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薔薇と百合  作者: 黒澤 白
幽霊

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13/18

猫と御堂

明治終幕の夕方、蓮様は御堂に籠り、阿門様と冴は子猫をじゃらしながら御堂を見守るの回。

 蓮實家から戻った三人が、宗形家の車寄せで馬車を下りると、執事の藤田氏が、頭を下げて出迎えた。

 蓮様が尋ねた。

「阿門は戻ったか?」

 藤田さんは云った。

「姫様の御居間におられます」

 蓮様は冴を振り返って云った。

「今日はね。このあと禊をして、御堂に籠らないといけないんだ」


 蓮様を追いかけようとした冴を、虎太くんが引き留め、小声で訴えた。

「うちの女たちは、お二人の寝室を好奇心満々で掃除していますが。疑わしい様子は見つからないようです」

「おまえ。いきなり何を云うの?」

 戸惑う冴に、生真面目な顔で主張する。

「お二人はこの家特有の特別な関係にある、絆の強い親友同士だと。俺はそう思ってます。若様は良い人です。奥様が安心して添いとげられる方です」

 冴の阿門様への反感は、蓮様と阿門様の関係をよく思っていないからだと。虎太くんはそう思ったらしい。

 冴は虎太くんの顔をまじまじと見た。

 気難しい顔で云った。

「蓮様は、銀時計をもってらっしゃるの。お兄様と交換なさったものなの」

「若様とおそろいの奴ですか」

「あれにはね。羅甸語《ラテンゴ》で、『エウレカ』と彫ってあるの。お兄様が二つの時計に彫らせたの。見つけたという意味の言葉よ」

 虎くんは戸惑った顔で云った。

「銀時計でなくて指輪の交換なら。まるでほんとの伴侶ですね」

 冴は息をついた。

「私。あの時計を見た時は。ちょっとお兄様が好きになったのに」


 蓮様に置いていかれた冴は、まず自室に向かった。

 玄関ホールでメイドのカノさんを見つけて、声をかける。

「着替えたいから。お湯と手ぬぐいを持ってきて」

 自室に運ばれてきたお湯で体を拭くと、肩と腕が出る、緑のドレスに着替えた。朝食の席で着用していたものである。

 着替えているとき、カノさんにぼやいていた。

「着物もたまには良いけど。今日は暑くて。汗をたくさんかいてしまったわ」

 汗が気持ち悪くとも、気軽にシャワーを使えない。私は自宅のささやかな浴室を懐かしんだ。


 冴は阿門様と話したいようだった。身支度を終えて自室を出ると、阿門様がいると聞いた場所へと向かった。刺繍が美しい室内履きの足取りは少年のように軽く、緑のドレスのスカートが勢いよく動いた。

「お帰りなさいませ」

 階段を上がってきた滝野さんが、冴に批難の目を向けた。この家の奥様らしくない御振舞。その目はそう注意していた。

「ただいま」

 そんな視線を気にする様子もなく、階段を駆け下りると。玄関ホールから渡り廊下に向かう。冴は足早に日本館へと向かった。


 日本館は、玉依姫と男たちのための建物だ。

 玉依姫のための部屋は、客の話を聞くあの部屋、阿門様と共有している居間と寝室。そして御祈祷をあげるための、中庭に建つ御堂。

 当主の寝室と居間もこちらにある。

 住み込みで働く男の使用人たちの部屋も、日本館にあるようだ。住み込みの女たちの部屋は、滝野さんが管理する離れに集められているらしい。

「失礼いたします。お兄様」

 冴はそんな日本館の西の奥。玉依姫の居間の襖を開けた。

 居間には阿門様が一人。浴衣姿で畳に寝転がっている。片手で猫をじゃらしながら、英語の本を読んでいらした。


 阿門様の大きな手にじゃれついている黒猫は、まだ小さくて愛らしかった。

 冴が声をあげた。

「まぁ子猫!」

「今朝庭で見つけた。親からはぐれたようだ」

「ではこの家の子にいたしましょう」

「そのつもりだ。縁側に置いた砂の箱を便所にすることも、もう覚えた。なかなか賢い」

 本を読みながら説明する阿門様の手元の子猫を、冴はそっと抱き上げた。

「うちのスズは、今年の春に逝ってしまいました」

「スズは今年逝ったのか。まぁ。あれはずいぶん生きた。おまえさんちで、大切にされてたからだ」

「まぁ。小さい。まぁ、良い子だこと。別嬪ちゃんですねぇ」

「猫好きのようだな」

「猫も犬も馬も好きです。公爵も大好き。この子のお名前は?」

「黒いからクロ。でなきゃ、チビだな」

「もっと良い名前をつけてあげてください」

「じゃあ。黒姫だ」

「姫!そうねぇ。おまえも姫様にしましょう」


 阿門様は体をおこし、冴に尋ねた。

「シトロンでも持ってこさせるか」

「麦茶のほうが」

 阿門様の傍に腰をおろして、冴がそう応えた。

 阿門様は立ち上がり、廊下に顔を出して声をあげた。

「氷の入ったグラス一つと、ビスケットでも持ってこいや」

 すぐに虎太くんの声が、廊下に響いた。

「ただいま参ります」

 阿門様が寝転がっていた場所の近くに、お盆があった。白い土瓶と氷の入ったグラスが一つ、のせられていた。

 冴は子猫を膝のうえにおき、そちらを見て尋ねた。

「土瓶の中身は麦茶でございますか?」

 阿門様は寝転がっていた場所へと戻った。胡坐をかいて、ニッと笑った。

「ビールでも飲みたい時刻だが。今日は飲めない」

 笑うと、迫力があり過ぎる若い男の顔が、愛嬌のあるヤンチャな少年の顔に変化する。

 私も冴と同じく、蓮様に惹かれる。でも交際する相手には、この人を選ぶ女の方が多いだろう。その顔を見て、ふとそう思った。


 子猫は阿門様に、すでに懐いてしまったらしい。冴の膝のうえから下りて、阿門様のほうへと、テトテト歩いてゆく。

 振られても、可愛くてたまらない。冴はそんな顔で猫を見て、阿門様に尋ねた。

「お酒を慎まれますのは、陛下がご危篤だからですか?」

 近づいてきた子猫を膝に抱き上げ、阿門様は云った。

「あの方には子供の頃、一度お目にかかっただけだ。亡くなってもおられないのに、身を慎むような間柄じゃない」

「じゃあ、どうして?」

「蓮に呼ばれたときのためだ」

「蓮様はもう御堂のなかに?」

「ついさっきあそこに籠った」

「あそこで蓮様は今日、何をなさいますの」

「今上とともに去ってゆくものを、見送るとか云ったな」

「去ってゆくもの?」

「蓮の説明は聞いたが。俺にはよくわからん」

「いつまでそんなことを?」

「今日は出てこれないだろうとさ」

「御夕飯もあのなかで?」

「夜は断食だそうだ」

「お兄様はここに待機。そういうご指示ですの?」

「お申し付けはございませんヨ。心配だからここにいるだけだ」

「心配とは?何か気掛かりなことがございますの?」

「朝の祈祷くらいの時間なら心配ないようだが。あそこに半日も籠るとなるとな。どうも気になる」


 虎太くんが阿門様ご注文の品を運んでくる。

 冴は自分の前に置かれた御膳から麦茶のグラスをとり、一口飲んだ。

 虎太くんが下がると、中庭を見た。

 縁側に下がる簾の向こうに、御堂が見える。

 五角形の建物で、なかは六畳程度の広さと思われる。高さは日本館そのものと同じくらいある。

 上のほうに外部の光をとる小さな窓が五つ。

 扉を閉めると、昼でもなかは暗そうだ。

 眺めていると、おかしな気分になった。怖いような、吸いこまれていくような。

 そんな建物から、突然鈴の音が聞こえてきた。

 その鈴の音に、私と冴の神経が震えた。

 

「あの鈴の音は?」

「神楽舞で使う鈴だ。蓮が舞っているのかな」

「外から中を、見ることはできませんの?」

「蓮の舞が見たいか」

「はい」

「残念ながら、外から中を見ることはできない」

「あそこ、電気は通ってますの?」

「通ってない。蝋燭を持ち込まないと、昼でも暗い」

「なかには何がありますの?」

「何もない」

「何も?」

「そうだ。何もない板の間だ」

「お兄様と蓮様は、ご祝言のとき。三晩《みばん》、あそこでお過ごしになったと聞きました」

「そういう決まりだからな。布団を二組敷いて、あそこで蓮と眠ったさ」

「決まり」

「あいつは刀を持ってた。触れたら喉を突く。そう脅されたからな。枕を並べて眠っただけだぞ」

 阿門様の膝の上の子猫が、阿門様の顔を見上げて、小さな声を上げた。



本日はここまでにいたしましょう。

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