足りぬ言葉は夫婦との間に
こんにちは、ノウミです。
たくさんの小説や素晴らしい作品がある中で、私の作品を手に取っていただきありがとうございます。
これまでに多くの作品を発表してきましたが、皆様に楽しんでいただけるよう、これからも様々な物語をお届けしていきます。
皆様に「読んでよかった」と感じていただけるよう、
一層精進してまいります。
どうぞ、これからもご期待ください。
夫婦とは何とも言い難い関係だろうか。
ある種の契約のように強い鎖として二人を結びつけることもあれば、吹けば千切れそうな紐のように緩く繋がるだけの事もある。
生きて来た互いの時間がある日を境に交わり、同じ時を共に刻み込んでいくようになる。
そんな関係を明確に示したのが、結婚だろうか。
そんな事を考え始めたのが、彼女と夫婦の関係になってから5年目を迎えようとしていた頃だった。
「誠さん、今日の帰りは?」
「ごめん静香さん、飲み会だから遅いと思う」
「わかったわ、私も友人と済ましてくるね」
「うん、わかったよ」
最低限の会話で二人は部屋を出ていく。
共働きである事には違いはないが、マンションを出て僕は左に、妻は右に向かって歩いていく。
それぞれバスと電車にと、利用する交通機関が異なるためここで別れていた。こうなれば、次に顔を合わせるのは翌日の朝になる。
おそらく家に帰ればもう寝ている事だろう。
昔はもっと色んな事を話し合っていた気がするが、いつの間にか会話も少なくなっていた。
妻が今何を考え、何を想っているのか。
想像することすらも出来ないほどに。
いや、想像しようとすらしていない。
今日もまた、いつも通りのデスクワークに追われる日々に、忙しい事を言い訳に逃げ続けている。
そんな事に気付かないほどに、僕たちの関係は変わってしまっていた。
「佐伯さん、お疲れ様です!」
「おぉ宮下、元気だな」
「そりゃそうですよ、これから飲み会ですからね」
「そんなに元気ならまだ仕事できるな?」
「ちょっと佐伯さん、そりゃないですよ!」
「はははっ、冗談だよ。行こうか」
「本当に冗談ですよね」
少しだけ不安そうな部下の一人、宮下を横目にパソコンを閉じて支度を整える。
今日は少しだけ早く帰ってみようかな、そんな事を考えない訳ではないが、気が付けばいつも日付は変わっていた。
家に帰って玄関を開けると、いつもと変わらない暗がりが僕を迎えてくれていた。
掻き消えるような声で「ただいま」と呟き、寝ている妻を起こさぬようにゆっくりと部屋の中へと入っていく。
そういえば明日は休みだが、妻はどうだろうか。
互いにカレンダー通りに休める仕事ではないため、たまに一緒になることがある。
休みならたまには、何処かへ行こうか。
そんな事を考えながら風呂に入り、寝室へと向かっていく。
寝室の扉を開けると静かな寝息が聞こえていた。
妻を起こすことなく済ませられたらしい。
同じベッドで寝るのは、結婚以来ずっと変わっていない。
喧嘩をしたり、険悪な雰囲気になったとしてもお互いに同じベットに入り就寝についていた。
妻には言えてないが、それが僕は好きだった。
僕が傍にいることを許されている気がして。
(おやすみ、静香さん)
心の中で、何もない一日の終わりに告げる。
翌朝、差し込む朝日と共に目が覚めた僕は、隣に視線をやると妻が既に居なかったことに気がつく。
どうやら今日も仕事なのかと、肩透かしを食らったような気持ちを抱えながらベッドから降り、スリッパに足を滑らせながらリビングに向かう。
「あら、早かったわね。おはよう」
「お、おはよう」
寝起きの眼をこすりながら、リビングに居座る妻に視線を落とす。
朝のニュースを見ながら朝食のパンを手に、優しく微笑んでくれていた。
「誠さんも食べる?」
「あ、あぁ。ありがとう」
そうして食べかけのパンを皿に置き直し、キッチンへと歩いていった。
僕は向かいの席へと腰掛け、テレビのニュースへと向き直す。
『昨日未明、王帝高校の生徒約、300人が一切の消息が不明となり、連絡がつかない状況が続いております。現在、関係各所は…』
「何か凄いニュースね」
「これ?昨日からアプリのニュースもずっと同じだからな」
鼻をくすぐる甘いスープの香りは、僕の好きなコーンスープだった。すっかり寒くなった朝には最適でマグを手に取り、ゆっくりと体に注ぐ。
一緒に用意されたパンも温められており、一日の始まりとしては心も温まる。
食事を堪能した後、妻に声をかけようとするが、思った以上に声が出にくく、言葉が失われたようで、簡単な事の筈なのに僕には高いハードルが目の前に現れたようで。
「ん、どうかした?」
「あの…さ」
続く言葉に詰まりそうになるが、それを押し出そうと鼓動が苦しいほどの高鳴りを見せる。
「…仕事は休み?」
「うん、珍しく二連休」
「あのさ急なんだけど旅行行かない?」
僕もたまたま二連休だった。
言うなら今しかない気がする。
「ほら、ここなんてどうかな?」
「今から旅行?」
「そ、そう…たまにはどうかなって」
流れる沈黙が胸を締め付けそうになり、視点が定まらなくなるほどに何処を見て良いのか分からずに騒がしく動き続けていた。
飲み込む息もなく、続く言葉を待ち続ける。
「いいんじゃない。なら、準備しないとね」
「あ、あぁ」
そう言いながら妻は席を立ち、自室に戻っていった。
まともに顔を見れなかったが、笑っていたよな。
ここ最近はまともに顔を合わせた記憶もなく、それどころか笑顔を思い出すことすら出来ずに、向けられた表情に感情が読めなかった。
驚いたような。
少し戸惑っているような。
楽しみにしているような。
嬉しいような。
タイミングを間違えたのだろうか、場所が良くなかったのだろうか。僕の出した言葉に自信が持てなく、不安が募り今直ぐに撤回したくなる。
「ほら、誠さんも早く準備しなきゃ」
「あ、ごめんごめん」
「車で行く?電車で行く?」
「ゆっくり電車でもどうかな」
「うん、分かった」
積み重なりつつある選択に少しだけ重みを感じそうになるが、今は妻よりも早くに支度を整えなければならない。
僕はスマホを片手に旅行の予約サイトから、妻に見せた旅館の当日予約を済ませていく。温泉も食事も評判との事なので、妻を労う意味も込めて少し豪華にしておきたい。
そうして予約を完了させ、朝食の洗い物を済ました後に、スーツケースに荷物をまとめていく。
「一緒にいれてもいい?」
「もちろん」
一つのスーツケースに僕と妻の荷物が詰め込まれ、不安も一緒に入れたくなるがそれは出来ない。
自分で抱える荷物として、胸に押し込む。
「ごめん、お待たせ。行こうか」
そう言いながら、玄関で待っていた僕の瞳に妻の姿が映っていた。
久しく見ていなかった、仕事着でもなく部屋着でもないその姿に恥ずかしながらも心が揺れ動く。
大人らしい美しさの中に、可憐な花の可愛らしさを器用に混ぜ込んだような、うまく調和がとれた出で立ちだと思う。
まるでー。庭園に咲く一輪の蓮の花のように。
「どうしたの?」
「あのさ、いつも……いや。何でもない」
「どうしたの急に、何かあるの?」
「本当になんでもないよ。い、行こうか」
「そう?」
言葉に出すのが途端に恥ずかしくなり、思わず目を背けながら扉を開ける。
そうして最寄りの駅から目的の駅まで電車に揺られながら、外に移り変わる景色を眺めつつ簡単な会話だけが続き、旅は始まっていった。
駅に着いた頃、時刻は昼頃を少し過ぎた頃だった。陽向は少し暖かく、日陰に入れば肌寒く感じるような季節に、これから訪れる温泉旅館に少しだけ気持ちがはやりそうになる。
どうやら、それは妻も同じらしい。
「ご飯食べて、早く旅館に行こうか」
「近くにおいしい海鮮丼屋さんがあるみたいなんだよ、そこに行こうよ」
「案内してね」
「うん、こっちみたい」
手に握ったスマホのナビを頼りに、スーツケースを転がしながら海鮮丼屋さんを目指す。
ネットの口コミでもそれなりの評判をいただいているお店らしく、行きの車内で調べ尽くした甲斐があった。
「ここ…みたいだね」
「ん、やってるの?」
「はずなんだけど…」
立ち止まったお店の前には看板も旗も何も出ておらず、古風な日本家屋が扉を閉めながら佇んでいた。
焦ってもう一度調べなおしてみると、本日が臨時休業となっている表記を見つけてしまった。
「らしいね、貼り紙があったよ」
妻の指さす先には、〝本日臨時休業〟の文字が。
「そんな…ごめん」
「いいよいいよ、仕方ないじゃん」
そう言いながら妻もスマホを取り出して、周囲に何かないか探し始めてくれていた。
「お二人さんもしかしてここ目当てか?」
後ろからこの地域に住んでいるのか、旅行者らしからぬ姿のお婆さんが声をかけてきた。
「そうなんです、臨時休業みたいですね」
「仕方ないね、ここはたまにあるからね〜」
そう言いながらも、妻はお婆さんと楽しそうに会話を続けていた。その横目に僕は、気持ちを焦らせながらも指を動かし続け、ご飯屋さんを探し続ける。
「……さん」
「は、はい!」
「誠さん、話聞いてました?」
「すみません、スマホに集中してて」
「美味しいご飯屋さん、この近くにあるって」
「へっ?」
ふとお婆さんの方へと目をやると、優しく笑いかけながらそのお店までの道を教えてくれていた。
妻に腕を引っ張られるようにして、案内された道を歩き続けていった。
お店の名前を聞いていたので、道中スマホで調べてみたが大した情報は得られず、口コミ等も無いに等しい。
どうせならそんな所ではなく…。
と、僕の考えも虚しく目的地には着いた。
「ここみたいね?」
「営業はしているみたいだね」
そうして飲食店というよりかは、古民家と言うのが似合いそうな建物に到着した。
看板は出ており、お店の名前も聞いてたものと一致するので間違いはなさそうで。
「そばか、定食系みたいね。入ってみようか」
「う、うん」
店内に入ると人はおらず、静かな雰囲気が佇んでいた。
奥では老夫婦と若い男性が厨房らしい場所に立っており、こちらに気づいたのかおばあさんが優しい笑顔を向けながら、ゆっくりと席の方へと案内してくれ、メニューを机の上に並べる。
「雰囲気はいい感じ」
「確かにそうだけど…」
昼過ぎとはいえ、人のいる様子が無かった。
今の時代、調べても情報が無いのは。
と、そんな事を考えても仕方がなくここまで来たからには、別の店を探すことはできない。
半分の諦めを抱きながら、メニューへと目を落とす。
「私は蕎麦にしようかな」
「なら僕は、この魚定食かな」
そう言い合うと妻がおばあさんを呼んで注文を伝えてくれ、その側で不安を流し込むように水を口につけながら、ゆっくりと注ぎ入れる。
蕎麦にしても鮭定食にしても、間違いは起こることは無いだろうが。
そんな事を考えていると、直ぐに食事が運ばれてきた。
鼻をくすぐる味噌と海の香がその不安を和らいでくれているようで、目の前には思った以上に色とりどりな食事が並べられた。
魚とはほっけの事らしく、気が付けば口の中に唾液が流れる。
「美味しそうね、いただきましょうよ」
「う、うん」
手渡された割り箸を手に、音を立てる。
粒立つように炊き上がった米と共に、優しく切り出したほっけの身を口に運ぶと、その旨味に先程まで抱いていた不安は消し飛んでいた。
妻も同じなのか、自然と笑みをこぼしている。
「美味しいよこのお蕎麦」
「僕のほっけもいい焼き加減だよ」
「ちょっと頂戴」
そう言いながら向かいから箸が伸びてきた。
口元に運ばれたその身は、先程と変わらない笑みを作り出している。
「本当だね、美味しい」
冷え切った体に染み渡る味噌汁もまた。
僕たちは会話をよそに食事を続け、あっという間に食べ終えてしまっていた。
「よく食べたね〜ありがとうね」
「いえいえ、本当に美味しくって」
「二人は旅行かい?」
「はい!そうなんですよ」
二人は楽しく会話を続けながら、僕は無言のままに差し出された熱いお茶をゆっくりと飲んでいた。
こんなに楽しそうな妻を見たのは久しぶりだと、落ち着いた今は感動すら感じてしまう。
「ここはご夫婦で?」
「そうよ、うるさい旦那と息子が一緒にね」
その一言に奥では二人がこちらを覗きながら、また言ってると言いたげな表情を向けたと思えば、また作業に戻っていた。
「いいお店ですね」
「長くやってることだけが取り柄だよ」
「秘訣はあるんですか?」
「そんなもんないよ、あったら何回も喧嘩せずにやってこれたわね」
「おい、お客様の迷惑だろう」
奥からご主人らしい人が体を覗き込むようにして、間を割ろうとこちらに話しかけてきた。
「良いじゃないの、ねぇ」
「楽しい話しですよ」
「なら楽しいついでにね」
「おい、もういいだろう」
「やーね、いつもこの話は恥ずかしそうに」
そう言うとご主人はそっぽを向きながら奥の方へと消えていき、おばあさんは優しい笑顔を浮かべながら話を続けた。
「毎月ね、休みの日にはこの先にある海岸線から朝陽と夕陽を二人で見るのが楽しみなのよ」
「ご主人と二人でですか?」
「そうよ、未だに恥ずかしそうに連れ出して、何を話すわけでもなくね」
「何か…良いですね」
「私は好きなのよ」
妻は何かを思ったような顔を浮かべ、それを見て微笑み続けるおばあさんは少女のように顔を赤らめていた。
暫くして会計を済まし、僕たちは店を後にする。
「思った以上に良かったね」
「うん」
時刻はチェックイン間近となり、再びスマホを取り出した僕は先導するかのように前を歩きながら、旅館を目指す。
迷うことなく、真っ直ぐと旅館に着き安堵する。
「着いたよ」
「遠かったね〜」
「チェックイン済ましてくるよ」
「わかった」
そうして入口に向かうと、旅館の人に案内されるように窓口まで付いてきてくれた。
「二名で予約の佐伯様ですね?」
「はい、そうです」
「夕食と昼食は無しの素泊まりプランで承っております、お間違いなかったでしょうか」
「へ?あ、え、いや…」
僕は慌てながらスマホへと目を落とし、予約ページを再確認していく。
たが、何度確認しても素泊まりのプラン。
またしても僕は間違えてしまった。
「どうしたの?」
覗き込む妻に、何も言い返せなかった。
どうして良いのか分からずスマホを見つめたまま、その場で立ち竦んでいると。
「すみません、プランの変更って可能ですか」
妻のその一言で我に返る。
見上げた店員さんは、変わらない笑顔を向けながら答えた。
「はい、夕食と朝食も有りのプランでしょうか」
「はいそうです」
「では、プラン内容につきまして…」
そうして何も出来ない僕を横目に、妻がやり取りを続けながら進めてくれていた。
「はい、それで大丈夫です」
「承りました、それではお部屋の鍵を…」
いつの間にか鍵を受け取った妻は、僕の手を握りながら、「行こ」その一言だけを。
何も言えずに、スマホの重みだけを感じながら僕は、機嫌が悪くなりそうな自分に嫌気をさす。
拭えない感情を他所に、案内された部屋に入ると妻が楽しそうな表情で振り返っていた。
「いい部屋だね」
海が見える高台のこのホテルは、ネットにも書いてあったオーシャンビューにふさわしい景色で出迎えてくれ、和と洋のコントラストが非日常的な演出を作り出し、出迎えてくれていた。
荷物を置いて、共に窓からの景色に時間を溶かす。
今日一日の今、この瞬間までの嫌な出来事を無かった事にするように。
「天気も晴れてて良かったね」
「確かに、いい景色」
「この後はどうする?」
「夕食まで時間があるからね…」
そう話しながらスマホを手に、周辺の情報を調べてみるが時期が悪かったのか海水浴などは期待できなく、これといったものが見つからない。
次第に焦りを覚えながら、旅行観光サイトに目を落としてみるが提案できそうなものが浮かばないでいた。
「夕陽でも見に行く?」
「え、今から?」
「それまで周辺の散策でもどうかなって」
「でも何処に行くか決めてからの方が」
「元々行き当たりばったりな計画なんだし、いいじゃんいいじゃん」
そうしてまた、僕は手を引かれる。
悩んでいたのが馬鹿らしく思えるぐらい、真っ直ぐな視線に何も言い返せなかった。
言い返すぐらいの案がないのもあるが。
そうして辺りの散策を始めてみると、歓楽街な事もあってか、様々なお店が軒を連ねている。
「ここ入ってみようよ」
「娯楽場?」
中に入るとレトロな遊戯が所狭しと置かれており、目を引くものは射的やスマートボールなど。懐かしさと目新しさが混在したような光景に、少しだけ胸が踊りそうになる。
「景品もあるんだって、やってみようよ」
そう言いながら妻は店員さんにお金を渡し、射的へと移動していった。
結果は虚しくも、全弾的外れ。
悔しそうな顔に少しだけ笑みが溢れる。
「誠さんもやってみてよ、あのぬいぐるみ可愛いから欲しいな」
そう指さすのは、台の上に吊るされたパンダのぬいぐるみだった。そこには札で五個と記されており、並べられた景品を八発中、五個後ろに落とす事が出来れば貰えるらしい。
ここは挽回するチャンスだとお金を支払い、渡されたコルクの弾を銃身に込める。
気持ちと一緒に込められた球は、定めた狙いに向かって一直線に放たれる。
が、惜しくも掠った程度で落ちはしない。
続く弾も思うようにいかない。
気が付けば全弾失ってしまい、結果は何も残らなかった。
「ご、ごめん」
「いいよいいよ、難しもんね!」
そのまま続けてスマートボールや、手裏剣投げなど様々な遊戯に身を投じるも、景品は貰えず。
唯一は、妻が獲得したこの場所の名前が入ったボールペンだけだった。
「惜しかったね」
「ごめん」
「なに、本気で落ち込んでるの?遊びじゃん」
「何か渡せたらと」
「大丈夫よ、楽しかったんだから。それよりも、次は何処行く?」
そうして隣り合う店に立ち寄るかたちで、お土産や陶磁器などなど、色々なお店を眺めながら気が付けば、夕刻に近づいていた。
「そろそろ夕陽を見に行こうよ」
「そうだね、場所はここから……」
伸ばした手に、一気に血の気が引くのを感じる。
あるはずのものが、ポケットにない。
「誠さん、どうしたの?」
手当たり次第に全てのポケットを叩いてみるが、思いとは裏腹に軽い感触のみが残る。
押し寄せる現実に呼吸が荒くなり、諦めたかのような絞り出す声しか出ず。
「スマホが……ない」
「ええっ、電話かけてみるよ」
着信音はなっているものの、どこかに振動を感じることも無く、電話に出るような気配もない。
無常にも途切れた音だけが耳に刺さり、頭の中は真っ白に塗りつぶされていく。
「順にお店を戻っていこうか」
「いや、でも。夕陽が」
「スマホ無い方が一大事でしょう、行くよ」
「いや、後からでも」
「いいから行くよ」
静香さんの言葉の通り一件、また一件と店を戻っていく。
だが返ってくるのは、一言。
「こちらにはありません」と。
肩をすぼめる僕に対し、無言のままに店を回る静香さんに申し訳ないの言葉じゃ足りない想いを抱き、最初に入った遊技台のある店に入る。
「おや、さっきのご夫婦。リベンジですかい?」
「すみません、ここにスマホは忘れていませんでしたか?」
その言葉に、辺りを見渡しながら探し始めるがそれらしきものは無かったらしく、それどころか今日は僕たちしか入ってないと。
「そうですか、また見つかれば教えて下さい」
「すまないね」
扉の閉める音が心臓を強く握るようで、顔を見る事すら出来ず、声も出せずにいた。
「お店以外はどこも行ってないよね?」
「う、うん」
「それなら旅館かな」
「あの…さ…」
諦めた言葉を吐き出そうとした瞬間、後ろの扉が再び音を立てながら開かれ、思わず振り返る。
「お二人さん、ありましたよ!」
そう言いながら先ほどの店主は、笑顔を浮かべながらスマホを片手に持ち上げていた。それは間違いなく僕のもので、飛びつくように受け取る。
「いやー、遊技台の隙間に引っ掛かっておりましてね」
「そうなんですね、すみません…」
「お二人さん、この後も楽しんで」
そう言い残し、店主は中に戻っていく。
手元に戻ってきた筈のスマホは無情にも現在の時刻を表示しており、外の暗さも相まって予定していた夕陽が過ぎ去ったことを示していた。
「良かったね、安心したよ」
「そう…だね」
「じゃあ、戻ろっか」
「う、うん」
乾ききった口の中で苦味が広がる。
崩れそうな表情を保つのに精一杯な筈で、どんな顔を浮かべているのか分からなくなっていた。
旅館に着く頃には景色が変わり影が深くなり、足元から暖かく迎えているはずの明かりが、目に染み渡る。
「夕食の懐石、楽しみだね」
その言葉に軽く頷きながら、妻の後を歩き夕食の会場へと向かっていく。
昼間とは違った静けさと、運ぶ料理の慌ただしさの間を縫うようにして畳の敷き詰められた大広間へと辿り着き、既に食事を始めていた人たちの香りがほのかに漂ってくる。
「いい匂い」
幾つか並ぶ机の一つ。
佐伯様と書かれた紙が置かれた席が目に入る。
目の前には鍋や海鮮、鉄板に小鉢が所狭しと用意されていた。
「すっごい豪華ね!」
嬉しそうにスマホを取り出し、写真を撮り始める妻を横目に重たくなった体の荷物を下ろすように、席に着く。
「見た目だけでも美味しいやつだよこれ」
妻も席についたのか、変わらず撮り続けていた。
その光景を微笑ましく見つめていた、女将と呼ぶのが似合いそうな女性の方が静かに近寄る。
「本日はありがとうございます」
「あ、こちらこそありがとうございます」
「楽しく観光できましたか?」
「はい、とても」
軽い会話を続けながらメニュー表を手に、飲み物はいかがですかと尋ねてくれた。
「私は…、ねぇ。日本酒一緒に呑まない?」
「う、うん」
「おすすめはありますか?」
「でしたら…」
そう言いながら数ある中から、有名なこの場所の地酒を一つ勧めてくれ、妻は迷うことなくそちらを注文する。
流れるような手さばきで鍋と鉄板に火を灯し、並べられた品目を丁寧に説明してくれているみたいだが、何も頭に入らずにそれらを呆然と眺めてしまう。
次第に目の前から立ち込める香り、それはお腹が空いたはずの腹部の奥へと激しく襲いかかってくるが、体と気持ちが切り離されたような違和感を覚える。
お腹が空いてるはずなのに、食欲はない。
箸でつまめるそれは、何のために運ばれるのか。
目の前の妻は変わらず満面の笑みを浮かべながら、幸せそうに食事を続けていた。
全く別のものを口にしているかのように。
暫くして運ばれる日本酒にお猪口は二つ。
嬉しそうに注ぐ妻を目の前に、今日一日の出来事を全て無かったことにしようと、洗い流す。
たった一杯の日本酒に、咲き上がる薫りを感じ。
すすむ酒と食事は、次第に意識を削いでいく。
「もう顔真っ赤ね、大丈夫?」
心配そうに覗き込む妻。
食事はまだ残され、日本酒も半分ほど。
「美味しすぎて呑み過ぎちゃった?」
こんな少しのお酒で酔った記憶はないが、良くない気分を塗り潰すように気持ちは変わり始める。
煩く鳴り響く心臓の音。
熱を帯びたような対応。
朧気になる視界。
そして、抑えきれない言葉の数々。
「……ごめん」
「ん?どうしたの」
「ごめん」
「なにが?」
「今日のこと、ごめん」
「何を今さら、気にしなくていいよ〜」
「本当にごめん」
「どうしたの急に、本気で酔ったんじゃ」
「あのさ、なんで…」
続く言葉だけは、我慢しようと堪える。
でも、妻の一言に決壊してしまった。
「私、何かしちゃったかな?」
「なんで怒らないんだよ君は!」
思わず出てしまった強い言葉。
妻を責めているようで、自身を蝕む言葉。
「ちょ、酔いすぎ。声大きいよ」
「ご、ごめん」
「どうしたの急に、朝から変よ」
「そうやってまた君は…」
怒られることも、呆れることもない。
責められることだって、何も。
結婚してからずっとそうだった、僕が何かをしでかす度に妻には謝っていた。そんな関係が続き、いつしか言いようのない距離感を感じるようになってしまっていた。
悪いことをしたなら怒ればいい、どうしょうもないなら呆れる事だってある、責められるような事ばかりをしてきた。
その自負はある。
だからこそ、だからこそ。
「私が何かした?」
「何もしてないよ」
「何もしてないのに、そんな感じにはならないよ」
「本当に、君は何もしてないから」
何もしてないから…。
最後の一杯を煽るようにして、呑みきる。
「ごめん、部屋に戻るよ」
去り際に残した言葉。
それは妻の表情を見たことがないぐらいに、歪ませてしまっていた。
それに気づいていたが、体を振り向く。
ざわつく周りの声に、視線。
僕は…逃げるようにして大広間を後にした。
頭を鈍く打ち付けられたような痛みと共に目が覚め、見上げた天井は見覚えがありそうでない場所だった。
暗がりの中、鉛のように重たい体を起こし、辺りを見渡すと徐々に記憶が戻ってくる。
昨晩に妻に対して当たるような態度を取り、朧気な意識のまま部屋へと戻り、そのまま眠ってしまっていたことに。
目的もなく頭も回っていない中で、そのまま眠りにつくことも考えたが、物音を立てずに出来るだけ静かに離れる事を考えてしまう。
薄暗いなかで、寝息を立てている妻を起こさぬようにと息を殺しながら、少し頭を冷ませたい。
「おや、こんな朝方にお出かけですか」
声をかけてきたのは見知らぬ男性だったが、その服装からこの旅館の従業員だと思われる。
「は、はい」
「もしかして朝焼けですかな」
「あざやげ?」
「昨晩はたくさん飲まれたようですね、よろしければ水をどうぞ」
そう言いながらその男性は、一本のペットボトルを差し出してくれた。
突き刺さるような喉の痛みと合わせ、声が掠れるほどの渇き。何も持たずに部屋を出てしまったので、この一本はまるでオアシスのように輝いて見える。
手に取った水を一気に飲み干し、口元を拭う。
「そんな一気に飲めば逆に気持ち悪くならんか」
「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」
空になったペットボトルを手に取り、その従業員は何処かへ歩いていった。
僕は再びお礼を述べ、旅館の外へと歩いていく。
外へと出ると、澄み渡った空気が迎え入れてくれ、まだ日が昇らぬ暗がりの中、大きく深呼吸し体の中を整えていく。
「清々しいな」
思わず出た言葉は本心から出たものだが、昨晩の出来事がまだ頭の中に残っている。澄み渡る空気で満たされる体のなかに、言いようのない感情が渦を巻くようにして動き回る。
浴衣のままでは少々肌寒いが、赴くままに歩いてみようと思う。今のうちに感情の整理をしなければ、妻が起きたときに何を口にするか、考えただけでも恐ろしくなる。
最悪はこのまま…。
おもむろに歩み始めていた足取りは、固い地面を踏みしめながら徐々に体温を奪い続け、思考を奪おうとしてくるようで。
どうしたいのかも、どうなりたいのかも分からず。
このまま隣に立ち続け、ともに歩いていくような資格はあるのだろうか。
今、僕が求めているものはこのまま逃げることではないか。
逃げた先の想像など、簡単な事だ。
互いに、幸せに。自由に…。
そんなことを考えていると、目の前の視界が開けるような場所へと辿り着いた。
闇に呑み込まれそうなほど深く、強い風が吹き抜ける場所に。
聞こえてくるのは波の立つ音だが、それは僕を責め立てるように大きく唸りつける。
「ここは、昨日に来たかった場所か」
暗がりの中に、薄っすらと看板が立っているのが見えたので近づいてみる。
「絶景な夕日スポット……」
しぼめながら覗いた先には、そう記されていた。
妻とも話していた夕日のきれいなスポットで、僕の所為で来れなかった場所。
妻は笑ってくれていたが、本心はどうだろうか。
無理していたに違いない。
こんな僕に心底呆れてものも言えず、何とか取り繕ってくれていたと。
「ははっ……本当に駄目な奴だな、僕は」
何をしても駄目で、何も成せなくて。
何も返せてない。
妻からは貰ってばかり。
今の生活も、思い出も、幸せだって感じる瞬間も。
「覚悟を決めるしかないな…」
零れ出る言葉。
今の僕のすべて。
これ以上は、互いに辛くなるだけ。
そうに違いない。
そうして、旅館に戻ろうと体を振り返ろうとすると、後ろから声を掛けられる。
「こんな時間に珍しいですね」
「は、えっ」
その声の方へと向き直ると、覚えのある二人が目の前に立っていた。
「昨日の、定食屋の」
「あら、昨日のお兄さんじゃないの」
「ど、どうも」
「こんな朝早くにどうしたの……あら、一人?」
「は、はぁ…まぁ」
こんな場所で、こんなタイミングで声をかけないでほしかった。
正直、会いたくない二人ではあったから。
「なになに、喧嘩でもしたの?」
「いやいや、ただの散歩ですよ」
「お一人で?」
「は、はい」
「勿体ないじゃないの~」
「ええだろうに、ほっといてやらんか」
これ以上は。
そう考えこの場から立ち去ろうとした瞬間、ご夫婦の表情がはっきりと見えるくらいには周囲が色づき始めていたのに気づく。
皮肉にも、冷え込んでいた体を優しく温めるかのように。
「そんな恰好で、寒くないかい」
「大丈夫です」
「ほら、見てごらんよ。一人で来るには勿体ないでしょう」
そう指さされた先には、太陽が顔を出し始めていた海が映されていた。
確かに綺麗だとは感じるが。
それまで、それ以上は無い。
「夕日もいいけどね、朝日も素晴らしいのよ」
「そうですか」
「それも、二人で見るなら一層ね」
そう話すおばあさんの表情はとても幸せそうに、優しそうに感じた。
そのせいか、思わず口が開きそうになる。
「なんで二人は…いや、何でもないです」
「どうしたの?」
「本当に何でもないです、すみません…失礼します」
足早に立ち去ろうと、開きそうな浴衣を手で抑えながら歩き出す。
「思いつめるんじゃねぞ」
「えっ」
口数の少なかったご主人の言葉に、思わず足がその場に貼りつく。
「夫婦とはいえ他人同士、されど他人にあらず」
「な、なんの事ですか」
「喧嘩したって、自分の落ち度を感じたって一人で抱えるな」
「急にそんな事言われたって……」
「そうよ急に、どうしたのよあなた」
「夫婦は助け合いだなんて言うつもりは無い」
「だったら僕は助けられてばかりなんですよ、結婚してから今日に至るまで…ずっと」
唇を噛みしめるように言葉を絞り出す。
力の入った声は苦しく、重い。
昨日今日の他人に、言われないといけないことなのか。
「助け合いなら、死んでも返せんわな」
そう笑いながら話すご主人は、その言葉を本気で言っているように感じる。そんな事を言うぐらいなら、貰ってばかりいるのならば、それこそ夫婦の幸せとは程遠いのではないか。
「それでも一緒にいる。いや、いてくれてる」
「互いに辛いじゃないですか」
「だから、ちゃんと言葉を交わせ」
「何ですかそれ、ごめんって言えってことですか」
「違うそうじゃない」
謝れば済む問題でもない。
それ程までに、積み重ねすぎた。
この旅行も、今までのことも。
「本気の言葉を伝えろ、ちゃんと」
「何ですかそれ…そんなの言ったとこで」
「〝ありがとう〟、〝愛してる〟。そんな言葉を伝えたことがあるか?」
「あ、ありますよ」
「本気でか」
「本気以外にあるんですか…無いですよ」
ご主人は、胸を握りしめながら真っ直ぐな力強い目線をこちらに向けてくる。
「気持ちを込めてだよ」
思い返せば、手で数えられる程しか伝えかとこが無いと思う。思うが、それに気持ちを込めることが理解できない。
言葉として発したものが、相手に伝わればそれで十分だろう。
それ以上に何かがあるとは思えない。
言葉として相手に伝える。
それだけだろう。
「ふふっ、あなた。ほっといてやるんじゃないの?」
「う、うるさい。行くぞ」
「はいはい…お兄さん、またお店にもおいでね」
それだけを言い残し、夫婦はどこかへ向かって歩いていってしまった。
残された僕の目には明るい光が差し込み、手で覆いながらも海岸線へと目を移す。
「眩しい…」
旅館へと戻ろう。
そうして僕は、変わらない足取りで旅館へと向かって歩き始めていく。
漂う潮の香りを鼻に残しながら、ゆっくりと。
暫く歩いて戻ってきた僕は、玄関を抜けて部屋の方へと真っ直ぐに向かって歩いていく。
辿り着いた扉の前。
重たく深呼吸を繰り返し、自分自身に何かを言い聞かせるようにしながらドアノブに手を乗せる。
捻られたドアノブは扉を押し出し、明るくなった部屋の中を覗かせる。
恐る恐る覗き込むと、玄関奥のふすまはまだ閉まっており、部屋の中までは見えなかった。
が、その瞬間に音を立ててふすまが開く。
「誠さん?」
「静香さん。お、おはよう」
「おはよう…って、どこ行ってたの?」
「ち、ちょっと、散歩に」
「朝早いなんて珍しいね」
「う、うん。たまにはね」
起こっているのだろう。
気まずい沈黙が流れ、互いの目が合わない。
「あ、朝風呂行ってくるね」
「分かった。行ってらっしゃい」
その言葉に妻は部屋の中へと戻っていき、急ぐようにして支度を始めていた。
眺めていた僕はすれ違うように中へと入り、出ていった妻を見送る。
昨晩の出来事が尾を引いているのだろうか、戻ってきた妻と何を話せばいいのか分からない。分からないが、正直に話さないといけない。
これからのことを…。
音のない部屋の中、待ち続ける僕は布団をたたみ上げ、座椅子に腰を落としながら外を眺める。
すっかり日も昇り、朝日が部屋中を照らす。
永遠にも感じるほどの時間の流れを感じながら、その時を一刻一刻待ち続ける。
暫くして、扉の開く音が飛び込む。
帰ってきたと。
「お待たせ〜、いいお湯だったよ」
言葉尻は明るいが、声は暗い。
再び訪れる重い空気の中を切り分けるように立ち上がり、妻の方へと向き直る。
「ちょっと、話が」
「ど、どうしたの急に」
目を見ることは出来ずに、自然と視線は落ちる。
それでも、言葉に詰まる僕を見て妻の表情が不安気になっている事は分かってしまう。
昨日はごめん、今までごめん、このままでいいのかな、迷惑ばかりかけてごめん、頼りなくてごめん。
連なる言葉の数々は頭の中で巡るばかりで、口元から出す事は出来ずに溜まり続ける。
吐き気すら覚えそうな空気に圧し殺されそうになるが、それでも僕は伝えなければならない。
どんな結末になろうとも。
そうして、気持ちを堪える。
もう一度だけ、妻の目をしっかりと見据える。
目線があったその瞬間、頭の中で何かが爆ぜた。
「あ、ありがとう」
「えっ?」
「あ、いや、違くて、そうじゃなくて」
「どうしたの本当に、昨日から変よ」
「言いたいのはそうじゃなくて」
「ゆっくりでいいよ、待ってるから」
その言葉に気持ちが晴れ、紡がれた言葉に自分でも驚きが隠せなかった。
「…あのさ、実は散歩の時に朝日を見てきた。静香さんと一緒に見ればよかったよ」
「何それ、やっぱり変なの」
そう言いながら妻の顔には、少しだけ笑顔が戻ったように感じる。
「朝ごはん食べに行こっか」
「う、うん」
僕たちは、昨晩と同じ格好のまま同じ場所に向かって部屋を出ていく。
朝食の場所も同じらしい。
気まずさは正直まだ残っていると思う。
でも、少しずつ〝ごめん〟じゃなく、〝ありがとう〟と言えるようになりたい。
妻の顔をこれからも見れるように。
今度は、溢れるばかりの笑顔を。
「ありがとう」
「ん、何か言った?」
「ありがとう」
「また変だね、急に」
「あと、昨日はごめんね」
「いいよ。大丈夫だから…」
ご完読、誠にありがとうございます。
これぐらいが丁度いい??
ぜひ次回もお楽しみに。これからも応援よろしくお願いいたします。また次話でお会いしましょう(*´∇`*)




