夢か現か
さて、冴のなかにいる私がやってきたのは、どこでしょう。そして冴の夫はどんな人?
車窓から見える眺めは、歴史の研究書に見る東京の写真に、色をつけたようだった。
高いビルディングなんて一つもない。緑が多い。山が見える。空が煤煙でかすんでいる。
道行く人力車に辻馬車。路面電車。歩いている人々の多くは着物姿である。1910年代に流行したドレスと帽子の女性も、たまに見る。大日本帝国の軍服で馬に乗る男も。
そんな眺めが、いつまでも続く。
そのうち、セットとエキストラには思えなくなってきた。
これはまさかの、タイムスリップ?
そんな突拍子もない考えを、思いついたとき。冴が云った。
「この頃二重橋前は、陛下の快癒を願う土下座姿の国民で埋まっているそうね」
運転手の男は、二十代前半に聞こえる声で云った。
「そのようですね」。
運転手は冴の実家の人間ではないようだが。初対面の仲ではないようだ。いたずらな顔になって、冴は云った。
「あなたも土下座してきたの?」
運転手は闊達に答えた。
「わたしはいたしておりませんな」
冴は口元に笑みを見せた。
「お亡くなりになられてもいないのに。自粛自粛で。東京中がなんだかどんよりね」
「ええ。おかげで日増しに不景気が酷くなる。儲けなければ下は食っていけないが、上はそんなことにはおかまいなしだ」
ひょっとしてここは、明治天皇が病に倒れた明治四十五年の七月の東京か?
二人の話に、私はそう独り言ちた。そして窓の外にとんでもないもの見つけた。
見慣れた高い塔。大正時代の東京にあるはずのない、「東京タワー」を。
冴の家はおそらく本郷あたり。やがて到着した場所は虎ノ門あたり。
その道のりの途中から、私は東京タワーばかりを見ていた。
が。周囲の建物から浮き上がって高い赤い鉄塔を、冴はまるで気にしていなかった。
いったいここはどこ?
悩む私を、冴とともに乗せた車は、やがてアールヌーヴォーな鉄の門のなかへと入った。
門のなかの、丘やら大きな池やら滝やらが見える敷地の並木道を走り、大きな洋館の車寄せの前で止まった。
車寄せには、黒いドレスに白いエプロン姿の娘が三人。清潔そうだが、いかにも着古した感のある着物姿の、逞しい女性が一人、若い娘が一人。
五人とも、かつての言葉でいうところの「女中さん」だろう。着物姿の人たちは下働きか。
上等そうな黒い着物を着た中年女性が一人。この人が女中頭だろうか。
執事のような姿をした壮年の男が一人。
黒い大型の洋犬が一匹。この犬はシェパードだと思うが、私は犬についての知識に乏しく、自信をもって言い切れない。
犬の横には、白麻の着物に博多献上の帯を締めた若い男が、懐手に立っている。高そうな着物に傍若無人な様子は、使用人とは思えない。
ここが明治が終わる年の、私が知る東京であるとすれば。そのころの日本男児らしからぬ、長身と体格の持ち主である。
その迫力に、私より年上、二十代後半と検討をつけたが。顔立ち、髪や肌の色をよく見ると。いや、もっと若いかも。そんな気もした。
整った顔立ちをしていたが、私の世界のアイドルや美男俳優より、だいぶ精悍な顔だった。気品は感じられるが、背後の屋敷の若様だとすれば、逞しすぎると思った。光る眼と白い綺麗な歯は海賊のようで。額に大きな傷跡がある。
運転手が車の扉を開けると、冴は白いドレスを翻し、その場に颯爽と降り立った。その男を真っ直ぐに見て云った。
「参りました。お兄様。以後よろしくお願いいたします」
海賊男が冴の夫、「阿門様」のようだ。近づくと、高そうなオーデ・コロンの、良い匂いがした。刺激的な、色気のある匂いだ。この時代であるから、おそらく舶来品だろう。
阿門様は冴に云った。
「ここに居る人間は、みんな住み込みだ。書生がもう二人いるが。どちらも出かけている。黒い犬は公爵。俺の兄貴だ」
冴はまず、ドレスをつまんで兄貴分の犬に礼儀をしめした。
それから使用人たちを見まわして、鷹揚に云った。
「冴と申します。以後よろしくお願いします」
洋装の三人娘が、ちらちらと冴を見て、品定めしていた。一人なかなかの美人がいた。この人はどうやら容姿におけるおのが勝利を確信した様子だったが。威厳に満ちた女中頭さんに睨まれ、すぐさま顔を伏せた。
玄関広間から、赤絨毯が敷かれた大階段の見える大広間へ。そして玄関に近い応接間らしき部屋へと、冴は通された。
炎のない暖炉の前で、阿門様と向かい合った。
二人が腰を下ろした椅子は、黒漆金蒔絵と西陣織で出来上がっていた。この家の調度品は、冴の家よりさらに豪華だ。
洋装の女中さん(以後メイドと呼ぶ)の一人が、銀の盆で紅茶とケーキを運んできた。メイド三人娘のなかで、この子が一番性格が良さそうだ。可愛らしいお多福顔である。
冴が一口食べたので、私もケーキを味わうことができた。レモンピールが入っているらしいケーキは、使われているバターが上等で、甘すぎず美味しかった。
明治最後の年にして大正元年。その時代にこんなケーキが出てくるとは。私はそう驚いたが。冴からは驚きを感じない。礼儀で口にいれただけ。そんな様子だ。
東京タワーがある明治四十五年のこの世界では、さほど驚くべきことではないのか。あるいはこの家が特別な家で、その特別さに、冴が慣れているのか。
ミルクをいれて紅茶を飲むと、冴は阿門様に尋ねた。
「蓮様はどちらにいらっしゃいますの?」
「今日は客が多い。まだ奥にいる」
「昔の信仰を頼る方が、我が一族には、まだそんなにいらっしゃいますの?」
阿門様は面白そうに冴の顔を見た。
「会うのは三年ぶりだな。外見は以前より娘らしくなったが。中身は変わらりがないようだ」
「欧州はいかがでございましたか」
「面白い。色々落ち着いたら戻って。もうしばらく向こうにいるつもりだ」
「次にいらっしゃるときは、蓮様もお連れになられてはいかがでしょう」
「俺は蓮からの手紙で知ったんだ。おまえさんを俺の嫁にすると、じっさまが決めたと。それで慌てて戻ってきたんだが。家に着いたら、おまえさんはもう俺の戸籍上の配偶者になっていた。かなり驚いたぞ」
「私が承知しましたら。あっという間に話が進んでしまいました」
「おまえさんが俺の嫁になりたかったとはな」
「お兄様には、もう奥様がおられます」
「蓮のことか?」
「わたくしはこの家で、お二人にお仕えする女官のようなものになった。そう思っております」
「女官?」
「人前では妻としてふるまいますが。お兄様の側室になるつもりはございません」
「男女のことはなしにしたいということか」
「お子様を生む方は、家の外でお求めください。生まれた方は、私が責任をもってお育ていたします」
「この結婚を承知する前に、蓮とよく話し合ったか」
「私が蓮様のお気持ちを理解していない。そうおっしゃいますの?」
「俺の子供はおまえに産んでほしい。蓮は俺にそう言った。俺がおまえ以外の女に手を出すことを、あいつはたぶん許さない。だから俺はおまえ以外の女には、手を出せない。俺は禁欲を強いられる気はない。俺と寝たくないなら。蓮と一族を説得して、俺と離婚しろ」
男の言葉に、冴はかなり動揺していた。
その時、私の意識は昏くなり、阿門様の顔が見えなくなった。
本日はここまでにいたしましょう。




