女主の朝
女主人の朝の様子と、三人のメイドさんと滝野さんをご紹介の回
宗形家のおける冴の朝を、私は三度目の目覚めで、はじめて眺めた。
庶民の主婦は、家族の朝食に弁当の支度、自分の身支度もある。しかしお金持ちの奥様は、使用人が何でもしてくれる。目覚めももっとのんびりしたものだろう。私はなんとなく、そう思い込んでいたのだが。
冴が起きた時刻は朝の五時だった。
冴が起きて十分も経たないうちに。扉を叩く音がして。可愛らしい声が聞こえた。
「冴様。失礼いたします」
扉が開いて現れたメイドさん二人に、冴は微笑んだ。
「おはよう」
「おはようございます」
住みこみのメイドさん三人は、雪、月、花と呼ばれていた。
はじめて見る冴の容姿を格下に見て、蓮様と冴の書斎での会話を盗み聴こうとした人が「月」。年の頃おそらく二十代前半。なかなか色っぽい美人で、髪を大きくふくらました庇髪にしている。
お多福顔だが女らしく優しそうな、三つ編みのマーガレット巻にした人が「花」(この人は二十四歳だそうだが、十八歳でも通るかもしれない)。
一番年嵩で(たぶん三十代前半)、地味で。髪も無造作に結い上げている、一番有能な人が「雪」である。
この朝冴のもとに来たのは、「花」さんと「雪」さんだった。
メイドさん二人はまず、まず冴に歯を磨かせ、口を漱がせた。漱いだ水は、運んできた盥に吐き出させる。
ついで運んできた白い洗面器に、運んできたかなり熱そうなお湯を入れ、二階の洗面台から水を運んできて混ぜる。そのぬるま湯で、冴が顔を洗う。
それからもう少し熱めのお湯を洗面器に用意して、寝巻を脱いだ冴の体を、手ぬぐいで、手早くそっと清めていく。
このお屋敷には水道は通されているようだが。湯沸し器は設置されていないようだ。おそらくまだどこからも売り出されていないのだろう。
私はメイドさんたちの労働を眺めているうちに、湯沸し器のありがたさを実感した。
大和なでしこは、古来から化粧好きだが。冴は化粧を好まないようだ。
この家にきたときは、白粉を軽くたたいて、口紅をつけていたのだが。ふだんは舶来品らしい、高そうな化粧水だか美容液だかで、洗顔後に肌を整えるだけのようだ。
眉は綺麗に整えられているから、時々手入れをしているのだろう。
顔を整えると、寝汗を清めたからだに、白いコルセットをしめ、丈の長いパンツをはいた。
下着と耳のうらに、百合の匂いに似た香水を、ほんの少しつける。
その上に、白地に緑で葉模様が描かれているドレスを着た。
ドレスは夏物らしい薄い生地だが、足首までは丈があって、袖も長い。下着はかなりがっちり着込む。
私の世界でも1910年代の日中のドレスはこんなふうだが、湿度が高い日本の夏、こんな洋装が快適からは程遠いことを、冴のなかで実感した。
明治政府は国民に洋装を奨励していたらしい。だが洋装の女性が増えてくるのは大正後期以降、ドレスの丈がもっと短くなり、下着がもっと軽やかなものになってからだ。その理由がわかったような気がした。
あくせく働くことのなさそうな冴はともかく。毎日肉体労働のメイドさんたちは、なかなか大変なのではなかろうか。
まだ涼しい朝に、二人ともうっすら汗ばみながら、冴のお支度をしている。
その黒いドレスをよく見れば。その地味な色について、学生服や軍服同様、汚れが目立たないからだと気づいた。
支給は一式一セットか。
としても、明治時代の洋服の価格は高い。
下着の価格が書かれた本は知らないが。国内の生産者が限られているのだから、やはり長襦袢や腰巻を買うより、かなり高いはずだ。
この世界も同じような状況だとしたら。
使用人の仕事着として、一部の男女に洋服を着せているこの屋敷の主は、おそらく相当な資産家だ。
服を着た冴が鏡台の前に腰をおろすと。「雪」さんが冴の髪を梳かし始める。「花」さんは洗面道具の片付けにとりかかった。
「結い上げますか」
「いえ。昨日と同じで」
最初に見たときは結い上げていたが。その後の冴は、たいてい髪をおろし、前髪部分を後ろに引っ張るようにして結っていた。いわゆる束髪崩しである。
「やはり紐でございますか?」
「今日の色は緑で」
冴の暮らす世界が、私の知る明治四十五年の日本なら、リボンが流行していたはずだが。服に合わせた色の、日本の髪紐を使うのが、冴の好みらしい。
髪を整えてもらいながら、冴は尋ねた。
「ねぇ。私。お二人を何と呼べばいいのかしら」
「雪と花。皆様私たちをそう呼びます」
甘い声で答えたのは花さん。
冴は振り返って云った。
「でも。ほんとうのお名前ではないでしょう?」
「冴様。申し訳ございません。結い終わるまでは、前を向いていてくださいませ」
雪さんは女主に、静かな声でそう訴えた。
花さんが朗らかに答えた。
「亡くなられた大奥様が、この制服とともにくださった呼び名です」
冴は前を向いたまま云った。
「阿門様と蓮様は、雪さんをユキノさん。花さんをカノさんと呼んでいるでしょう?」
花さんが云った。
「ただの雪月花では面白くないと。若様のお父様が付けてくださった呼び名ですわ」
「ツキコさんという呼び方も?」
「ええ」
冴は呟いた。
「月の方はツキコと呼んでほしいみたい」
二人のメイドさんは云った。
「わたしはカノと呼ばれるのが好きです」
「わたしもユキノと呼んでいただくほうが」
「では、そうします」と、冴は微笑んだ。
私もメイド三人娘を、ユキノさんとカノさん、ツキコさんと呼ぶことに決めた。
朝の身支度を終えた冴が向かったのは、一階にある厨房だった。
大変広い御台所である。土間はなく、黒光りする板の間が、段差なく広がっている。流し場にも水道が引かれているようだ。
竈はなく、大きなガスコンロとガスオーブンがあった。
白木の大きな食器棚。
片隅に、大きな白木のテーブルと十人分の椅子がある。使用人たちの食卓か?
この世界では、こんな厨房が、すでに普通という可能性もあるが。明治四十五年のお屋敷の厨房としては、とんでもなくハイカラな設備に見えた。
滝野さんが真っ先に冴に気づいて、美しい一礼をした。
「おはようございます」
「おはよう」
滝野さんはいつも、上等そうな黒い着物を着ている。髪はたいてい夜会巻きに、乱れなく結い上げている。年のころ、たぶん五十代半ば
自分自身については、ほとんどすべてのことを忘れているのに。映画や芝居の記憶もあって、俳優の名前も忘れていない。おかげで私はこの人を見るたび、五十代の白石佳代子氏に似ているなぁと感心する。
ずいぶん長く務めている人のようだ。阿門様から、かなり信頼されている様子だ。
女の使用人たちは、この人が管理監督しているようだ。
「朝食の支度は、だいたいできております。まだあまり冷えておりませんが。ジャガイモのスープを少し召し上がりますか」
「味は。滝野さんが確かめているのでしょう」
「はい。問題ないかと」
「じゃあ、私は朝食を楽しみに待つことにするわ」
「ただいま若様に珈琲をお持ちしますが。冴様も何かお飲みになりますか」
「お兄様はもう食堂にいらっしゃるの?」
「先ほどこちらのお二階に」
冴の部屋の窓をあければサンルーム。そのサンルームは、西の角部屋である阿門様の部屋にも繋がっている。
目下阿門様はたいてい蓮様の部屋におられて。夜もそちらで休むようだが。時々洋館の自室にいた。
「珈琲。私が持っていくわ。私の分もいれてほしいな。牛乳をいっぱい入れてね」
「かしこまりました」
滝野さんと冴が話している間も、着物にたすきをかけ、前掛けという姿で、四十は越えているだろう女性二人と、十五、六の若い娘が一人、忙しそうに働いていた。
冴がそちらに目を向けると、三人とも手を止め、朴訥に頭を下げた。冴は目元に笑いを見せ、その挨拶に応えた。
三人のなかで一人、小柄で強かそうな女性が、滝野さんの目を盗み、冴を好奇心の眼差しで眺めまわしていた。
この家の使用人はみな、目下冴を値踏みの最中のようだが。この人とツキコさんの眼差しは、露骨に敬意を欠いている。
雇っている人の働きをあてにするためには、主として認められねばならないのかもしれない。
となると、新参の主としては、朝ものんびり眠っているわけにはいかないか。
私はその眼差しに、ふとそんな納得をした。
本日はここまでにいたしましょう。




