ここはどこ?
『天興』御屋敷物語。開幕でございます。
目覚めたら、自分ではない人間になっていて、自分が居た世界とは異なる世界にいた。あまりに陳腐な始まりで恐縮だが。この話もそこからはじめる。
目覚めたら、「私」は「冴」のなかにいた。どこにいるのかはわからないが、冴と体の感覚を共有していた。
冴の見るものを私も見る。冴が聴く音や声が聞こえる。冴が触るものには、私も触れたように感じる。冴が食べると、その食べ物の味がわかる。冴が体験する匂い、寒さ熱さ。みなわかる。
冴の驚き、歓び、焦り。その感情のすべてがわかるわけではないけれど、その波動も伝わってくる。
しかし私は冴を動かすことはできない。ただ冴の行動と冴の周囲を眺めているだけだった。
冴の年頃は十五、六。好奇心が強く聡明そうな目をしていた。繊細な顔立ちは並。美人とまではいかない。しかし肌が瑞々しく綺麗で、育ちの良さそうな顔つきである。 凹凸には乏しいが、からだの形は優美で、洋服も着物も着映えがしそうだ。
多くの人が溜息をつくような美女ではないし。多くの若い男からもてはやされる。そんなこともなさそうだけど。この子に目を止める人、その魅力を認める人は、それなりにいるだろう。
私が目覚めたとき、冴は外出の支度を終えたところのようだった。薄化粧も結いあげた髪も、傍にいた紺麻の着物の老女がしたことだろうか。老女は満足げに冴を眺めていた。鏡台の前に座る冴自身は、鏡の中の自分を、浮かない顔で眺めていた。
部屋のなかには冴と老女だけ。畳の上に幾何学模様の緑の絨毯を敷き、黒漆と黄色い絹でできた椅子、鏡台も照明もレトロな和洋折衷、白い縮の布団がかけられたベッドもまた、寝台と呼んだ方がしっくりきそうな代物である。まるで明治村の建物の一室だった。
室内は少しばかり暑い。窓にかかった簾。その向こうに見える晴れた空と庭の様子。室内の設え。老女の着物。その場の様子は夏だが。室内に冷房機は見当たらず。窓が開いている。風が吹きこんでくれば、薄暗い室内はなかなか気持ちが良い。近年私は、六月にはもう、冷房をつけずにいられない。ではまだ五月の終わりごろなのか。
冴の服装を見ても、そんな気がした。レースが美しい、長袖の、白いドレスを着ていた。これを夏服として着ていたら、前時代の令嬢だ。
そう考えて。はたと思いついた。この人たちは私の知らない女優で、これはドラマか映画の撮影かと。
首から足首くらいまで隠れるドレス。舞台は1910年代、明治末期か大正のはじめ頃だろう。室内の様子もそんなふうだと、私が納得したとき。
「冴、入るぞ」
襖の外から、男がそう云った。その声で、私は彼女の名を知った。
一枚は緑、一枚は白の襖を開けて入ってきた人は、顎髭をはやし、生真面目で立派な顔をした壮年の男だった。松色の着物に羽織。この俳優も見たことがないと、私は首を傾げた。
冴はこの男を迎えると、老女に云った。
「下がっていて」
老女は一礼をして去った。男は冴の前にあったひじ掛け椅子に腰を下ろし、冴に尋ねた。
「用意した着物はどうした」
冴は鏡台の前の椅子に腰かけたまま、座る向きを変え、男と向き合った。
「私、着物は嫌いです」
諦念の表情で、男は息を吐いた。
「まぁ。その恰好も悪くはない。だいぶ前だが。おまえには洋装の方が似合うと。阿門様も仰っていたしな」
「あれは私のためにとりなしてくださった御言葉です。阿門様は、前日に会った私の服装も、覚えていらっしゃらなかったと思います」
「これからは関心を持たれるさ」
「どうしてそう思われますの?」
「日本を離れるまで、百蓮様が着る着物や洋服は、ほとんどあの方が見立てていたとか。伴侶の着るものは気にかかるらしい」
「お父様。阿門様の伴侶は蓮様です」
「阿門と名付けられた宗形家の男子は、かならず玉依姫を伴侶とするが。玉依姫は女ではない。だからもう一人、女の妻を迎える。昔からそう決まっている」
「この国の御代の法律では、妻は一人しかもてないことになっております」
「ひと月前、おまえは阿門様の、戸籍上の伴侶となった。法の上では、おまえが阿門様の妻だ」
「阿門様と蓮様の御式には、殿下と呼ばれる方々さえ列席なさった。阿門様の伴侶は蓮様です」
「昔からの風習だ。冴、承服できないならなぜ引き受けた」
「蓮様が私を指名なさったからです」
「姫様はこの家におられたころ。おまえを妹のように可愛がってくださった。今でもよくお招き下さる。おまえをお傍におきたいのかもしれないな」
「とんでもない女が、あの家で女主のようにふるまって。蓮様の目ざわりになる。そんなことは許せません。だから参ります。お父様。人前ではかまいませんが。私とお二人しかいない場所では。私が阿門様の伴侶などと、そのようなことを口にされてはいけません」
困惑顔の父の前に立つと、冴はドレスにふさわしくない、日本人らしい礼儀をとった。深々と頭を下げた。
「これまでお世話になりました。私を慈しみ育ててくださったことを感謝いたします」
二人の会話に、これはどういう物語なのかと、私は何度も驚いた。冴はすでに戸籍上、阿門という人の妻であるらしい。が、阿門様には、盛大な式を挙げた伴侶が、すでにいるという。その人、蓮様が、冴をもう一人の妻に指名した。冴とその人は、姉妹のような仲らしい。ざっと整理して、思わず呟いた。なんじゃそりゃ。
冴の家は、慎ましい広さとはいえない。父と娘はよく磨かれた廊下をかなり歩いて、私の家よりずっと広い、立派な玄関に到着した。
廊下の途中で、私は戸惑い始めた。家のなかが、まるでセットに見えない。撮影しているスタッフが、どこにも見えない。
玄関先には、使用人らしき人たちが五人、見送りに出ていた。着物姿の女三人。一人は冴の部屋にいた老女で、この人はさしずめ「ばあや」。あとの二人は戦前を舞台にしたドラマの「女中さん」。一人の若い男は明治大正の「書生」。もう一人の男は、年よりの「下男」。そんな様子だった。
「冴さま。お元気で」
「お嬢様。お幸せに」
「行ってらっしゃいませ」
「みなさま。我が家を以後もお願い申し上げます」
冴は見送りの人達にそう言って、玄関前に待つ車に乗りこんだ。車の扉は開け閉めしたのは、お仕着せの運転手である。
運転手の灰色のお仕着せも、黒い車も、実に古めかしい。写真でしか見たことのないような代物だ。車は明治大正の頃、皇族が乗っていたキャデラックに見えた。その車が走り始めた時。
「冴」は役名ではなく、ここは私が知る世界ではないのだろうか。
ようやく私は、そう考え始めた。
本日はここまでにいたしましょう。




