冴の夢と三度目の目覚めと私の記憶
私は冴の夢をみて、十七の阿門様と蓮様と、八歳くらいの冴を見る。そして三度目の目覚めの朝、「私」は気づいたの回。
冴のなかにいる私は、時々ふいに眠くなってきて、意識が昏くなる。冴の感覚と遮断され、どこかに吸いこまれる。
《《これ》》がいつ来るか、いまのところまるでわからない。
一度目は目覚めて二時間くらいで、日中に吸いこまれた。
二度目は、蓮様をはじめて見た日。あの日は目覚めてから、どのくらい時間が経っていたっけ。
冴が眠りこんでからも、私は意識があった。
冴が目覚める前に冴から離れ、どこかに吸い込まれた。
最後に見た時計の時刻は、夜の十時十分。
冴は寝台で眠っていた。
冴が眠ると、私の周りに闇が広がった。闇のなかに光景が浮かび上がってきた。
おそらくは冴の夢。
夢のなかの冴は、八歳か九歳、そんな年ごろだった。
赤紫の朝顔の花と緑の葉が描かれた浴衣を着て、赤い帯を締めていた。
夏の夕方のようだった。実家と思われる家の、日本間の縁側に、蓮様とともにいた。
蓮様の年頃は十六、七。黒っぽい麻の着物に白い絽の帯を締めたその姿は、私が既に知る姿より、かなり華奢だった。男でもなく女でもなく。精霊のように美しかった。
精霊の蓮様に、冴がまだあどけない声で尋ねた
「蓮様はどうしていきなり、玉依姫になることになりましたの」
「当代のご指名だ」
「ごしめい?」
蓮様はこの年頃で、玉依姫になることが決まったのか。
「いつもそうやって決まってきた。天が姫に教え。姫が次の姫を決めるんだ」
「どの家の誰と。名指しされるのですか?」
「お告げは色々らしい。どこにどんな痣があるものとか。丙午の年のいつにうまれたものとか。白蛇の家に生まれた、千の目を持つものとか。どういう意味か。首を傾げたくなるようなお告げもあったらしい」
「蓮様は、どういうお告げで選ばれましたの?」
「百の字を名に持つ母に生まれ、百の字を持つ、清らかなもの」
「蓮様は百蓮様。お母さまのお名前にも百がつきますの?」
蓮様は『百蓮様』だと、私はこの時やっと知った。
「俺の母親は、百合若と名乗る芸者だった。百合は漢字でかけば、百に合うだ」
「ゆり」
「姫の言葉を伝えられた一族の人たちが、勝手に解釈して誰かを選ぶんだ。姫が頷けば、そいつで決まり。そういうことらしい。俺は俺が清らかだとは思えないけど。当代は俺を見て頷かれた。それで決まってしまった」
「蓮様はきよらかです」
「あなたにそう見えるなら、嬉しいね」
「玉依姫は天の声が聞こえるとか。蓮様もそんな力をお持ちですの」
「いまのところ聞こえたことはない。姫になれば聞こえてくると。当代にはそう言われたが。さてどんな感じになるのかな」
夏の強い日差しを葦簀が遮り、縁側はほの暗かった。葦簀の向こうから、ふいに阿門様が顔を出した。
阿門様もまただいぶお若い。すでにかなり大きく逞しいが、私がすでに知る彼より、まだいくらか小さく細い。顔つきもやんちゃな少年めいていた。まだ額に傷がない。
二十代前半。私にはそう見える貫禄だったが。
着崩した学生服と薄汚れた帽子。ぼさぼさの蓬髪に下駄。恰好は戦前のバンカラエリート、一高生である。
しかし。この世界が、私の知る明治四十五年の日本なら。その時代の高校は、私が通った高校とは、だいぶ違っている。
戦後の大学の、教養課程を学ぶ機関で、大学に進学するための予備校。学費、家庭の事情といったの理由で、一度職につき、再び高校に通い始める人も少なくなかったという。二十代の学生も結構いたらしい。
果たして、この阿門様はこの頃御幾つで、私がすでに知る彼は、何歳なのだろう。
「だめです!」
冴は慌てた様子で立ち上がった。小さなからだの両手を広げ、阿門様の前に立ちはだかった。
「御輿入れまで。阿門様は蓮様に、近づいてはいけないはずです」
阿門様は縁側に身を乗り出して。小さな冴の横から、蓮様を覗きこんだ。
とても真摯な声で訴えた。
「おまえ。大学予科に入ったばかりだぞ。退学しちまっていいのか。このままだと、じきに俺の嫁だぞ」
蓮様はからかうように言った。
「ご不満か」
「大学に行くのも留学も諦めて。一族のための巫女姫か坊さんみたいな役に、おさまっちまうつもりかよ」
「おまえは帝大に進む。欧州にも行く。欧州から戻ったら、何をするつもりだ」
「俺の質問に答えろ」
「早く決めろ。俺はじきにおまえの半身となる。おまえが進む道について。俺もまた学ぶつもりだ」
「おまえはおまえの道を行けよ!」
いくらか声を荒げた阿門様に、蓮様は淡々と云った。
「どうやって?学校に行きたくても。誰が金を出す。俺の母は天涯孤独の女だった。母が逝ってしまった時、俺を助けてくれる人はいなくなったんだ」
「おまえは自慢の息子だと、文彦叔父様はそう云ってたぞ」
「父は俺を引き取り、可愛がってくれてはいるが。正妻が怖くて、この家に俺を預けた人だぞ。一族に逆らえるような人じゃない」
「この家の主様には相談してみたか」
「弟と芸者の間にできた俺を、直隆おじさまは甥として可愛がってくださった。ご迷惑をかけたくない。社会の決まりにも一族の決まりにも、生真面目に従う方だ。俺が嫌だと言ったら、きっとお困りになる」
「俺が」
「俺と同じ十七のおまえに、何ができる」
なんと阿門様は、蓮様と同年か。
蓮様に迫る阿門様の眼差しは猛々しく、阿門様を突き放す蓮様の眸は冷たくて。どちらもずいぶん切なげだった。
じきに伴侶になる頃のようだが。引き裂かれた恋人同士のように見えた。
睨み合う二人の男の迫力を恐れたか。蓮様の生い立ちに同情をよせたか。幼い冴が泣き出したところで、私の意識は昏くなった。どこかに吸い込まれた。
はじめて目覚めたときの日付は、定かではないが。二度目の目覚めは、七月二十五日だった。冴が日記に、そう書き記していた。
三度目の目覚めは朝だった。
寝台で目を開けた冴とともに、私も目覚めた。
冴は寝台から抜け出ると、寝巻の白いドレスのまま、サンルームに出た。サンルームの窓を開け、涼しい朝の空気を吸いこんだ。
部屋に戻ると、窓辺に置かれた書き物机へと歩み寄り。机上に置かれた、日めくりの日付を変えた。
三度目の目覚めの日付は、七月二十八日だった。
意識を失ったのは、二十六日の夜中から明け方の間。
およそ二日が過ぎていた。
そしてその日めくりの日付を見た時、私は気づいた。
自分の名前を、自分が誰であったかを思い出せないことに。
性別は女。仕事を持っていた。大学を出て就職した(つまり二十歳は過ぎている)。その程度のことしか覚えていない。
どういう仕事をしていたのか。出身校はどこか。たしかな年齢、住所、電話番号。すべて思い出せない。
こことはまるで違う日本の東京を覚えていた。
そこにあった私の家。私の部屋。住んでいた街。近所の神社。商店街。よく行くビストロ。クレープ屋。甘味処。喫茶店。最寄り駅。職場があるビル。実家。実家のある街。そんな風景の記憶はある。しかしそこがどこであったか。土地の名前も思い出せない。
私の世界にいたはずの人も思い出せない。一人も思いだせない。顔も名前も。
おかしなことに。学校で習った、あるいは独学で得た、あまり豊かとはいえない教養と情報は、頭から抜けていないようだ。
さて私はどこの誰だろう。
いったいどうして、冴のなかで目覚めたのだろう。
本日はここまでにいたしましょう。




