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薔薇と百合  作者: 黒澤 白
幽霊

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14/18

声

冴と冴の中の私。そしてと阿門様。三人しかいない部屋で、三人以外の声が聞こえてきたの回

 何か感じるのか。

 鈴が鳴ると、子猫はきょろきょろとあたりを伺う。

 膝の上の子猫の額や喉を、阿門様の長く頑丈そうな指が、あやすように撫ぜた。

 阿門様の子猫を見る目は温かい。同じ目で冴を見て、阿門様は尋ねた。

「おまえさん。相手が蓮なら。ふつうに夫婦になりたいか」

「蓮様は玉依姫です。姫は結婚できないと聞きました」

「役目をおりてこの家を出る。ついてきてくれ。蓮にそう云われたら。一緒にこの家を出るか」

 なぜそんなことを訊くの。そんな顔で冴は云った。

「蓮様はお兄様から離れません」

 阿門様は云った。

「あいつは良い女を眺めるのが好きだが。女に近づいたことはない。でもおまえは傍に置きたいようだ。ずいぶん可愛く思っているように見える」

「妹のように思ってくださっているのかもしれません。でも私を妻になど」

「妹を思う気持ちと、妻を思う気持ちに、大きな違いはない。扱いが変わるだけだ」


 自分の妻になった女が、別の男を慕っている。男はその妻に慕われる男を、普通許さない。たとえその妻に関心が薄くても。

 しかしこの人はそのことで、蓮様を敵視していない。

 蓮様を愛しているからだろう。

 けれど蓮様を慕い、蓮様が可愛がる冴を、恋敵と見ている様子もない。

 人を愛する心は強そうだが、執着しない人なのかもしれない。

 善い人だなと思うが、こんな人に恋をしたら、なかなか切ないかもしれない。そんな気もした。


「お兄様は。いつから蓮様を」

「あいつがおまえの家に引き取られた日。俺は親父に連れられて、おまえの家に遊びにいった。あいつと俺が十三になった年だから。おまえはまだ四つか」 

「はい。転んでわぁわあ泣いていた私を、初対面の蓮様が抱きおこしたら。すぐに泣き止んだ。亡くなった母が、そう申しておりました」

「俺が最初に見たあいつは、玄関前の樫の木に登っていた。俺が見上げて目が合うと。いきなり上から林檎を放った。俺がその林檎を受け取ったら。すぐに下りてきた。向かい合ったあいつは。地味な絣の着物で、キラキラ光って見えた。こいつは俺が守らなきゃいけない。どういうわけだかそう思った」

「初恋でございますね!」

「いや。俺の初恋は、七つの年に会った芸者だ。親父に連れていかれた座敷で会った。きりっとした良い女だった。親父に惚れてたみたいでな。俺にもとても優しかった」

「芸者さんなんて。七つの子供が。嫌らしい」

「まぁ。今までに惚れた人間のなかで、俺はあいつが一番好きだけどな」


 なぜだろう。

 阿門様が語った、蓮様との出会いの場面。その光景を、知っているような気がした。

 投げられた林檎。坊主頭の幼い阿門様の表情。

 私はその場面を、鮮やかに思い浮かべることができた。まるで自分の記憶のように。


「お兄様が蓮様を大事にしてくださるなら。わたしはお二人の邪魔をいたしません。だからお兄様は、私が妻で我慢なさるべきです」

「それで俺に、一生忍耐しろと?」

「お兄様は蓮様がお好きなのですから。他の方と寝室をともにしてはいけません」

「あいつには、自害するとまで云われて拒まれた」

「どうしてでしょう」

「あいつに訊け。答えたら、俺にも教えてくれ」

「今日。蓮様に云われました。女の仕事は賃金も安く。どんな仕事についても、生涯一人で生きていくことは難しいと。女学校には、独身の女の先生がいらっしゃる。先生になればなんとかなるのかもしれませんが。女学校を出て、高師に通わせて貰えるかどうか。離婚して戻ったら。たぶんまた、父は私の結婚相手を探します。でも私、蓮様以外の方の男の方は嫌い!」

 べそをかいてる腕白小僧。そんな顔で、冴は阿門様を睨んだ。

「私、離婚しませんから。蓮様がこの家にいるなら。私もこの家にいるのです!」

 阿門様は子猫を膝からおろして、猿臂をのばした。冴の頭に大きな手をおいた。

「まぁ。しばらくうちにいろ。いつの傍にいたいなら。あいつと心を通わせておけ。二人で逃げる。おまえたちがそう決めるなら、そのうちなんとかしてやる」

「お兄様は、蓮様と生涯をともにするとおっしゃったではないですか」

「あいつが傍にいてくれるならそうするさ」

「なのに。蓮様が私を妻にして、逃げたいといえば。お許しになるのですか」

「そうしたいんなら。仕方がないだろう。身を引くさ」

「それでよろしいのですか!」

「よくわからん奴だな。蓮以外の男は全員嫌。蓮とずっと一緒にいたい。なら、あいつの女房になれれば、おまえさんは満足だろうが」

「私は蓮様に、幸福になってほしいのです!」

「俺だってあいつを幸福にしてやりたい!」


 冴のなかで二人の会話を聞く私は、だんだん悩ましい気分になってきた。

 冴にも阿門様にも蓮様にも、親しみを感じ始めている。

 このおかしな三角関係には、三人の誰にとっても、良い形でおさまってほしい。

 がしかし、どうおさまるのが良いのか。まるでわからない。

 三人はどうなるべきか。

 全く悩ましい。


(あなたの世界では。阿門と冴が結ばれて、あなたの父親が生まれるんだ)

 

 その声は、突然聞こえた。

 男の声だが、阿門様の声ではない。しかしこの部屋に、阿門様以外の男はいない。

 冴にも阿門様にも、その声は聞こえないようだ。

 

 (俺はあなたの世界で、「蓮」と呼ばれていた。あなたの祖父母になった阿門と冴と出会い、あちらのこの家で、玉依姫を務めて死んだ)

 その声は、蓮様の声に、似ているような気がした。


 混乱した私は呟いた。

(あの二人が、私の祖父母?)

 蓮様に似た声は云った。

(震災で死んでからも。俺は二人から離れたくなくて。ずっと二人の傍にいた)


(震災?関東大震災?)

(そう。二人が死んだら、俺のところに来てくれると。そう思っていたのだが。どちらも死んだら、どこかに行ってしまった。俺は二人を探して彷徨った(さまよった))

(二人を?)

(そのうち、生きている人間のなかに、入りこみやすい人がいると気づいた)

(入る?)

(あなたのなかには、楽々入ることができた)

(あなた、ずっと私のなかにいたの?)

(十歳頃からずっとね。入って十年もしたら、あなたを動かすことができるようになった)

(私を操っていたの?)

(あなたはまるで気づかなかった)

(私を動かして、何をしたの?)

(生きている人の世界では、亡者はあまり自由に動けない。でも生きている人間の中に入って、その人を動かせば、どこにでも行ける。二人を探すために、あなたの体が必要だった)

 なぜこんなところに来たのか。旅行の最中、そんなふうに思うことが何度かあった。そんな記憶が蘇ってきた。

 あの旅行は、この「蓮様」に動かされたものだったのか。


(私の世界と、云ったわね。ここはどこ?私の世界の過去、私の祖父母が若かった、明治時代の日本じゃないってこと?)

(世界は一つではない。無数の可能性。無数の時の流れがある。別世界の明治時代だ)

(タイムスリップじゃなくて、パラレルワールド?)

(あなたが読んだ本では、その言葉で表現されている真実だ)

(今までずっと沈黙を守っていたのに。なぜいきなり声をかけてきたんですか)

(あなたが生きているとき、俺の声はずっと届かなかった。そういうものだろうと思っていた。声をかけたら届いたことに、俺も今驚いている)

本日はここまでにいたしましょう。

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