天興元年
大正ではなく天興時代開幕、元木さんが御屋敷にやってくるらしい 別々の体に入っているのに、彼の声が聞こえたの回
一九一二年七月三十日に日付が変わって一時間もしないうちに、明治天皇が崩御。
皇太子が践祚。一九〇九年に公布された登極令に基づき、改元の詔書が交付され、即日施行。
「聖人南面して天下を聴き、明に嚮ひて治む」の明治時代が終わり、大正時代の開幕。
というのが、私が知る日本の近代史なのだが。
この世界で開幕したのは、『天興』時代だった。
ある日冴が本を読んでいるとき、地名の相違にも気づいた。
私が知る明治大正時代、東京都は東京府東京市。しかしここでは、東都府東都市だった。
天興天皇がご即位された七月三十日から、私の意識はずっと、冴とともに眠りにつき、冴とともに目覚めている。
宗形家の主たちの着物と洋服は、毎日白いか黒い。模様もない。喪服仕様である。
明治末期から大正の学生の夏休みは、学校ごとに期間や時期が違っている。おおむねひと月。七月末から八月末日まで。
明治から天興に移るこの世界では、さてどうなっているのか。
私が冴の中ではじめて目を開けて、冴が宗形邸に移り住んだ日、たぶん冴の学校は、すでに夏休みだった。
その日から天興時代が開幕した日までの間、冴が宗形家の敷地を出たのは、聡子様を訪ねたときだけ。
八月に入っても、毎日家にいた。
夏休みらしく、旅行に行くとか。友人と遊ぶとか。そんな予定はないらしい。
この時代の令嬢とはそんなものか。この家の奥様が、そんなふうなのか。あるいは国民みな喪に服す。そんな世の風潮のためか。
この家の現当主、阿門様の祖父の大旦那様は客好きで、例年八月は身内や知人の集まりが何度も催されるが。今年はお客様がまるでない。仕事は楽だが少し寂しい。
メイドさんたちがそんな話をしていた。これもまた時節柄のことか。
家にずっといても、客がなくとも、冴に退屈している様子はなかった。
久しぶりに蓮様と毎日会える。話ができる。そのことを喜ぶ冴の気持ちは、なかなかおさまりそうになく。まずそれだけで、毎日がウキウキ。そんな様子だった。
一生涯阿門様と白い結婚を続けて、蓮様のそばにいたい。そんな冴の願いを通すべく、阿門様とも蓮様とも、対話を続けていた。その対話に、かなり時間をとられてもいた。
日に何度か、藤田さんか滝野さんが、家事についての決裁を仰ぎに来て、その対応をする。三度の食事の支度を、台所に確認に行く。大旦那様と阿門様の外出時はお見送りをする。蓮様が出かけるときは、侍女のように付き従った。学校の宿題もあって。しなければならないことも、それなりにあるようだ。
読みたい本は、書斎と阿門様と蓮様の部屋にいくらでもあるようで。日記や手紙も書きたい。公爵とともに庭を散歩したい。黒い小さなお姫様と遊びたい。したいことも、毎日色々あるようだった。
「こいつ。おまえさんの部屋に連れてくか」
阿門様からそんな申し出があり。子猫と猫のトイレを、冴の部屋に移してみたが。 猫の姫様が阿門様を探して、冴の部屋から抜け出してしまった。小さな子猫が見つからず。冴がパニックを起こし。阿門様と蓮様と使用人一同で、屋敷中を探し回った。 八月三日には、そんな小さな騒ぎもあった。
この事件で、冴は子猫を手元に置くことを諦め、子猫が選んだ飼い主は阿門様なのだと、仕方なく認めた。
子猫失踪事件の三日後の午後三時。
洋館二階、冴の寝室前にあるサンルームにて、小さな円卓をはさんで椅子に腰かけ、冴は蓮様と向かい合っていた。
この家で手作りされたアイスクリームを嬉しそうに食べていた冴に、蓮様が云った。
元木さんに、住み込みで働いてもらうことになったと。
「住み込みで働く方が、足りていないのですか」
「特にそういう相談は、受けていない」
「蓮様のお仕事が大変なら。私もお手伝いいたしますけど」
「いや。住み込みで働きたいというのは。元木さんの希望だ」
「元木さんの?」
「手紙が届いた。元木さんの母上は、富山県の実家に戻られることになったそうだ」
「元木さんもご一緒にと。元木さんのお母様はそう望んでおられますの?」
「弟くんは中学校の寮住まいだそうだが。彼女は今母上と、貸家暮らしだ。まともな家の母親は、娘の一人暮らしなど許さないさ」
「・・・・」
「彼女の母上の実家では、もうあの人の嫁入り先を探しているとか」
天興日本の女性をめぐる状況と、大正日本の状況は、ほぼほぼ同じ様子。
ここでも女は嫁に行くもので、十六、七は、結婚には早すぎる年でもないのだろう。
そんな社会で、父親が他界、残された母子には財産がないとなれば、世話をする身内は、娘の嫁入り先を探すだろう。
世話をしなければならない人間は、少ない方が良い。その身内の暮らしに余裕がなければ、そう計算するだろう。
そんな計算をしない身内も、娘の未来を思えば、早く良い家に嫁がせることが、縁者の義務、仕事と考えるはずだ。
「行きたくない。一生懸命働くし、音楽学校の援助などは良いから、ここにおいてほしい。彼女は手紙に、そう書いてきた。それで俺は一昨日、この家の大旦那様に、その相談をした」
「おじい様に?」
「哀れな娘を一人。俺の秘書として雇い入れたい。身元をもう確かめてある。住み込みで働いてもらうつもりだが。才能のある娘で、音楽学校に通わせたいと思っている。そう頼んだ」
「おじい様はお許しになりましたか?」
「喜んでいた」
「喜んで?」
「玉依姫は、男も女も生涯独身ということになっておりますが。僧侶も妻帯が公的に許されたこの時代。傍仕えの女の一人くらい、いてしかるべきかと。そんなことを云った」
「傍仕え?」
「どうも俺が彼女を、女として傍に置きたがっている。そうとったらしい」
「まぁ!」
「彼女の部屋は、御堂のすぐ近く、あの八畳になりそうだ」
「私もそちらが良いです!」
「あの人は俺にもあいつにも、女をあてがいたいようだ。彼女の母上を説得できるかどうかと相談したら、藤田を派遣してくれた」
「藤田は元木さんのお母さまを、説得できましたの?」
「何を云ったのかな。見事に」
「おじい様は、聡子お姉さまの騒ぎをご存じですの?」
「ご存じないだろうな」
「蓮様からは」
「話していない」
アイスクリームが消え、空になった硝子の器を睨む冴に、蓮様は尋ねた。
「もう少し食べたいか?」
冴は蓮様を見て云った。
「元木さんは優秀な方です。蓮様をお助けできる方だと思いますし。あの方を助けて差し上げてほしい。そう思いますが。でも元木さんをこの家におくことで。蓮様が。蓮實のおじさまとおばさまに、責められないかと」
「二人とも「元木文」さんの顔はご存じないようだが」
「この家に住み込み働いているの女の人たちは。あの方が元木文さんであることも、元木さんがお姉様としようとしたことも。みんな知っています」
「聡子の問題の相手を、俺が傍に置いたことを、蓮實家もすぐに知るだろうな」
心配そうな冴に、蓮様は微笑んだ。
「まぁ。あの二人が問題をおこさなければ。蓮實家が俺に何か云ってくることもあるまい」
「お姉様に会える。蓮様は元木さんにそう仰った。元木さんは、その期待もあって。そんなお気持ちになったのではないでしょうか」
「折りを見て、会わせてあげたいとは思っている」
「お二人とも、お目にかかったときのご様子が、尋常ではなくて」
「まぁ、会わせるのは、二人の様子がもう少し落ち着いてからだね」
「お姉様は元木さんに。元木さんはお姉様に。会いたいと。あまりに苦しそうに思い詰めていらっしゃって」
「とにかく会いたくてたまらない。一緒にいたい。そういう気持ちを恋心という」
「お兄様が欧州にいる間。蓮様は時々、とても苦しそうでした。お兄様に会いたかったからですか」
「あいつが去って、半年もしたら。顔の記憶もおぼろになっていた。苦しそうに見えた日は、腹でも壊していたかな」
自分はこれからずっと冴のなかで、こうして冴を見守っているのか。
自分はこれからずっと冴のなかで、こうして冴を見守っているのか。
私は冴と蓮様を眺め、二人の話を聞きながら。そんなことを考えていた。
そんなことを考えていたら、彼の声がどこかから聞こえてきた。
(じきに消えてしまうかもしれないな)
蓮様の声だった。冴には聞こえないようだ。
目の前にいる蓮様の中に、私のなかにいた人の気配を感じた。
私は尋ねた。
(何が?)
少しも動じていない様子の声で、彼は云った。
(驚いたな。君は冴のなかにいる。俺はこちらの俺のなかにいる。なのにやはり君の声が聞こえる。長い時間溶け合っていた名残かな)
私はまた尋ねた。
(じきに消えるかもって、なんのこと?)
彼はあっさり云った。
(あなたのことだ)
(あなたは生きる意欲に乏しかった。最後の数年は、俺に乗っ取られて生きていた。俺はあなたといたから。まだここに居る。そんな気がする)
(ひょっとして、私、あなたに殺されたの?生気を吸い取られたとか)
(どうかな。俺が居なかったら。あなたはだいぶ前に、安らかに息を引き取っていた気がする。そう思わない?)
(何、それ)
「今日は会いたい人がお越しくださるんだ。そろそろ到着されるはずだ。俺はもう行くよ」
目の前の蓮様が立ち上がると、彼は云った。
(もう自分の名前も覚えていない。家族も恋人も仕事も覚えていない。毎日冴の生活を、ぼんやり眺めているだけ。そんな状況に、もう慣れつつある。そのままだと、近いうちに消えるよ。冴の命は強いからね)
目の前の蓮様が部屋を出ていって、声は少しずつ遠くなった。
冴が開いている窓の外を見ると、空は青く、木々の緑があまりに色濃く。蝉の声は降るようだった。冴の髪が、風になびいた。
彼の気配はもう感じない
取り残された私は、誰にともなく呟いた。
消えるのは怖いなぁ。
本日はここまでにいたしましょう。




