結婚できない男と結婚したくない女と二人の伴侶を持つ男
正妻と本妻と夫。三人婚となったそれぞれの事情の回
蓮様は帯に挟んだ白檀の扇子を出して広げた。
「冬は良いけど。夏の洋館は少し暑いね」
和室のほうが快適だったが、洋館の暑さも、我慢できないほどではない。熱い紅茶も美味しく飲めた。
柱時計の時刻は三時三十三分。七月のよく晴れた午後。冷房なく。新陳代謝の活発な年頃の、薄い生地とはいえ、長袖のドレスを着た娘のなかに、私はいる。それで、その程度の暑さしか感じない。
昔の夏、あるいはこの世界の夏は、私の世界よりずっと過ごしやすいようだ。
話をごまかされたと思ったのか。冴が焦れたように、「蓮様」と名を呼んだ。
蓮様は扇を閉じて云った。
「もうずいぶん昔に思えるけど。この家に来る前に云ったね。俺がこんな男でなければ。冴を妻にしたいと思ったかもしれないと」
「はい。そう仰ってくださった。とても嬉しかったです」
頬を染めた冴を見つめて、蓮様は云いにくそうに云った。
「でも。俺は俺だから。あなたを妻にすることはできないんだ」
冴は自分を慕ってくれている。だから阿門の、本当の妻になりたくないのではないか。そう思っての言葉だろうか。
冴はそんなことは承知しているという顔で、「はい」と云った。
戸惑った顔で、蓮様は言葉を続けた。
「大切なあなたのためを思えば。あなたを娶ることなど、考えるべきではないと思う」
「私のためでございますか?」
今度は冴が、戸惑った顔をした。
意を決した顔で、蓮様は云った。
「どういえばよいのか。俺はあまり、まともな男ではないと思う」
「蓮様が?」
「うん」
「それは。どういうことでございましょう」
どう説明すればよいのかが悩ましい。蓮様はそんな顔で、右手に持つ扇を広げて閉じた。一度ため息を吐いて、口を開いた。
「普通男は、ある程度の年齢になると。女人が気になってたまらなくなる」
冴が云った。
「男女のことについては、この家に来る前にばあやから。殿方のおからだは、女を求めずにはいられないようにできていると。そんなことを申しておりました。だから遊郭のような場所もあるのだと。そういうお話でございますか」
「うん」と蓮様は腕組をして、目を伏せた。
「しかし俺は、その・・・。美しい女を見れば美しいと思い。ともにいることが嬉しくもなるが。この年までそうした欲求を覚えたことがない」
この言葉に、冴は目を輝かせた。
「男の方たちが必ずお持ちだという色欲と、蓮様は無縁でいらっしゃいますのね。尊い仙人様のように!」
「いや!」と、蓮様は片手をあげた。焦った様子で仰った。
「違う。俺は仙人などではない。ないが。女人には、感じたことがないんだ」
冴はまぁと目を見開いたが、すぐに弟を慈しむ姉のような顔となり、蓮様に云った。
「ずっとお傍におりましたもの。存じ上げておりますわ。蓮様はお兄様だけをみていらっしゃった。きっとそのためでございますわ」
愁いを帯びた困惑の目で、蓮様は冴の顔を見た。
「阿門の妻となってほしい。俺がそう言ったら。冴は承知してくれた。いや。承知してくれたと、俺は思っていたけど」
「承知いたしました。だからこの家に参りました」
「ならなぜ。自分を女官のようなものと思っているなどと」
「蓮様がずっと思ってらっしゃったお兄様と、真実夫婦になどなれましょうか」
「俺が、なってほしいんだ」
「お兄様は宗形の次期当主でいらっしゃいますから。跡継ぎが必要となります。他の方に産んでいただこうと思っておりましたが。蓮様がそこを承服できないと仰るのなら。兼平か蓮實か分家から、養子をとられてはいかがでしょうか」
「跡継ぎは、あいつと冴の子どもであってほしい。俺はそう思っている」
「蓮様はお兄様をお慕いしていて。寝室もご一緒にしておられます」
「冴が気になるなら。寝室は別にする」
「寝室をともにするのは、思い合うお二人であるべきだと思います」
「俺たちは男同士だ」
「男色は昔からあることで。殿方の学校ではいまだにありふれたことと聞きました」
「卒業すれば、皆妻を娶る。男女の仲とはまた違うことだ」
「お二人はすでに何年も、伴侶として過ごされております」
「この家のおかしな風習。形だけの婚姻だ。あいつの日常の世話。この家の管理。使用人たちの采配。そんなことができる真実の伴侶が、阿門には必要だ。俺にはできない」
「そういうお仕事は私がします。そのために参りました」
「冴。俺はあなたに、あいつの子供を産む、ほんとうの妻になってほしいんだ。他の女は嫌だ。あなたならと思うんだ」
「養子のこと。お兄様に申し上げてみますわ」
どちらも相手を、熱心に理解しようとしていたが。どちらも相手の気持ちがわからなくて、困惑しているようだった。
質問の方向を変えよう。そんな顔で、蓮様はまたため息をついた。
「阿門はすてきだと、冴はそう云ったよね」
「蓮様とお兄様が並ばれると、とても素敵です。はじめてお二人を見た時から、ずっとそう思って下ります」
「阿門と冴が並んだ姿も、とても良い」
「お兄様の妻は蓮様です」
「あなたはもう戸籍上、阿門の妻なんだ。なのに俺に替わって、この家の女主の仕事をする。一生それだけでよいと云うのか?」
「そのお役目で、蓮様のお傍にいられるなら。そう思いました」
「人並の結婚はせず。ずっと俺の傍にいたいと?」
「形だけの結婚。ならばと思い、この家に参りました。人並の結婚など、いたしたくございません」
「どうしてだろう?」
「どんな家に嫁いでも。息苦しい生活、生涯忍耐の生活しかないような気がいたします」
「聡子と同じようなことを言うね」
「お姉さまもそう仰いましたの?」
「冴も聡子も、賢くて気働きが良くて。教養もある。どんな家でも奥様として上手くまわしていくだろうに」
蓮様がそう苦笑したとき。扉を叩く音がした。室内の答えを待たずに、扉が開いた。
顔をのぞかせたのは、二人の背の君だった。
「蓮。久世のおじさまがいらした」
蓮様は立ち上がり、冴に云った。
「すまない。今日はもうちょっと難しいから。また明日話そう」
阿門様は蓮様を見送り、冴に近づいてきた。
この日は、灰色の縮の着物に羽織、紺の半襟と絽の帯。素足に下駄で、パナマ帽をかぶっていた。
冴は立ち上がり、淑やかに頭を下げた。
「お帰りなさいませ」
「うん。今戻った」
蓮様が座っていた椅子に、どっかと腰をおろした。その人の大きさと逞しさと迫力に、私も冴も気圧された。
冴はこの男と同じ一族、つまり縁は遠いらしいが、血族であるが。慣れ親しんだ間柄というわけではなさそうだ。阿門様と間近で向かい合うと、冴の体に緊張が走る。
この世界が私の世界と地続きの明治四十五年の日本ならば。この頃の良家の若い娘は、若い男と気安く親しくなれない。一部の例外をのぞいて、学校は男女別々。親しくできる機会も、そうそうない。
そんな箱入りのお嬢様にとって。阿門様はいささか親しみにくい男なのかもしれない。
しかし冴は腰を下ろすと、阿門様に自ら歩み寄った。親しげに明るく尋ねた。
「お昼は外で、何を召しあがりましたの?」
「美味い天ぷら屋を教えてもらった。今度連れてってやる」
「楽しみにしております」
笑いを含んだ顔で、阿門様は冴に尋ねた。
「蓮との話し合いは順調か」
冴がきっぱり言った。
「お兄様。私、離婚は致しません」
「なら。学校を卒業したら。俺の部屋で俺と寝るわけだ」
「お兄様は蓮様がお好きなのだと、私はそう思っておりました」
「男の妻なんて珍妙なもの。好きじゃなきゃ受け入れたりしないさ」
「ではなぜ。もう一人妻を求めようとなさいますの?跡継ぎのためですか。この家では、そういう慣例になっているから?」
「跡継ぎは養子をとればいい。慣例なんてどうでもいい。だが俺に抱かれるのは嫌だと、あいつは言う。だから俺には、寝る相手が必要なんだ」
可愛らしい鼻を、嫌そうに蠢かして、冴は云った。
「男の方って。どうしてもそういうことを、せずにはいられないものですの?」
阿門様は笑った。
「人のことは知らん。俺は生涯ずっと忍耐は、ご勘弁願いたい」
「蓮様はなぜ拒まれるのでしょう?」
「まぁ男同士だからな。俺を好いてくれてはいるが。その気持ちは気持ちとして。男色は嫌なのかもしれない」
「お兄様がお付き合いする相手は、蓮様が選ぶ。そのお約束をなさったのは、いつのことですの」
阿門様はパナマ帽子を右手でとった。額の傷に、はらりと前髪がかかる。照れ臭そうに仰った。
「欧州に行く前だ」
冴は阿門様を不審そうに見て尋ねた。
「蓮様が選んだ方なら。お兄様は、誰でも良いのですか」
阿門様は云った。
「俺は蓮と生涯をともにする。そこを納得してくれる女じゃなきゃ無理だろう。蓮にはそう言ってある」
冴は顔を顰めて云った。
「お兄様方の関係は、私にはよくわかりません」
阿門様は長く男らしい人差し指で頬を掻いて云った。
「俺はおまえさんがわからんよ」
この三人、さてこれからどうなるのだろう。
本日はここまでにいたしましょう。




