結婚したくない娘たち
蓮實聡子様ご登場、嫁ぎ先が決まっている聡子様も、すでに戸籍上阿門様の嫁である冴も、「結婚」したくないらしいの回
明治終幕の日。
冴は蓮様とともに、「聡子お姉様」を見舞った。
聡子母に頼まれた。朝のうちに、聡子の様子を見に行ってくる。
蓮様が阿門様と冴にそう云ったとき。お供したいと、冴がお願いをした。
元木文さんが、蓮様の申し出を受けていないことを、口にしてはいけない。蓮様はそのような注意をして、冴が同行することを許した。
聡子母は洋装を好まないとかで、冴は朝食後に、御召し物を変えた。選んだのは夏の白絣に、薔薇色の地に芙蓉と蜻蛉が描かれた帯。私が思った通り、冴のからだつきには、着物も良く映える。
蓮様もまた白縞の着物と絽の羽織に着替えて、洋館の玄関先へと現れた。
私と冴は、阿門様と蓮様の並ぶ姿こそ、一番良い絵と思っているが。阿門様と冴も、逞しく颯爽とした若様に初々しく品の良い乙女で、外見ばかりは微笑ましい一対だし。蓮様と冴もまた上品な一対である。
宗形家は車を三台所有しているようだが、運転手は目下一人しかいないらしい。
この日は、その運転手が大旦那様を乗せて出かけてしまった。蓮様も冴も車は運転できないようだ。外から呼ばれた黒い車に、二人で乗りこんだ。
車種はT型フォード。この七月に開業した「タクシー会社」の車だという。執事の藤田氏が、蓮様にそう説明していた。
すでに街を走る「ハイヤー」と違い、ドイツ製のメーターがついていて、会計にごまかしがないことが、「タクシー」の売りだとか。
二人のお供は、小林虎太くん。
虎太くんはこの家に住み込み、雑用をして、中学校に通わせてもらっている。数えで十五歳とか。小柄で賢そうな、柴犬のような少年だ。
若奥様の冴が、侍女もなく他家を訪問することに、執事氏と滝野さんは反対した。
しかし訪問先は親族の家だからと、冴が主張。
蓮様が二人を宥めて、三人での出発となった。
聡子様が暮らす蓮實家は、牛込にあった。もとは旗本の御邸宅だとか。堂々たる武家屋敷だった。
虎太君は車を降りると勝手口へと連れていかれた。
蓮様と冴は、玄関に近い一室に通された。畳敷きの和室だが、畳の上に納戸色の絨毯が敷かれ、金地のソファセットが鎮座ましていた。
二人がソファに腰を下ろすと、間もなく二人の女性が現れた。
一人は年のころ四十代前半。銀鼠の着物を一分の隙なく着こなし、上手に化粧をした女性である。
「蓮様。よくいらしてくださいました」
「おばさま。私もお供させていただきました」
「ようこそ。冴さん」
この人がこの家の、女主であるらしい。
奥様の後ろから入ってきた人は、奥様よりずっと年若に見えた。
流水文様に夏の花が描かれた、浅黄色の着物をお召になっていた。
髪は冴と同じように、後ろで前髪の部分だけを結い、残りの髪は下ろした束髪崩し。艶やかな黒髪を結うのは、帯と同色の、クリーム色のリボン。
冴がその人を見て云った。
「ごきげんよう。聡子お姉様」
164cm程度の、冴と同じくらいの背丈だが。体つきは冴より女らしく見える。
冴から聞いた話では、冴より二つ年上の十八歳。髪や肌はその年相応に見えたが。私の世界なら、二十代後半でも通るかもしれない。冴よりかなり落ち着いた様子で、大人びている。
母親に似ていたが、母より非凡に美しい。花やかな顔が、やつれて見えるのが気になった。薄化粧をしているのに顔色が悪いと、はっきりわかる。目の光の強さが、病人めいていた。
冴の顔を見て、無言で泣き出した。
「聡子。お客様の前でなんですか」
母は娘の様子に困惑を見せ、静かな声でそう叱った。
蓮様が云った。
「すまないが。聡子と私たちだけにしてくれないだろうか」
奥様はためらいを見せたが。淑やかに一礼をして、部屋から出ていった。
冴は聡子様に歩み寄り、肩を抱くようにして、肘掛け椅子に座らせた。
「お加減が悪いのですか。お顔の色がずいぶん青く見えます」
「いえ。いえ」と、聡子様は首を振りながら、蓮様と向かい合う席に腰をおろした。
蓮様を見て、身を乗り出すようにして云った。
「今日。わたくしが約束の場所に行けない理由を」
蓮様は優しく云った。
「伝えた。大丈夫だ」
「怒っていましたか」
「怒ってはいなかった」
「元気ですか。最後に会ったのは三週間前です」
「元気そうだったよ」
「何度も逃げようとしたのですが。玄関にも裏玄関にも書生がいて。出してもらえませんでした」
「あなたは約束の場所に出向くことはできない。その事情は元木さんに伝えた。あなたが行っても、彼女はこない」
「いえ。いえ。文はきっと私を待っています」
「待たせないために。彼女に今の状況を伝えたかった。そうだろう」
「手紙の返事も出していない。電話にも出ない。私の意思ではないことを、知らせたかったのです」
聡子様の頬を、また涙がつたう。
聡子様と並んで腰かけていた冴が、帯に挟んだレースのハンカチをとりだして、聡子様の頬にそっとあてた。
「お姉様。宗形の家で働く人が、こちらの家で働く人から聞いたとか」
涙に光る目で、聡子様は冴を見た。烈しい眼差しだった。
「どんな話を聞いたと?」
冴はおずおずと云った。
「おばさまが、元木さんのお手紙を見て。お二人が今日に海に飛びこむ計画をたてていたとか」
聡子様は微笑んだ。
「ええ。一緒に死ぬつもりだったの」
冴はたじろいでいた。
「どうしてそんなことを」
「どうして?陛下のご病気で来年に延期になったけど。わたくしはお嫁にいかなければならないの。あの子は音楽学校に行くために働いているけれど。あんなところで。あんなに長い時間あんな曲ばかり弾いて。練習もできず。どうやって試験にのぞむの。いえ、あんな高い学費を自分で用意するなんてことは無理よ。できないことだわ。お嫁に行ったら会えなくなってしまう。あんな場所にあの子を置き去りにできる?」
聡子様は低い声で早口にまくしたてたが。涙で言葉が続かなくなった。
蓮様が云った。
「聡子。元木さんの学費は宗形家でなんとかさせよう。あなたの結婚についても。それほど嫌な相手なら、蓮實と話し合ってみよう」
聡子様は微笑んだ。
「わたくしは、結婚が嫌なのです。父にそう申したら。まともな娘は嫁に行くもの。人の男が嫌だというなら。尼寺で髪を落とし。仏の嫁にでもなれと叱られました」
壮絶に静かな声でそう仰ると、体調の悪さを訴えて立ち上がり、逃げるように応接室から出ていった。
玄関先まで二人を送りに出た母親は、助けを求めるような顔を、蓮様に向けた。
蓮様は母親に云った。
「しばらくそっとしておきなさい。蓮實に私がそう云っていたと。見張っていたほうが良いとは思うが。うるさくしてはいけない」
蓮實家は宗形家より古風がお好みか。三人の客が乗り込んだ蓮實家の車は、自動車ではなく、御者が走らせる馬車だった。
ぽくぽく走り出した馬車のなか。冴は向かい合う蓮様に云った。
「あんなに興奮したお姉様を。はじめて見ました」
蓮様が呟いた。
「嫁に行かないとすれば。あの家にずっといるしかない。親が生きているうちは良いが。兄が当主となれば。あの家の女主は兄嫁だ。肩身が狭くなるだろうに」
冴が不満そうに言った。
「お姉様なら、きっと優秀な職業婦人となることができます。家を出て下宿なされば」
「女学校の教師となって寮の舎監にでもなるならともかく。女が一人で下宿など。世間からも安っぽく見られる。とんでもない男に目をつけられて。とんでもない目にあうかもしれない。危険なことだ。」
「そんなものでしょうか」
「日露戦争後。勤め人と職業婦人は大いに増えたが。婦人に払われる給与は、概して低いと聞く。最も収入が良いという教師になっても、ほとんどの女性は結婚する。やはり先行きが不安になるのだろう。女が身を持ち崩さず。結婚もせず。家を出て、生涯一人で生きていくことが。さてできるものかな」
「元木さんやお姉様のように優れた方でも。男の方に頼らず生きていくことはできませんの?」
冴の必死の問いかけに、蓮様の隣にいた虎太くんが、不思議そうに冴を見た。
蓮様も不思議そうに冴を見た。
「冴は、いや聡子もなのかな。男に頼らずに生きていきたいのか」
べそをかく腕白小僧のような顔で、冴は訴えた。
「男の方はみなさまエバっていて。女を馬鹿にしています」
「ふむ」
蓮様は腕組みをして、優しい目で冴に先を促した。
冴は言葉を続けた。
「イヤらしいことばかりいって。体が大きくて。場所塞ぎで。とても見苦しい方もいて。意地悪な方もいて」
蓮様は云った。
「冴は男が嫌いだったのか」
虎太くんが尋ねた。
「若様もお嫌いなんですか。旦那様なのに?」
おまえは黙ってなさい。冴はそんな顔で虎太くんを睨んだが。すぐに蓮様を見て云った。
「私、蓮様以外の男の方は、みんな嫌いです!」
「直隆おじさまも?」
「父は父です」
虎太くんは阿門様贔屓か。めげずに云った。
「若様も良い男だと思うけどなあ」
冴は再び虎太くんを睨みつけてから。蓮様を見て云った。
「お兄様も嫌いです!。今朝もあんな嫌らしいことを仰って」
「まだ怒っているのか」
「お兄様が仰ったことは愛情への侮辱で、女に生まれたものへの侮辱です」
「あれは俺の意見でもあるよ」
「嘘です」
動揺した様子の冴に、蓮様は云った。
「女人にもそうした欲求があるのではないか。まともな娘はそうしたものを持たない。そう決めつけているのは、男の身勝手。あなたのようなお嬢様は、そういう知識から遠ざけられて育ち、周囲からそんな考えを擦りこまれる。結果。自分自身の体についてよく把握できないまま大人になり。そう思い込んでしまうのではないか。俺もそう考えている」
呆気にとられた顔の冴に。蓮様は苦笑した。
「俺たちは結構似たようなことを考える。阿門は正直だが。俺は事なかれ主義でめんどくさがりだから、口に出さない。違いはそこだけだ」
私はこの時、奇妙な感覚に襲われた。
走る場所の中で三人。蓮様の台詞。冴の台詞。虎太くんの台詞。こんなことが、前にもあったような気がした。
ここは私の知らない世界。三人ともこの世界で、はじめて見る人なのに。
本日はここまでにいたしましょう。




