はじめての夫婦喧嘩
女たちのうわさ話と、若夫婦の言い争いの回
元木さんがやってきた日の夜。
冴の意識が昏くなるとともに、私の意識も昏くなった
次に目覚めたとき、冴は寝台にいた。三度目の目覚めの時同様、ちょうど目を開けたところだった。
冴がめくった日めくりで確認した日付は、七月二十九日。
冴とともに眠りにつき、翌日の朝、冴とともに目覚めたことになるのだが。これははじめてのことだった。
この朝、冴が厨房に向かうと、かなり手前で、こんな声が聞こえてきた。
「ねえ。今日家に来た冴様のお友達。ほんとに、元木文って名乗ってたの?」
ツキコさんの声に聞こえた。
冴は立ち止り、聞くともなしに、その後の話を聞いてしまった。
「その子と蓮實の聡子お嬢さん。心中しようとしてたんですって」
「心中?女同士で?」
「なんでそんなこと知ってるんだい」
「あそこの家に勤める人に、この前聞いたもの」
「まぁ」
「あの子と聡子様は、なんだかあやしい。誰かがあの家の奥様に、そんなことを云ったらしいの。で、あの子からきた手紙が、奥様の目に止って。その手紙には、一緒に海に飛び込む計画が書いてあったんですって」
「冴様と聡子様は同じ学校よね。今日の人も同じ学校かしら」
「奥様が聡子様の部屋を調べたら。その子と交わしたアツアツの恋文も大量に見つかったらしいわよ」
「ねぇ。去年もどっかで、お嬢さん同士の心中事件なかった?」
「何不自由ないお嬢さん同士が。何を考えて死にたくなったんだろう」
「女学校で何を習ってるのやら。女同士で心中なんて、嫌らしいったら」
冴は厨房に入らす、玄関ホールのほうへと引き返した。
蓮様の暮らす日本館の部屋に向かおうとしたのだが、蓮様は玄関ホールにいて、書斎の扉を開けようとしていた。黒しじらに白い角帯の浴衣姿が涼しげだった。
冴は蓮様に駆け寄った。
「おはようございます。蓮様。今朝の御祈祷は?」
書斎の扉を開けて、蓮様が云った。
「今朝はもうすませた。おはよう」
書斎では、阿門様が一人椅子に腰かけ、珈琲を飲んでいた。
阿門様は生成り絣の浴衣に黒い角帯。蓮様は足袋をはき草履をはいていたが、こちらはこの日も、素足に下駄ばきである。
「おまえさん。そのドレス、夜の奴だな」
冴は少しむっとした顔で、ドレスのスカートを両手で引っ張った。
「今朝は蒸し暑くて」
阿門様と向かい合う長椅子に腰を下ろして、蓮様は云った。
「それで朝食となると、おじい様にお小言をいただくぞ」
阿門様が云った。
「俺の浴衣と下駄についても、そろそろ云われるだろうな」
「俺も今日は浴衣だ」
「日本の夏は浴衣だろ。冴、じっさまになんか云われたら、俺がその恰好をすすめたと云え」
「お兄様に?」
冴は数秒阿門様の顔を見つめた。その言葉を、意外に感じているようだった。
蓮様が座った長椅子に、蓮様と並んで腰を下ろすと。冴は蓮様に訴えた。
「今、厨房で、女の人達が話しているのを聞きました。元木さんとお姉様が、心中しようとなさっていたと」
蓮様は軽く息を吐いた。
「一族の使用人たちは、あちこちで繋がってるようだな。女たちの連絡網は、ことに話が早く回る」
阿門様が云った。
「滝野がいたらそんな話はさせない。席を外してたかな」
わけがわからない。そんな顔で冴は尋ねた。
「ほんとうのことですの?」
蓮様は困った顔で云った。
「そのようだ」
阿門様が云った。
「去年、若い女二人の心中があって。同性の愛とかなんとか。新聞でずいぶん騒がれたらしいな」
蓮様は呆れた顔になった。
「誰の手紙に書いてあった?」
「五島だ」
「あいつがそんな話に興味を持つとは」
「おまえは興味がないか。はたしてそれは、熱烈な友情か」
冴が戸惑った顔で、二人を見比べた。
「友情でなかったらなんだと云いますの?」
阿門様がいたずらな顔になった。
「男の学校の寮では。美少年が獲物にされる」
冴はきょとんとした顔で云った。
「獲物?」
「男の学校には。ぎらぎらした目で後輩をつけ狙う奴らがいるんだ。この蓮様も、よく先輩たちに襲われて。見事返り討ちにしていた」
「まぁ」
「女学校の寮にそんな人間がいるわけがない。乙女同士の仲は衆道とは違う。熱烈な友情だろうというのが、女崇拝の強い五島の意見だが、どうだろうな」
冴は阿門様の興味の矛先に、やっと気づいたようだった。
憤然とした顔で云った。
「お姉さまと元木さんは、そんないやらしい仲ではございません!」
阿門様が面白そうに尋ねた。
「体の関係があったら嫌らしいか」
ますます憤然となって、冴は云った。
「女同士で。ありえませんわ」
「俺と蓮は真実結ばれるべきだといったおまえが、それを云うのか」
「男の方は、そういうことはしないではいられない。そういうふうに出来上がっているのだと伺いましたが」
「まともな娘はそうした欲を持たない。そういうことになっている。しかしだが、果たしてそうなのかな」
蓮様が二人の間に入る。
「阿門。淑女にする話じゃない」
阿門様は蓮様に顔を向けた。
「俺は人間の体の真実に興味がある。だから医学部に進んだわけだが」
それ以上、そんな話は聞きたくない。冴はそんな顔で立ち上がった。
「失礼いたします」と二人から離れ、足早に書斎から出ていった。
本日はここまでにいたしましょう。




