声
冴と冴の中の私。そしてと阿門様。三人しかいない部屋で、三人以外の声が聞こえてきたの回
何か感じるのか。
鈴が鳴ると、子猫はきょろきょろとあたりを伺う。
膝の上の子猫の額や喉を、阿門様の長く頑丈そうな指が、あやすように撫ぜた。
阿門様の子猫を見る目は温かい。同じ目で冴を見て、阿門様は尋ねた。
「おまえさん。相手が蓮なら。ふつうに夫婦になりたいか」
「蓮様は玉依姫です。姫は結婚できないと聞きました」
「役目をおりてこの家を出る。ついてきてくれ。蓮にそう云われたら。一緒にこの家を出るか」
なぜそんなことを訊くの。そんな顔で冴は云った。
「蓮様はお兄様から離れません」
阿門様は云った。
「あいつは良い女を眺めるのが好きだが。女に近づいたことはない。でもおまえは傍に置きたいようだ。ずいぶん可愛く思っているように見える」
「妹のように思ってくださっているのかもしれません。でも私を妻になど」
「妹を思う気持ちと、妻を思う気持ちに、大きな違いはない。扱いが変わるだけだ」
自分の妻になった女が、別の男を慕っている。男はその妻に慕われる男を、普通許さない。たとえその妻に関心が薄くても。
しかしこの人はそのことで、蓮様を敵視していない。
蓮様を愛しているからだろう。
けれど蓮様を慕い、蓮様が可愛がる冴を、恋敵と見ている様子もない。
人を愛する心は強そうだが、執着しない人なのかもしれない。
善い人だなと思うが、こんな人に恋をしたら、なかなか切ないかもしれない。そんな気もした。
「お兄様は。いつから蓮様を」
「あいつがおまえの家に引き取られた日。俺は親父に連れられて、おまえの家に遊びにいった。あいつと俺が十三になった年だから。おまえはまだ四つか」
「はい。転んでわぁわあ泣いていた私を、初対面の蓮様が抱きおこしたら。すぐに泣き止んだ。亡くなった母が、そう申しておりました」
「俺が最初に見たあいつは、玄関前の樫の木に登っていた。俺が見上げて目が合うと。いきなり上から林檎を放った。俺がその林檎を受け取ったら。すぐに下りてきた。向かい合ったあいつは。地味な絣の着物で、キラキラ光って見えた。こいつは俺が守らなきゃいけない。どういうわけだかそう思った」
「初恋でございますね!」
「いや。俺の初恋は、七つの年に会った芸者だ。親父に連れていかれた座敷で会った。きりっとした良い女だった。親父に惚れてたみたいでな。俺にもとても優しかった」
「芸者さんなんて。七つの子供が。嫌らしい」
「まぁ。今までに惚れた人間のなかで、俺はあいつが一番好きだけどな」
なぜだろう。
阿門様が語った、蓮様との出会いの場面。その光景を、知っているような気がした。
投げられた林檎。坊主頭の幼い阿門様の表情。
私はその場面を、鮮やかに思い浮かべることができた。まるで自分の記憶のように。
「お兄様が蓮様を大事にしてくださるなら。わたしはお二人の邪魔をいたしません。だからお兄様は、私が妻で我慢なさるべきです」
「それで俺に、一生忍耐しろと?」
「お兄様は蓮様がお好きなのですから。他の方と寝室をともにしてはいけません」
「あいつには、自害するとまで云われて拒まれた」
「どうしてでしょう」
「あいつに訊け。答えたら、俺にも教えてくれ」
「今日。蓮様に云われました。女の仕事は賃金も安く。どんな仕事についても、生涯一人で生きていくことは難しいと。女学校には、独身の女の先生がいらっしゃる。先生になればなんとかなるのかもしれませんが。女学校を出て、高師に通わせて貰えるかどうか。離婚して戻ったら。たぶんまた、父は私の結婚相手を探します。でも私、蓮様以外の方の男の方は嫌い!」
べそをかいてる腕白小僧。そんな顔で、冴は阿門様を睨んだ。
「私、離婚しませんから。蓮様がこの家にいるなら。私もこの家にいるのです!」
阿門様は子猫を膝からおろして、猿臂をのばした。冴の頭に大きな手をおいた。
「まぁ。しばらくうちにいろ。いつの傍にいたいなら。あいつと心を通わせておけ。二人で逃げる。おまえたちがそう決めるなら、そのうちなんとかしてやる」
「お兄様は、蓮様と生涯をともにするとおっしゃったではないですか」
「あいつが傍にいてくれるならそうするさ」
「なのに。蓮様が私を妻にして、逃げたいといえば。お許しになるのですか」
「そうしたいんなら。仕方がないだろう。身を引くさ」
「それでよろしいのですか!」
「よくわからん奴だな。蓮以外の男は全員嫌。蓮とずっと一緒にいたい。なら、あいつの女房になれれば、おまえさんは満足だろうが」
「私は蓮様に、幸福になってほしいのです!」
「俺だってあいつを幸福にしてやりたい!」
冴のなかで二人の会話を聞く私は、だんだん悩ましい気分になってきた。
冴にも阿門様にも蓮様にも、親しみを感じ始めている。
このおかしな三角関係には、三人の誰にとっても、良い形でおさまってほしい。
がしかし、どうおさまるのが良いのか。まるでわからない。
三人はどうなるべきか。
全く悩ましい。
(あなたの世界では。阿門と冴が結ばれて、あなたの父親が生まれるんだ)
その声は、突然聞こえた。
男の声だが、阿門様の声ではない。しかしこの部屋に、阿門様以外の男はいない。
冴にも阿門様にも、その声は聞こえないようだ。
(俺はあなたの世界で、「蓮」と呼ばれていた。あなたの祖父母になった阿門と冴と出会い、あちらのこの家で、玉依姫を務めて死んだ)
その声は、蓮様の声に、似ているような気がした。
混乱した私は呟いた。
(あの二人が、私の祖父母?)
蓮様に似た声は云った。
(震災で死んでからも。俺は二人から離れたくなくて。ずっと二人の傍にいた)
(震災?関東大震災?)
(そう。二人が死んだら、俺のところに来てくれると。そう思っていたのだが。どちらも死んだら、どこかに行ってしまった。俺は二人を探して彷徨った)
(二人を?)
(そのうち、生きている人間のなかに、入りこみやすい人がいると気づいた)
(入る?)
(あなたのなかには、楽々入ることができた)
(あなた、ずっと私のなかにいたの?)
(十歳頃からずっとね。入って十年もしたら、あなたを動かすことができるようになった)
(私を操っていたの?)
(あなたはまるで気づかなかった)
(私を動かして、何をしたの?)
(生きている人の世界では、亡者はあまり自由に動けない。でも生きている人間の中に入って、その人を動かせば、どこにでも行ける。二人を探すために、あなたの体が必要だった)
なぜこんなところに来たのか。旅行の最中、そんなふうに思うことが何度かあった。そんな記憶が蘇ってきた。
あの旅行は、この「蓮様」に動かされたものだったのか。
(私の世界と、云ったわね。ここはどこ?私の世界の過去、私の祖父母が若かった、明治時代の日本じゃないってこと?)
(世界は一つではない。無数の可能性。無数の時の流れがある。別世界の明治時代だ)
(タイムスリップじゃなくて、パラレルワールド?)
(あなたが読んだ本では、その言葉で表現されている真実だ)
(今までずっと沈黙を守っていたのに。なぜいきなり声をかけてきたんですか)
(あなたが生きているとき、俺の声はずっと届かなかった。そういうものだろうと思っていた。声をかけたら届いたことに、俺も今驚いている)
本日はここまでにいたしましょう。




