猫と御堂
明治終幕の夕方、蓮様は御堂に籠り、阿門様と冴は子猫をじゃらしながら御堂を見守るの回。
蓮實家から戻った三人が、宗形家の車寄せで馬車を下りると、執事の藤田氏が、頭を下げて出迎えた。
蓮様が尋ねた。
「阿門は戻ったか?」
藤田さんは云った。
「姫様の御居間におられます」
蓮様は冴を振り返って云った。
「今日はね。このあと禊をして、御堂に籠らないといけないんだ」
蓮様を追いかけようとした冴を、虎太くんが引き留め、小声で訴えた。
「うちの女たちは、お二人の寝室を好奇心満々で掃除していますが。疑わしい様子は見つからないようです」
「おまえ。いきなり何を云うの?」
戸惑う冴に、生真面目な顔で主張する。
「お二人はこの家特有の特別な関係にある、絆の強い親友同士だと。俺はそう思ってます。若様は良い人です。奥様が安心して添いとげられる方です」
冴の阿門様への反感は、蓮様と阿門様の関係をよく思っていないからだと。虎太くんはそう思ったらしい。
冴は虎太くんの顔をまじまじと見た。
気難しい顔で云った。
「蓮様は、銀時計をもってらっしゃるの。お兄様と交換なさったものなの」
「若様とおそろいの奴ですか」
「あれにはね。羅甸語で、『エウレカ』と彫ってあるの。お兄様が二つの時計に彫らせたの。見つけたという意味の言葉よ」
虎くんは戸惑った顔で云った。
「銀時計でなくて指輪の交換なら。まるでほんとの伴侶ですね」
冴は息をついた。
「私。あの時計を見た時は。ちょっとお兄様が好きになったのに」
蓮様に置いていかれた冴は、まず自室に向かった。
玄関ホールでメイドのカノさんを見つけて、声をかける。
「着替えたいから。お湯と手ぬぐいを持ってきて」
自室に運ばれてきたお湯で体を拭くと、肩と腕が出る、緑のドレスに着替えた。朝食の席で着用していたものである。
着替えているとき、カノさんにぼやいていた。
「着物もたまには良いけど。今日は暑くて。汗をたくさんかいてしまったわ」
汗が気持ち悪くとも、気軽にシャワーを使えない。私は自宅のささやかな浴室を懐かしんだ。
冴は阿門様と話したいようだった。身支度を終えて自室を出ると、阿門様がいると聞いた場所へと向かった。刺繍が美しい室内履きの足取りは少年のように軽く、緑のドレスのスカートが勢いよく動いた。
「お帰りなさいませ」
階段を上がってきた滝野さんが、冴に批難の目を向けた。この家の奥様らしくない御振舞。その目はそう注意していた。
「ただいま」
そんな視線を気にする様子もなく、階段を駆け下りると。玄関ホールから渡り廊下に向かう。冴は足早に日本館へと向かった。
日本館は、玉依姫と男たちのための建物だ。
玉依姫のための部屋は、客の話を聞くあの部屋、阿門様と共有している居間と寝室。そして御祈祷をあげるための、中庭に建つ御堂。
当主の寝室と居間もこちらにある。
住み込みで働く男の使用人たちの部屋も、日本館にあるようだ。住み込みの女たちの部屋は、滝野さんが管理する離れに集められているらしい。
「失礼いたします。お兄様」
冴はそんな日本館の西の奥。玉依姫の居間の襖を開けた。
居間には阿門様が一人。浴衣姿で畳に寝転がっている。片手で猫をじゃらしながら、英語の本を読んでいらした。
阿門様の大きな手にじゃれついている黒猫は、まだ小さくて愛らしかった。
冴が声をあげた。
「まぁ子猫!」
「今朝庭で見つけた。親からはぐれたようだ」
「ではこの家の子にいたしましょう」
「そのつもりだ。縁側に置いた砂の箱を便所にすることも、もう覚えた。なかなか賢い」
本を読みながら説明する阿門様の手元の子猫を、冴はそっと抱き上げた。
「うちのスズは、今年の春に逝ってしまいました」
「スズは今年逝ったのか。まぁ。あれはずいぶん生きた。おまえさんちで、大切にされてたからだ」
「まぁ。小さい。まぁ、良い子だこと。別嬪ちゃんですねぇ」
「猫好きのようだな」
「猫も犬も馬も好きです。公爵も大好き。この子のお名前は?」
「黒いからクロ。でなきゃ、チビだな」
「もっと良い名前をつけてあげてください」
「じゃあ。黒姫だ」
「姫!そうねぇ。おまえも姫様にしましょう」
阿門様は体をおこし、冴に尋ねた。
「シトロンでも持ってこさせるか」
「麦茶のほうが」
阿門様の傍に腰をおろして、冴がそう応えた。
阿門様は立ち上がり、廊下に顔を出して声をあげた。
「氷の入ったグラス一つと、ビスケットでも持ってこいや」
すぐに虎太くんの声が、廊下に響いた。
「ただいま参ります」
阿門様が寝転がっていた場所の近くに、お盆があった。白い土瓶と氷の入ったグラスが一つ、のせられていた。
冴は子猫を膝のうえにおき、そちらを見て尋ねた。
「土瓶の中身は麦茶でございますか?」
阿門様は寝転がっていた場所へと戻った。胡坐をかいて、ニッと笑った。
「ビールでも飲みたい時刻だが。今日は飲めない」
笑うと、迫力があり過ぎる若い男の顔が、愛嬌のあるヤンチャな少年の顔に変化する。
私も冴と同じく、蓮様に惹かれる。でも交際する相手には、この人を選ぶ女の方が多いだろう。その顔を見て、ふとそう思った。
子猫は阿門様に、すでに懐いてしまったらしい。冴の膝のうえから下りて、阿門様のほうへと、テトテト歩いてゆく。
振られても、可愛くてたまらない。冴はそんな顔で猫を見て、阿門様に尋ねた。
「お酒を慎まれますのは、陛下がご危篤だからですか?」
近づいてきた子猫を膝に抱き上げ、阿門様は云った。
「あの方には子供の頃、一度お目にかかっただけだ。亡くなってもおられないのに、身を慎むような間柄じゃない」
「じゃあ、どうして?」
「蓮に呼ばれたときのためだ」
「蓮様はもう御堂のなかに?」
「ついさっきあそこに籠った」
「あそこで蓮様は今日、何をなさいますの」
「今上とともに去ってゆくものを、見送るとか云ったな」
「去ってゆくもの?」
「蓮の説明は聞いたが。俺にはよくわからん」
「いつまでそんなことを?」
「今日は出てこれないだろうとさ」
「御夕飯もあのなかで?」
「夜は断食だそうだ」
「お兄様はここに待機。そういうご指示ですの?」
「お申し付けはございませんヨ。心配だからここにいるだけだ」
「心配とは?何か気掛かりなことがございますの?」
「朝の祈祷くらいの時間なら心配ないようだが。あそこに半日も籠るとなるとな。どうも気になる」
虎太くんが阿門様ご注文の品を運んでくる。
冴は自分の前に置かれた御膳から麦茶のグラスをとり、一口飲んだ。
虎太くんが下がると、中庭を見た。
縁側に下がる簾の向こうに、御堂が見える。
五角形の建物で、なかは六畳程度の広さと思われる。高さは日本館そのものと同じくらいある。
上のほうに外部の光をとる小さな窓が五つ。
扉を閉めると、昼でもなかは暗そうだ。
眺めていると、おかしな気分になった。怖いような、吸いこまれていくような。
そんな建物から、突然鈴の音が聞こえてきた。
その鈴の音に、私と冴の神経が震えた。
「あの鈴の音は?」
「神楽舞で使う鈴だ。蓮が舞っているのかな」
「外から中を、見ることはできませんの?」
「蓮の舞が見たいか」
「はい」
「残念ながら、外から中を見ることはできない」
「あそこ、電気は通ってますの?」
「通ってない。蝋燭を持ち込まないと、昼でも暗い」
「なかには何がありますの?」
「何もない」
「何も?」
「そうだ。何もない板の間だ」
「お兄様と蓮様は、ご祝言のとき。三晩、あそこでお過ごしになったと聞きました」
「そういう決まりだからな。布団を二組敷いて、あそこで蓮と眠ったさ」
「決まり」
「あいつは刀を持ってた。触れたら喉を突く。そう脅されたからな。枕を並べて眠っただけだぞ」
阿門様の膝の上の子猫が、阿門様の顔を見上げて、小さな声を上げた。
本日はここまでにいたしましょう。




