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薔薇と百合  作者: 黒澤 白
幽霊

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5/18

結婚できない男と結婚したくない女と二人の伴侶を持つ男

正妻と本妻と夫。三人婚となったそれぞれの事情の回

 蓮様は帯に挟んだ白檀の扇子を出して広げた。

「冬は良いけど。夏の洋館は少し暑いね」

 和室のほうが快適だったが、洋館の暑さも、我慢できないほどではない。熱い紅茶も美味しく飲めた。

 柱時計の時刻は三時三十三分。七月のよく晴れた午後。冷房なく。新陳代謝の活発な年頃の、薄い生地とはいえ、長袖のドレスを着た娘のなかに、私はいる。それで、その程度の暑さしか感じない。

 昔の夏、あるいはこの世界の夏は、私の世界よりずっと過ごしやすいようだ。

 話をごまかされたと思ったのか。冴が焦れたように、「蓮様」と名を呼んだ。

 蓮様は扇を閉じて云った。

「もうずいぶん昔に思えるけど。この家に来る前に云ったね。俺がこんな男でなければ。冴を妻にしたいと思ったかもしれないと」

「はい。そう仰ってくださった。とても嬉しかったです」

 頬を染めた冴を見つめて、蓮様は云いにくそうに云った。

「でも。俺は俺だから。あなたを妻にすることはできないんだ」

 冴は自分を慕ってくれている。だから阿門の、本当の妻になりたくないのではないか。そう思っての言葉だろうか。

 冴はそんなことは承知しているという顔で、「はい」と云った。

 戸惑った顔で、蓮様は言葉を続けた。

「大切なあなたのためを思えば。あなたを娶る(めとる)ことなど、考えるべきではないと思う」

「私のためでございますか?」

 今度は冴が、戸惑った顔をした。

 意を決した顔で、蓮様は云った。

「どういえばよいのか。俺はあまり、まともな男ではないと思う」

「蓮様が?」

「うん」

「それは。どういうことでございましょう」


 どう説明すればよいのかが悩ましい。蓮様はそんな顔で、右手に持つ扇を広げて閉じた。一度ため息を吐いて、口を開いた。

「普通男は、ある程度の年齢になると。女人が気になってたまらなくなる」

 冴が云った。

「男女のことについては、この家に来る前にばあやから。殿方のおからだは、女を求めずにはいられないようにできていると。そんなことを申しておりました。だから遊郭のような場所もあるのだと。そういうお話でございますか」

「うん」と蓮様は腕組をして、目を伏せた。

「しかし俺は、その・・・。美しい女《ひと》を見れば美しいと思い。ともにいることが嬉しくもなるが。この年までそうした欲求を覚えたことがない」

 この言葉に、冴は目を輝かせた。

「男の方たちが必ずお持ちだという色欲と、蓮様は無縁でいらっしゃいますのね。尊い仙人様のように!」

「いや!」と、蓮様は片手をあげた。焦った様子で仰った。

「違う。俺は仙人などではない。ないが。女人《にょにん》には、感じたことがないんだ」

 冴はまぁと目を見開いたが、すぐに弟を慈しむ姉のような顔となり、蓮様に云った。

「ずっとお傍におりましたもの。存じ上げておりますわ。蓮様はお兄様だけをみていらっしゃった。きっとそのためでございますわ」

 愁いを帯びた困惑の目で、蓮様は冴の顔を見た。


「阿門の妻となってほしい。俺がそう言ったら。冴は承知してくれた。いや。承知してくれたと、俺は思っていたけど」

「承知いたしました。だからこの家に参りました」

「ならなぜ。自分を女官《にょかん》のようなものと思っているなどと」

「蓮様がずっと思ってらっしゃったお兄様と、真実夫婦(めおと)になどなれましょうか」

「俺が、なってほしいんだ」

「お兄様は宗形の次期当主でいらっしゃいますから。跡継ぎが必要となります。他の方に産んでいただこうと思っておりましたが。蓮様がそこを承服できないと仰るのなら。兼平か蓮實か分家から、養子をとられてはいかがでしょうか」

「跡継ぎは、あいつと冴の子どもであってほしい。俺はそう思っている」

「蓮様はお兄様をお慕いしていて。寝室もご一緒にしておられます」

「冴が気になるなら。寝室は別にする」

「寝室をともにするのは、思い合うお二人であるべきだと思います」

「俺たちは男同士だ」

「男色は昔からあることで。殿方の学校ではいまだにありふれたことと聞きました」

「卒業すれば、皆妻を娶る(めとる)。男女の仲とはまた違うことだ」

「お二人はすでに何年も、伴侶として過ごされております」

「この家のおかしな風習。形だけの婚姻だ。あいつの日常の世話。この家の管理。使用人たちの采配。そんなことができる真実の伴侶が、阿門には必要だ。俺にはできない」

「そういうお仕事は私がします。そのために参りました」

「冴。俺はあなたに、あいつの子供を産む、ほんとうの妻になってほしいんだ。他の女《ひと》は嫌だ。あなたならと思うんだ」

「養子のこと。お兄様に申し上げてみますわ」

 どちらも相手を、熱心に理解しようとしていたが。どちらも相手の気持ちがわからなくて、困惑しているようだった。

 質問の方向を変えよう。そんな顔で、蓮様はまたため息をついた。


「阿門はすてきだと、冴はそう云ったよね」

「蓮様とお兄様が並ばれると、とても素敵です。はじめてお二人を見た時から、ずっとそう思って下ります」

「阿門と冴が並んだ姿も、とても良い」

「お兄様の妻《つま》は蓮様です」

「あなたはもう戸籍上、阿門の妻《さい》なんだ。なのに俺に替わって、この家の女主《おんなあるじ》の仕事をする。一生それだけでよいと云うのか?」

「そのお役目で、蓮様のお傍にいられるなら。そう思いました」

「人並の結婚はせず。ずっと俺の傍にいたいと?」

「形だけの結婚。ならばと思い、この家に参りました。人並の結婚など、いたしたくございません」

「どうしてだろう?」

「どんな家に嫁いでも。息苦しい生活、生涯忍耐の生活しかないような気がいたします」

「聡子《さとこ》と同じようなことを言うね」

「お姉さまもそう仰いましたの?」

「冴も聡子も、賢くて気働きが良くて。教養もある。どんな家でも奥様として上手くまわしていくだろうに」

 蓮様がそう苦笑したとき。扉を叩く音がした。室内の答えを待たずに、扉が開いた。

 顔をのぞかせたのは、二人の背の君だった。

「蓮。久世のおじさまがいらした」

 蓮様は立ち上がり、冴に云った。

「すまない。今日はもうちょっと難しいから。また明日話そう」


 阿門様は蓮様を見送り、冴に近づいてきた。

 この日は、灰色の縮の着物に羽織、紺の半襟と絽の帯。素足に下駄で、パナマ帽をかぶっていた。

 冴は立ち上がり、淑やかに頭を下げた。

「お帰りなさいませ」

「うん。今戻った」

 蓮様が座っていた椅子に、どっかと腰をおろした。その人の大きさと逞しさと迫力に、私も冴も気圧された。

 冴はこの男と同じ一族、つまり縁は遠いらしいが、血族であるが。慣れ親しんだ間柄というわけではなさそうだ。阿門様と間近で向かい合うと、冴の体に緊張が走る。

 この世界が私の世界と地続きの明治四十五年の日本ならば。この頃の良家の若い娘は、若い男と気安く親しくなれない。一部の例外をのぞいて、学校は男女別々。親しくできる機会も、そうそうない。

 そんな箱入りのお嬢様にとって。阿門様はいささか親しみにくい男なのかもしれない。

 しかし冴は腰を下ろすと、阿門様に自ら歩み寄った。親しげに明るく尋ねた。

「お昼は外で、何を召しあがりましたの?」

「美味い天ぷら屋を教えてもらった。今度連れてってやる」

「楽しみにしております」

 笑いを含んだ顔で、阿門様は冴に尋ねた。

「蓮との話し合いは順調か」

 冴がきっぱり言った。

「お兄様。私、離婚は致しません」

「なら。学校を卒業したら。俺の部屋で俺と寝るわけだ」

「お兄様は蓮様がお好きなのだと、私はそう思っておりました」

「男の妻なんて珍妙なもの。好きじゃなきゃ受け入れたりしないさ」

「ではなぜ。もう一人妻を求めようとなさいますの?跡継ぎのためですか。この家では、そういう慣例になっているから?」

「跡継ぎは養子をとればいい。慣例なんてどうでもいい。だが俺に抱かれるのは嫌だと、あいつは言う。だから俺には、寝る相手が必要なんだ」


 可愛らしい鼻を、嫌そうに蠢(うごめ)かして、冴は云った。

「男の方って。どうしてもそういうことを、せずにはいられないものですの?」

 阿門様は笑った。

「人のことは知らん。俺は生涯ずっと忍耐は、ご勘弁願いたい」

「蓮様はなぜ拒まれるのでしょう?」

「まぁ男同士だからな。俺を好いてくれてはいるが。その気持ちは気持ちとして。男色は嫌なのかもしれない」

「お兄様がお付き合いする相手は、蓮様が選ぶ。そのお約束をなさったのは、いつのことですの」

 阿門様はパナマ帽子を右手でとった。額の傷に、はらりと前髪がかかる。照れ臭そうに仰った。

「欧州に行く前だ」

 冴は阿門様を不審そうに見て尋ねた。

「蓮様が選んだ方なら。お兄様は、誰でも良いのですか」

 阿門様は云った。

「俺は蓮と生涯をともにする。そこを納得してくれる女じゃなきゃ無理だろう。蓮にはそう言ってある」

 冴は顔を顰めて云った。

「お兄様方の関係は、私にはよくわかりません」

 阿門様は長く男らしい人差し指で頬を掻いて云った。

「俺はおまえさんがわからんよ」

 この三人、さてこれからどうなるのだろう。


本日はここまでにいたしましょう。

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