと笑った。

「おかしい、ですわね。たしかに」

 二人は少しばかり意気投合して、歩みよったように見えた。

 壁にかかった時計を見て立ち上がると、阿門様は冴に、右手を出した。

「そろそろ参りましょうか。奥様」

 冴は立ち上がると、おずおずと、阿門様に手を預けた。


 一階に下りていく大階段へと、二人で踏み出したとき。

 阿門様が冴に云った。

「子供は外でつくれと云ったな」

 冴は云った。

「お二人のお約束について存じ上げませんでしたから。私、小さい方は好きです。この家に連れてきていただいて、私がお育て申し上げるつもりでした」

「母親が手放さかったらどうする?自分もこの家に入って、俺の妻になりたいと云うかもしれない。盗られるくらいなら、跡継ぎになんかさせないと。逃げちまう可能性だってある。母子を引き裂く無慈悲は、俺も嫌だ」

「そこは、考えませんでしたわ」

「まぁ。俺の嫁がおまえさんであるかぎり、俺がおまえ以外の女を求めることは、たぶん蓮が承知しない」

「お兄様のお相手として蓮様が認めた方は、私で何人目ですの?」

「おまえだけだ」

「私だけ?」

「おかげで三年以上、俺は禁欲だ」

「昔のお坊様は生涯独り身ではありませんか」

「おまえが女学校を出るまでは。披露宴をしない。寝室もともにしない。舅殿のご希望でそういうことになってるが。寝室をともにしたときには、我慢するつもりはないぞ。嫌なら、離婚だ」

「蓮様を思うなら。蓮様と結ばれるまで、他の方を求めず、身を慎まれませ」

「やれやれ。嫁を二人ももらって。どちらにも拒まれる。俺は前世で、どんな罪を犯したんだろうな」

本日はここまでにいたしましょう。

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