灰色ノ世界デ人魚は色めく
こんにちは、ノウミです。
たくさんの小説や素晴らしい作品がある中で、私の作品を手に取っていただきありがとうございます。
これまでに多くの作品を発表してきましたが、皆様に楽しんでいただけるよう、これからも様々な物語をお届けしていきます。
皆様に「読んでよかった」と感じていただけるよう、
一層精進してまいります。
どうぞ、これからもご期待ください。
私はずっと、色のない世界で生きていた。
日々の満員電車に押しつぶされ、伸し掛かる仕事量には神経をすり減らされる。
空の色や景色でさえ、全てがモノクロに見え何も感じなくなり、デスクの上に置かれたコーヒーの色のように塗り潰される。
それでも、この仕事にやりがいは感じていた。
誰にも負けない想いだけは失わずに、体を支える一本の柱として立ち続けてくれていた。
「お前は今日からクビだ」
だが、この一言で柱に大きくヒビが入り始める。
「言ってる意味がわからないのですが」
「俺の指示に従わないやつはいらない」
冷たく放たれる言葉に理解が追いつかない。
先日、社運をかけて開発中のVRMMORPGを製作中のさなか。私の出した意見に納得いかなかったのか、門前払いを食らいながらも何度も意見を通そうとしたのが良くなかったらしい。
長年この仕事を、誇りを持ってやっている以上。何を失ったとしても、どうしても貫き通したいゲーム制作への思いはあった。
神経をすり減らし、自由な時間を切り捨てて作り続けていたゲームなのに。最後の最後で、この上司の言葉は、鈍い音とともに唯一の柱をへし折り折り、足元から崩し落としてきた。
「じゃあな、根暗くん」
何も言い返せなかった。
いつもの皮肉でさえも。
私の名前は〝米倉〟(よねくら)ですって、そんな簡単な事も言えずに。
こんな不当な解雇はありえないと抗議したが、会社からの正式な書面を突きつけられる。そこには懲戒解雇の文字が記されており、身に覚えのない私にとって到底理解の出来るものではなかった。
「駄目だよ〜、会社のお金横領しちゃ」
そう言いながらほくそ笑んだ顔を隠しながら、すぐに荷物をまとめて出て行くようにと言われる。気が付けばこの話は周囲も聞いており、「やっぱり」「なんかやると思った」などと囁かれ、誰も味方がいない事を悟る。
唖然呆然、胸の中にあったものが音を立てて崩れ去る瞬間を初めて感じる。
諦めて立ち去ろうとした瞬間、上司の腕に初めて目にする高級そうな腕時計が光って見え。
「今月の給与とボーナス、天引きだから。当たり前だよね?」
遂には、頭の中で何かが切れた。
急ぎ足で自分の席へと戻り、立ち上げていたパソコンを操作し始める。
「おいおい根暗くん、早く消え給えよ」
「黙れ、私物を持ち出すんですよ」
周囲の視線は気にもとめず、一心に指を動かし続ける。それ以上は上司も何も言わず、自分の席へと戻って行った。
ふざけるなよ。
そこまでの仕打ちを受けるのなら、相応の仕返しを用意してやる。
設定を弄る時間はない、その代わり誰にも気付かれないように一つのシステムを植え込む。自作AIで自己成長型のNPCをゲームバランスを崩壊させるぐらいのボスキャラ、核として育つように。
そして、ゲーム自体の崩壊と僕の想いを込めて。
甲高く押し鳴らすEnterキー。
僕はその他の荷物をまとめて、会社支給されていたパソコンの中身を全て初期化させ、私用のパソコンをまとめ上げる。
幸いにもリュックの中に全て収まる様な量で、早々にオフィスを出て立ち去る。誰にも声をかけられることもなく、最初から居なかったかのように。
会社のビルを出て空を見上げると、太陽はまだ空高くに昇ろうとしている頃だった。差し込む光が辺りを照らし、鮮やかなはずの外はやはりモノクロで、吐き気すら覚えそうになる。
「あれ、米倉くん。何してるの?」
「あ、お、お疲れ様です」
声をかけながら向こうから歩いてきたのは、私を新人時代から面倒見てくれていた【海乃】さんだった。
クールを全身に着飾ったような見た目とその言動で、今はゲーム監督を務めており今回のVRMMORPGにおいても、中心人物として尽力している。
「なんでそんな荷物持って、サボってる余裕なんか無いわよ?」
「いえ、もうクビになりましたから」
「そんな冗談言ってないで、新人の時みたいに逃げ出したんでしょう?戻るわよ」
「いや、本当に…ついさっき」
「誰が」
「私が」
「誰に」
「押野さんです」
「いつ」
「いや、ついさっきです」
鳩が豆鉄砲食らったような表情を浮かべているところを見るに、まだ伝えられてなかったのだろう。確認するから待っててと言い残し、ビルの中へと勢いよく入っていったが、海乃さんもある事ない事聞かされ納得する事だろう。
もうここに、私の居場所はない。
少しだけその言葉が鎖のようにまとわりつき、この場所に留めようとしてきたが、簡単に引きちぎり歩みを始める。
当てもなく、足取りは最寄りの駅へと向かっていた。家は会社の近くなのだが、少しでも遠くに離れたい気分で誰とも会いたくなかった。
駅について見上げたのは路線図。
その一番端へと目をやり、料金を確認する。
それを見て思い出したのは、久しく海を見ていないことだった。地元は歩いてすぐのとこに海が広がり、潮が薫り風が優しくなびいていた。
そんな事を思い出し、海の見える場所へと向かう切符を手にする。
何かが変わるとは思えないが、都会の喧騒から離れて何も考えなくて済むのには丁度いいと考え、直ぐにやって来た電車へと乗り込む。
幸いにも席は空いており、いつもの混み具合が嘘のようだった。
時間が変わればこんなにも気楽なものなのかと、少し肩が軽くなったような気がする。
そうして長い時間電車に揺られながら、ビル群を抜けて背の高い建物は目に入らなくなってきた。次第に移り変わる景色に、昔から心躍らせていたが今は何も反応がない。
変わらず一定のリズムを刻む心臓は自分のことながら少し恐ろしくも感じてしまう、生きた屍のように動いていないのではと。
そうして暫くして、目的の駅に到着する。
少し肌寒さを感じながらも改札を抜けて、バス停へと向かっていく。スマホで調べていたルートの案内通りにやって来たバスへと乗り込み、更に海へと向けて進んでいく。
海水浴シーズンから時期外れているからなのか、ここでも人混みは少なくゆったりとしている。
バスから見える外の景色は一枚の絵画のように、大きな海を描き始め懐かしむように眺める。
『海水浴場前〜海水浴場前〜』
バス停に止まり、開かれた扉。小銭を機械に入れて降りていくと、目の前には水平線が見えるぐらいの大きな海原が広がっていた。
懐かしいはずの光景でも心動かされることはなく、空と海の境が無くなるほどの青色は全て色褪せて見える。
何となく浜辺に向かって歩いていき、砂の感触を踏みしめながら足を伸ばす。
そういえば昔もこうして、落ち込むような事があれば海に飛び込んで来ていたような気がする。決まって何処からか歌のようなものも聞こえ、荒んだ心を洗い癒していくような。
そんな事を思い出しながら潮の際まで歩いていき、海の当たらない手前で足を止める。
潮の満ち引きが音を奏で、そよぐ風が優しく体を抜けていく。あの頃に感じていた荒い癒していくような感覚に、それに近いものはあったが何も変わりはしない。
募るのは虚しさばかり。
たった一度の反抗で全てを無にされた。
非情で利己的な行動によって。
アニメやドラマならここで叫んで発散したりするのだろうが、そんな事をした所でどうにもならない。それが分かっているから、何も出来ずに海を眺めている事しか出来ないでいた。
そこからどれだけの時間が経ったか分からないが、次第に沈む太陽が辺りを暗くしていた所でようやく、一日の終わりを感じ始めていた。
終わった所で明日はやってこないのと同じ。
生きていく意味すら見えないのだから。
そうして身を翻した瞬間足を滑らせ、背中から大きな水飛沫を上げながらその場に倒れ込んだ。
(何やってんだ、私は)
見上げる空は呑み込まれそうなほど深くなり、全身を冷たい海が掴みこんでいた。
ふと頭をよぎったのは。
このままなら、楽になれるかもしれない。
この海に散らす命なら悪くないかも。
海に浸かったままの感情は、溶け出したインクのように静かに広がり消え始めていく。
思い出の中に残る唯一の色彩鮮やかな景色、耳に残る癒しの詩色。鼻に抜ける磯の香りでさえ、許しを与えてくれそうで。
そんな全てが詰まった、この思い出の海。
場所は違えど、景色は似ている。
もしかしたら、あの日に戻れるかもしれない。
何も考えずに好きな事だけをやっていた日々。
そんな気にすらさせてくる。
海が顔を呑み込もうとした時、体を勢いよく起こしながら手をかざし耳を澄ませる。
確かに聞こえた気がする、あの日と同じ歌が。
歌のように聞こえてるだけかと思っていたが、今になってそれは海から響き渡る歌声だった事を思いださせる。
「これは、なんで…」
記憶の蓋が一気に解き放たれるように、昔の記憶が鮮明に呼び起こされる。その衝撃に突き動かされるように立ち上がり、歌の聞こえる方に向かって走っていく。
全身が濡れ冷え込む空気が体温を奪い、砂に足元を取られてまともに動かせず何度もよろめくが、必死に体を声の方へと向かって走らせ生きる証を踏み締めるように進む。
少しずつ大きくなるその声に、心臓が熱を持ち始めたように感じ、走り出す足は自然と強くなっていった。
駆られる衝動の止め方を知らずに勢いのまま防波堤の上へと登り、走り続ける。
それ以上は先に進めなくなった場所で立ち止まり、周囲を見渡しながら耳を澄ませる。息づく呼吸と心臓の音にかき消されそうになりながらも、微かに聞こえる声の先を探し続ける。
只の幻聴なのかもしれない。
それなのに私は、この声に惹き寄せられた。
昔にもあったような気がする。
同じ事が、海の踊る場所で。
その瞬間、夕陽に照らされた海面を何かが大きく跳ね水飛沫を高らかに昇らせた瞬間が飛び込んできた。
その滴は光の粒となって海面へと散らされ、一つの幻想的な模様を描いていた。
鼓動は高鳴りを見せ、苦しさすら覚える。
ここまで魅せられたのはいつ以来だろう。
間違いなく、あそこに声の主がいる。
その声に少しでも近づきたくて、その声の主に会えば何かが変わるという自信のない確証が僕の足を一歩踏み出させ、空を踏む事となった。
気がついた時には海の中へと落ち、必死にもがけばもがくほどに深く沈み込んでいった。
ゲームならこの場から直ぐに離脱できるだろうが、泳ぐことすらできない私にとっては死に向かう道筋でしかなかった。
肺の中の酸素は失い、口の中に残されたものを必死に手で覆いながら食らい止める。
次第に消えゆく光は暗闇を広げながら薄れゆく視界とともに、溶かしていく。漂うクラゲのように力なく、逆らうこともせずゆったりと。
口元を覆う温もりの後、閉ざされた意識。
そこに後悔も恨みもなく、あるのは輝かしかった頃の思い出だけ。手を伸ばせば触れられそうな距離にあるそれは、無情にも霧を掴むように何も残らなく消えていく。
死を覚悟した私の目の前に広がったのは、真っ暗なキャンバスに散りばめられた光の粒。
天国にしては、想像とかけ離れているような気がする。やけに現実味を帯びているようで、感じるのは冷え切った体にずぶ濡れの状態。
まるで、海から上がった後のような。
(いや、この感じは海から上がってる!)
地面の感触を確かめながら体を起こすと、落ちる前に立っていた防波堤の先で横たわっていたらしい。気がついた頃には星空が見える時間帯になり、長い時間気を失っていたことになる。
慌ててポケットから取り出したスマホは画面も点かず、反応がない。リュックの中身も全て水に濡れゴミと化し、唯一使えそうなのが萎れたワカメのような財布だけだった。
荷物を確認し肩を落としていた時、夜の海風が冷たく吹き荒れさらに体温を奪い去っていこうとする。一先ず荷物をまとめて、来た道を走り戻っていく。
バス停に着くと人気は無く閑散としていた。
辺りを見渡しても明かりなどなく、月の光だけが優しく降り注いでいるが、そこに温もりはなく孤独な寂しさを際立たせ、冷え切った体を切りつけてくる。
体を擦りながら、少しでも足を動かす。
目の前の通りをどちらかに進んでいけば、飲食店や宿泊施設があるかもしれない。
取り敢えず動くしかない。
目指す場所もなく歩き続ける足は氷のように張り詰め、次第に踏み出す一歩が苦しくなってくる。
そんな時、通り過ぎた一台の車がハザードを点けながら少し先で止まった。もしかしたらこの周辺について何か知ってるかもしれないと思い、居なくならない事を祈りながら歩みを進める。
そんな私の祈りは意味がなかったように、開かれた車のドアから人影が覗き始める。
それを見た私は、体の奥底から絞り出すような声で叫ぶ。
「す、すみません。少し良いですか!」
驚いた事に、その人影は降りてすぐに真っ直ぐとこちらに向かってきていた、声を聞くよりも先に。もしかしたら追い剥ぎか、ストレス発散目的の暴行か何かだろうか。
不安が押し寄せるが、体は言うことを聞かず立ち去る事も出来ず、迫る人影に息を呑むしか無かった。
「大丈夫かお前」
その一言は思いがけないものだった。
近くに来れば月明かりで影の中から顔を出し、優しそうな男性がこちらを心配そうに見ているのが、見て取れた。
取り越し苦労。
そんな言葉がよく似合いそうだと感じた。
「いや、海に落ちちゃって…ははっ」
「ははってお前、ずぶ濡れじゃねぇか」
「はい、見事に…」
「俺の家まで送ってやるよ、乗りな」
「え、いや、さすがにこのままでは」
「いいから気にするな!こい」
ガタイがよく声も通るその男性は強引ながらも、私を海で濡れたままの状態でも車に乗せてくれた。家はすぐそこらしく、帰り道に異様な人影を目にして気になり、立ち止まってくれたと。
走り始めた車は暗闇の中をヘッドライトの明かりを頼りに駆け抜け、海沿いを走りながら左に折れ曲がるように小道に入っていく。
強めにかけてくれた暖房が体の表面を温め始めてくれるが芯は氷のように冷たく、手足の指先は刃物で切りつけられたように痛む。
次第に灯りも増え、海から近い住宅街の道を進んでいった。出来るだけシートに体が触れない様にと背筋を伸ばしているが、そろそろ限界を迎えそうになってきた頃。
「着いたぞ、ちょっと待っとれ」
そう言いながら大きな一軒家の中に停めた車を勢いよく飛び出し、ライトで照らされた玄関の中へと入っていった。
私も、中にいるのは忍びなく思い扉を開けながら外へと出て家の方を眺める。こんなとこまで来て放置される事は無いと思うが、体を震えさせながら静かに待ち続ける。
そうして、家の中から一枚の大きなタオルを持ち出した男性が戻ってきた。慌てたように私の体に巻き付けながら、抱き込むように家の中へと案内し、濡れた体を拭いてくれていた。
「母さん、風呂沸かしてくれたか!」
「もう少し待ってくださいな」
「おい兄ちゃん、こっちこい」
慌ただしい家の中で、なされるままに囲炉裏の傍へと案内された。畳の上へと踏み込むのは躊躇われたが、ビニールシートのようなものを敷いてくれており、準備してくれたことが伺える。
「それ包まって待っときな!」
「あ、ありがとうござ…」
お礼を言い切る前に、男性は部屋を抜けて何処かへ行ってしまった。残された囲炉裏のある部屋の中で、静かに焚べられた薪の傍へと近寄り、優しく揺らめく炎の温もりにもたれ掛かるように体を添える。
「暖かい」
思わず漏れ出てしまった自然な言葉に、自分でも驚きを隠せずに、目の前の暖かい炎は死んだままの鼓動を少しだけ動かしながら、生きている事を思い出させてくれた。
そうして暫くして男性が戻ってきた。
「着替えはあるのか?飯は食ったか?」
「いえ、何もなくて」
「なら取り敢えず風呂沸かしたから来い」
「えっ、いや…そこまでしてもらうわけには」
「いいから来いって」
私の体を引っ張り上げるようにして、部屋から連れ出してくる。
長い廊下を抜け、案内された風呂場で傍にあった籠に脱いだものを全て入れるようにと言われながら後で着替えも持ってくるからと、それだけを言い残し男性はまた何処かへ消えていった。
トントン拍子に進む状況に気持ちは置いてかれるが、言われた通りに海水に浸った服を全て脱ぎ、籠の中へと入れていく。
少しだけ寒さがましになった体にタオルを巻きながら、風呂の扉を開ける。
飛び込んできた蒸気と熱気に、体は薄い膜を張ったように熱を遮る。変わらず氷の芯は溶けないままに、桶を手にとって体を流す。
全身が塩漬けになっているのでこのまま入るわけにはいかず、備え付けてある洗剤で全身を綺麗に洗い、湯水の張られた浴槽へと足を触れさせ、漏れそうになる声を抑えながら、足先から股先へとゆっくり浸からせていく。
そそり上がってくる痺れるような温もりが凍えた体を溶かしながら、じっくりとほぐす。
動き始めていた心臓が音を立てるように激しく打ち鳴らし、見上げる天井に声を響かせる。
肩まで浸かると凍えていた芯が全て溶け、湯船の中で呼吸をする度に意識が遠のいていきそうで、時間の概念はこの場所には存在しなかった。
「おーい、服置いとくから。暖まったら出てこいよ」
「あ、はい!すみません」
溶けて消えゆきそうだった所に聞こえてきた一言は、現実へと呼び戻され浴槽の中で立ち上がり、湯気を帯びながら冷めない体で、用意してもらった着替えに腕を通す。
少し小さい気もするが、袖に通した瞬間に血が巡り始めたような感じもする。二人の優しさが染み渡り、熱を帯びたようで。
浴室を出て廊下を覗くと、丁度男性と同じくらいの年齢の女性と出会った。恐らくこの二人はご夫婦なのだろう、こちらを見ると優しい笑顔を向けながら一言。
「おや、小さかったね」
そう言って、私の腕を引きながら廊下を歩いていく。何処へ向かうのかと聞いても、いいからいいから付いてきなさいと、この二人は似たように案内してくれていた。
廊下を歩いて、先ほどの囲炉裏があった部屋へと案内される。変わらず温かな火が揺らめき、迎え入れてくれていたが、その上に鍋と周りに食事が準備されていた。
今度は、背中を押されるように中へと押し込まれていく。
「こ、これは」
「いいからいいから、座りなさい」
囲炉裏を囲んで右には男性がすでに座っており、立ち竦む私をそのままに女性は左側に座り込んでいた。
二人から同じタイミングで「いいからいいから」と、手招きに誘われるようにして私も座る。
「お腹すいたでしょう、鍋はまだだけどこの人が捕ってきた魚の刺し身を先にどうぞ」
「美味いから食いな、新鮮だぞ」
「いやいやいや、ここまでしてもらうわけには。着替えどころか、お風呂まで案内していただいて」
またしても聞き慣れてしまった「いいからいいから」と。二人とも、優しく温もりに溢れた笑顔をこちらに向けながら。
そこまで言われてここを立ち去るのも失礼かと思い、深々とお辞儀をしながら目の前の箸とお茶碗に手を伸ばす。
そのお茶碗は持った瞬間に熱を感じるほどで、炊きたての様な白米が粒立って光り輝いているように見えた。
「ごめんね、レンジのご飯で」
「いやいやいや!充分過ぎます」
目の前に運んだご飯に固唾をのむ。
よく考えればここ最近、食事に味を感じないどころか何も思わなくなってしまっていた。そんな表情を見せてしまえばかなり失礼だろう。
必死に昔の記憶を手繰り寄せながら、美味しいご飯を食べた時の感情を思い起こさせる。
そうして意を決し箸を白米に潜らせ、口元に運ぶ。続けてさらに、もう一度。
「あら、あまり美味しくなかったかしら」
「いえいえいえ、そんな!美味しすぎてつい、ぼーっとしてしまって」
やはり味はしなかった。それどころか、久しく触れていなかった温もりのある食事の数々に胃が驚いたのか、吐き気を抑えながら飲み物で流し入れるしかなかった。
色鮮やかなはずの海鮮類も色が失われ、目の前に沸き立つ鍋からも匂いがしない。
空腹は満たされるので食べすすめることは出来るが、正直吐き出しそうなものをご飯で抑えつけていくような感覚で、こんなにも食事が苦しいと感じたことは無かった。
二人からの視線も体に刺さるようで、取り繕った笑顔で何とか場を保たせる。
何度も味わったこの喉に引っかかるような空気はいつも飲み込めずに、気持ち悪いスライムみたいに口の中で残り続けていた。
何とか食べ終えた頃、外の扉が開かれるような音が聞こえ片付けを始めていた手を止めて女性が外へと歩いていった。
訪問者でも現れたのか内容は聞こえないが、何か会話をしている声が聞こえ、その後すぐに打ち鳴らす足音が次第に大きくなり今度はこの部屋の扉が大きく開かれる。
その音に驚きながらも振り返ると、睨みつけるような視線を送る女性が仁王立ちで見下ろしていた。
「海乃さん?」
「あ、米倉くん!」
目が合った瞬間一気に距離を詰め、勢いよく私の頭の先に向かって手のひらを振り下ろしてきた。鈍い音と衝撃が波打つように広がり、痛みを抑えるように両の手で覆う。
「痛いっ、急に何ですか」
「急に何ですかじゃないでしょう!なんで待ってなかったの!?」
今までのイメージとは違ってクールさの欠片もなく焦った表情を向けながら、声を上げる。
「あらあら、駄目じゃない叩いちゃ」
「いや、母さん。だってこいつ」
「この兄ちゃんは弱ってるのに…可哀想」
「父さんまで!」
その会話で、三人が家族であることや会社ではありえないようなうろたえ方と、声の張り上げで頭を押さえたまま体が動かなくなり、その光景に呆気にとられていた。
「知らない人招き入れたって玄関で聞いたから焦ったらこれよ、駄目だって前に言ったじゃん!」
「お前、そりゃ。仕方ないだろう」
「仕方なくないよ、危ないって」
「お兄ちゃんは大丈夫よ、ねぇ?」
「いや、大丈夫かどうか分かんないじゃん」
「米倉!」
矛先の変わった迫力に身が引き締まり伸ばされた背筋の勢いに、その場で立ち上がる。
思い返せば、久しくこの人の下からは離れていたのでその声と雰囲気が懐かしくも思える。ここ最近は罵声や怒号を浴びせられるだけで、まともに名前すらも呼ばれていなかった。
驚きと緊張が渦巻きながら問われたのは、何故あの場所から居なくなったのか。どうしてクビに追い込まれるような状況になったのか、すべては真実なのか。
かつての上司から、疑いの眼差しを向けられ。
「私は、横領なんてしていません」
「でしょうね。なら何で逃げたの」
再度問われた言葉に色々な考えが絡み合うようにして蠢くが、それらは全てたった一つの吐き出された言葉によって押し込められる、
「もう、疲れました」
「疲れた?」
「はい。もう反論する気も無かったですよ」
あの場で反論した所で味方をしてくれる人物なんて、一人も居なかっただろう。全身に絡みつくような空気感や突き刺すような疑念の目、端々に聞こえてくる言葉や声が、あの場所に私の居場所など無かったことを示していた。
「仕事はいいの?私は米倉くんを…」
「いいんです、もう…いいんです」
「そう…」
何かを言い渋ったような表情のまま、海乃さんは部屋を飛び出すかのようにして足音を打ち鳴らしていった。
残された部屋には海乃さんのお父さんと私だけで、お母さんも後を追うように出て行く。
「ま、まぁ色々あるからな。座って食え」
「あ、はい…すいません」
言い難い空気が漂いながら無言のままに箸を動かし続け、味のしない料理を噛み締めながらこの後のことを考える。
食べ終えようとした頃、お礼を述べようと俯いていた顔を上げて男性の方へと向き直り、重くなった口を開けた。
「あ、あの…本日は本当に」
「いいよいいよ、気にすんな」
「いやしかし、ここまでして頂いて」
その瞬間、再び足音が鳴り響きこちらに向かって大きくなる。
音を立てて再び開かれた扉の向こうには海乃さんが立っており、その手には大きな瓶が握られていた。
「あ、お前!それは俺の」
「また買ってきてあげるから。今日は解禁!」
その大きな瓶は一升程の大きさで、貼られたラベルを見ると日本酒のようで間違いはなさそうだった。逆の手には二つのお猪口が握られており、そのまま部屋に入ると私の前に置かれ、並々と透明なものが注がれていった。
「米倉くん、今日は呑むよ」
「いやいや、流石に貰えませんよ」
横から熱を感じるほどの視線を感じており、この日本酒が海乃さんのお父さんにとってかなり大事なものなんだと伺える。
「いいから。呑も?」
この人は本当に昔からずるいと思う。
クールな見た目や言動からは想像できないのに、何かを本気でお願いする瞬間だけ急に女性の可愛らしさを100%にしてぶつけてくる。このギャップに私は抗えずにただいつも、首を縦に振る事しかできずにいた。
無言のままに私はお猪口を手に取り、引き寄せたまま注ぎ入れる。
久しぶりに飲んだお酒は、アルコール味だけを口の中に残し、全身に熱を帯びた血を巡らせる。
「さぁさぁ、呑もうよ」
気が付けば海乃さんのお父さんも席を外し、部屋の中では二人だけで、晩酌に身を残していた。
刺し身などの料理を肴に、言葉を交わすこともなく注がれた日本酒だけが進んでいった。
不思議なことに、この日本酒からは米の際立つ香りが鼻の中を抜け、美味しいといった感情を呼び覚ましてくれていた。
笑いながら注がれる日本酒が特別なものなのか、それともこの空間がそうさせてくれていたのかは、今の私には理解すら出来ずにいた。
体の奥底から次第に熱を帯び始め視界が虚ろい始めた頃、重たくなりつつあった空気をかき分けるように優しい声が届けられる。
「仕事、しんどかった?」
ほのかに紅く色めく頬に潤いの瞳は、心臓を握りつぶそうとしてくる。咄嗟に胸を押さえながら、ぶれそうな意識を手繰り寄せて言葉を紡ぐ。
「しんどかったですよ…しんどいですけど」
「けど?」
「……楽しかったっす」
目を背けたくなるような、耳を覆いたくなるような日々の方が圧倒的に多かったのは間違いないが、それ以上に出来上がった作品が我が子のように愛おしく、中で動くキャラクターが言葉に出来ないほどの感動を与えてくれていた。
これが世に届けられ、様々な人たちの指先で遊び狂うのだと考えれば辛さなど消し飛んでいた。
「形作られたキャラに命を吹き込むような、そんなシステムを仕込んでいくのが…何よりでした」
「これからどうするつもり?」
「どうしましょうかね」
先ほどまで考えていた事を、腹の中に流し込むようにして再び酒を流し入れた。この一口を最後に、意識は途絶え深く落とされていく。
消えゆく意識の中は、落ちた時の暗い海の中にいるようで冷たく流される漂い続けている。
そんな中で一筋の輝きが目に入り、追いかけるように視線を動かしていると、それは辺りを優雅に泳ぐ大きな魚の尻尾のようにも見えた。
一枚一枚の鱗が虹色に輝く鏡のようで、微かに差し込む月の光を反射させながら私の周りで軌跡を描いていた。
少しずつ近くに寄り、その姿が視界に写ると思った瞬間、頭を握りつぶされるような痛みに襲われ、見ていた景色が一変する。
朝日が差し込み、何処か見覚えのあるような天井が視界を覆っていた。
重たい体を持ち上げると身体には毛布がかけられており、痛みを感じながらも辺りを見渡す。
「もしかして……寝てたのか」
意識がはっきりとするにつれ、先ほどまで見ていた海の景色が薄れ消えていくようで、立ち上がる頃には何を見ていたのかは思い出せずにいた。
ただ、言葉に出来ない感情だけが胸の中を渦巻きながら。
久しぶりの二日酔いに全身を襲われながら、部屋を出て誰か探そうと廊下を歩いていく。
物音がする方へと歩みを進めると。
「お、米倉くん。おはよう」
「おはよう…ございます。すみません」
「いやいや、昨日はすまないね」
「こちらこそ、いつの間にか寝てしまって」
よく見た姿なのに、何処か非日常な雰囲気を感じるのは、ここが台所で海乃さんが料理をしていたからだろうか。
エプロン姿に身を包み、立ち上る湯気や何かを焼いている音と共に、海の香がほのかに香り始めていた。
結婚して奥さんがいれば、こんな毎日を送れるのだろうか。
と、失礼な考えを浮かべてしまい振り払うように頭を左右に動かす。
「朝ごはんも食べていきな」
「そこまでお世話になるわけには…」
「何で今さら、米倉くんの分も作ってるんだよ。さぁさぁ」
そう言われて先ほどまで寝ていた部屋に戻るようにと促され、断る事も出来ずに来た道を戻っていく。
暫くして運ばれた朝食は、お盆の上に様々な料理が並べられ、ここが旅館なのではないかと錯覚を覚えるほどだった。
「さぁ、食べようか。いただきます」
「…い、いただきます」
二人して手を合わせ、箸を手に取る。
昨晩の事は話しづらいのか、無言のままに食べ進められた朝食は、あっという間に食べ終えられた。
二日酔いの身体を癒すような感覚を覚えながらも、やはり味は感じにくかった。
美味しかったとは思うが。
「聞いたよ、昨日大変だったって」
「あ、そうですね…クビですからね」
「いやいや、全身ずぶ濡れだったって」
「あ、そっちですか。いや、海に落ちちゃって」
食べ終えて急須から注がれた温かいお茶をすすりながら、昨晩の出来事を問われる。
どうして、こんなとこに来たのかも含めて。
「そうか、地元が…」
「そ、そういえばご両親は」
「父は漁に、母も手伝いに出かけたよ」
「あ、漁師さんだったんですね」
そうしてまた、気まずい沈黙が流れる。
これ以上聞かれると思わず答えてしまいかねない、あのまま海に落ちて死のうと思っていた事や、何故か陸に上げられていたことなど。
これ以上心配をかけるどころか、迷惑をかけるわけにもいかずそこは伏せておきたい。
「仕事は、会社はいいのか」
「そうですね。あそこに私の居場所は無かったようですから、転職活動でも頑張りますよ」
目線を落とし、茶飲みを眺めながら答える。
暗くなりそうな顔を悟られないように、不安な気持がこの温もりで解れていくようにと。
「思い詰めるなよ」
その言葉に息を呑む。
その冷たく氷のような視線は、私の心を見透かすようで正直、怖くも感じてしまっていた。
「大丈夫…ですよ」
「そうか」
そうして海乃さんは昨晩に乾燥機にかけてくれていた私の服を用意してくれ、それに着替える。いつもと違う香りに戸惑いながらも、お礼を告げて家を後にする。
駅までの道のりを聞いたが、近くまでついてきてくれるとの事だった。何度か断りはしたが、頑なに付いてくると譲らなかった。
「さぁ、行こうか」
「あ、ありがとうございます?」
「なんで疑問形」
「ありがとうございます」
「よろしい」
海乃さんの服装は白いブラウスにジーンズ、肌寒さを紛らわせるような羽織ものと、仕事の時とは違った服装ではあるがイメージ通りではあった。
「ん、何か一言でもないのか?」
「とても、よく、お似合いです」
「ふふ、よろしい」
玄関を出ると昨日とは違って、眩しい陽の光が優しく庭を照らしていた。海乃さんは扉に鍵をかけ、私の前を歩き出し始める。
後を追うようにして、足を踏み出す。
少し軽くなった足取りは昨日とは違って踏み出しやすく、乾いた服も本当に有り難い。何かお礼を返したいが、今はまだ何も思いつかない。
家を出てしばらく歩いていくと、目の前が開け青い海が広がっていた。
昨日と同じはずの景色は何処か違って見えていたが、それは隣に海乃さんがいるからだろうか。潮風になびく髪を抑え、眩しい笑顔を浮かべている。
「どうした?」
「いえ。気持ちいいですね」
「そうね、私はここが好きなの」
「わかります」
この景色は感じられなくなったものを思い出させてくれるように、私の記憶に語りかける。色も感情さえも、全て過去のものでしかない。
その事を考え無くなったのはいつからだろう。
五感の全てに何も感じなくなってしまったのは。
「大丈夫?米倉くん」
「あ、すいません。大丈夫です」
「そういえば連絡先変わってないよね?」
「はい、変わってないですよ」
「…そっか」
そうして二人で海沿いを歩いて行くと、身を落とす事になった防波堤が遠くの方に見えてくる。視線が奪われるように、遠くの一点を見つめながら口が自然と開き始める。
「人魚っているんですかね」
「えっ?」
「あ、いや…すいません。何でもないです」
思いがけず出た言葉を抑えるように、口を手で覆い熱くなった顔を下に俯かせる。
慌てたものの時既に遅く、急に変なことを呟いた変な男だと思われただろうか。冗談だと受け取って笑ってくれたならそれでいいが、そうでないのであれば私は恥ずかしさで走り出してしまいそうだ。
「いたらいいよね、人魚」
「いないでしょ〜。自分で言っといてあれですけど」
「ここの海には昔から、人魚が住んでるって言い伝えがあるんだよ」
海乃さん曰くー。
深い深い海の底には人魚の住む楽園があり、その美しい尾ひれを優雅になびかせながら海中を泳いでいると。
時折海面に現れては空に向かって歌声を上げ、偶然居合わせた人たちを楽しませている。
人魚達はそうして調和を保ちながらも、時には海に落ちた人を拾い上げて助けてくれていた。
「そんな人魚が今もなお、この広い海の底で泳いでるって考えるだけで楽しくない?」
そう言いながら笑う海乃さんの笑顔は光り輝く海面よりもはっきりと映り、碧天を背景に美しい映画のワンシーンのようで、目を外すことが出来ずに、ただただ高鳴る鼓動に身を預けることしか出来ないでいた。
「そう…ですね」
「可能性を否定するの事に頭を使うぐらならさ、あるかもしれない想像を膨らませる方が人生、楽しめそうじゃないかな」
「想像を膨らませる…」
「何が起こるかなんて予想できない事の方が多いけど、目の前に広がる無限の可能性を考えたら、一つの道が閉ざされたって大丈夫」
変わらないモノクロの景色の中で海乃さんだけが色めいているように見え、思わず俯きながら目をこすってみるが再び顔を上げた時には、変わらないモノクロの世界が広がっていた。
ただそれでも、少しだけ気持ちが軽くなったような。
肌を撫でる潮風の温もりを感じ、歌声にも聞こえるような波の音に心が揺れ動く。
「あれ…」
「どうしたの?」
「なんか聴こえませんか?」
「なんかって?」
「歌…のような」
再び聴こえてきた歌声のようなものは、次第に確かなものに感じてくる。昨晩と同じような美しく、響き渡るような。
「こっちです!」
「ちょっと、どこ行くの」
歌声の聞こえる方に向かって走り出すと、そこは昨晩と同じ防波堤の先端だった。
「ちょっと、急に危ないよ!」
「しっ。静かに」
そうして目を閉じ、手を当てながら耳を澄ます。
すると、波音と歌声が風に乗って届き始めた。
「米倉くん、これって」
「ね、聞こえましたよね」
辺りを見渡してみるが、ここには私と海乃さんしかいない。果てしなく広がる海原の真ん中に取り残されたようなこの状況に、歌声が聴こえてくるなどありえはしない。
それに今回は、二人とも聴こえているので幻聴でもないことが物語っていた。
「どこから聴こえてるんでしょうか」
「海の中ではないよね…人魚とか?」
「ま、まさか」
その言葉に笑い声を上げた瞬間、近くで大きな水飛沫が空に向かって打ち上げられる。
散らされた飛沫を感じながら、目の前に飛び込んできた光景に言葉を失う。
「に、人魚…」
「人魚ッ!?」
打ち上げられた海水を、ドレスを着飾るように纏いながら空高く登っていたのは美しいブロンドヘアーを優しく流し、差し込む太陽の光を全身で煌めかせている人魚そのものだった。
まさに想像通りのその姿は、美しいの一言に尽きる。
再び海中に飛び戻っていき、全てを飲み込んだ静けさだけがこの場に残されていた。
それからどれだけの時間が過ぎたのかは分からないが、飲み込んだままの言葉をそのままに沈黙が続き、再び歌声が聴こえてくる事は無かった。
この空気を打ち破ったのは海乃さんだった。
「ねぇ、あれって人魚だよね!」
「間違いないでしょう。この目で見ましたよ」
「だよね、だよね、だよね!!」
そう言いながらその場で飛び跳ねながら、勢いよく抱きついてきた。
その時初めて、お互いに全身が濡れていることに気が付き、海乃さんは恥ずかしそうな表情を浮かべながら少しだけ距離を取るように離れていった。
「ご、ごめん…つい」
「いやいや、仕方ないですよ」
抱きつかれた感触が熱を帯びたように、体の周りを取り巻きながら残っていた。
「あ…れ」
「ん?どうした」
何度も目をこすってみるが、今度は間違いなどではなかった。
辺りを見渡しても、全ての景色が色づいている。
蒼く広がる空に浮かぶ白雲、碧緑の海には白い波模様が描かれこの世界が、目に映るこの景色全てが壮大なキャンパスに描かれる絵画のようで。
久しく忘れていた光景は、言葉に言い表せない美しさの中に、己の儚さを感じさせていた。
「どうした、泣いてるのか」
その言葉で、頬を伝う一筋の雫を感じる。
拭った端から溢れるそれは、感動でも悲しくとも違って。自分の中にあった白黒の絵の具を全て洗い流してくれているようで、ぼやける視界の奥には確かな色彩が広がりを見せている。
「私、実はここで死んでもいいかなって思ってました」
「どういうことだ」
「昨晩、海に落ちたのは偶然ですが。そのまま終わってもいいんじゃないかって」
それでも生きていた。
いや、生かされたと言うべきか。
今になって夢で見た光景が現実に起こっていたことで、海に落ちた私を救ってくれたのはあの人魚だったんだと感じる。
「そうか…そこまで…」
「私にとって何かが壊れたとしても、あの仕事で届けたいもの、創りたいものがありました」
そんな私を救ってくれたどころか、人魚という存在の衝撃は根底を打ち破ってくれた。
「景色がモノクロにしか見えなかったり、何を食べてもおいしいと感じなくなったり。そんな世界の中でも、頑張ってたんですけどね」
「…すまなかった」
そう告げながら、頭を下げる。
別に海乃さんに原因があるわけではない。初めの頃からこんな状況に陥っていたかと言われればそうではなく、何かをきっかけに周囲の環境は恐ろしい程に変わっていた。
気づくきっかけはあったが、それを見落として今日の日まで過ごしていた私にも落ち度はあったかと思う。
「謝らないでください、海乃さんは関係なかったじゃないですか」
「それは…」
「せっかく素晴らしいものを見れたんですから、こんな空気はやめましょうよ」
精一杯の笑顔を向けるが、その表情は依然として曇ったままで罪悪感のようなものを抱いているようにも感じるが、その理由が私には理解できずにいた。
「そ、それより。またびしょ濡れになっちゃいましたね」
「そうね…お互いにね。また家に来る?」
「いえいえ、これぐらいなら帰れます」
「そう…」
何処か元気のなくなった海乃さんを残して、私は足早に別れを告げてその場を後にした。
濡れて冷え始めた服に、またしても体温を奪われながらも急ぎ足でバス停に向かい、丁度いいタイミングでやってきたバスに飛び乗るようにして乗り込む。
流石に席に座るわけにも行かず、立ちながら流れ消えていく外の景色を眺める。再び取り戻された色彩は、久しく忘れていた感情を呼び起こしてくれていたが、別れ際のあの表情が何故か心に刺さり続けていた。
何か失言でもしたのだろうか。
それとも、私が追い詰められていたことに責任でも感じているのだろうか。
立場は全く違うものになってしまって今、海乃さんが知る由もなかったのだから、気にする必要は無いと思うが。
そんな事を頭の中で巡らせていると、自宅の扉の前に立っていた。
電車を乗り継ぎ、冷える体を引きずるようにしてようやく戻ってこれたのだ。
家に入ってすぐ、取り敢えず着替えを済まして湯を沸かす。部屋に鳴り響くアナウンスに合わせ浴室に向かい、凍えた体を溶かしていく。
その日は何をするでもなく、胸の中に残るしこりをそのままに眠りについていった。
ー翌日。
日曜日の今日は普段でも仕事が休みなので、そこまで違和感を覚えることはない。
ただ、いつもと違うのは朝食が美味しいと思え、ふとつけたテレビ番組で紹介されていた旅行先に、少し心が躍る事だろう。
明日からのことを思えば不安を感じずにはいられないが、幸いな事にお金は使う所がなかったので、少しの間は余裕がある。
それでも、何もしない日々が続かないように仕事を探さないといけない。好きだけでは仕事になり得なかったのだろうか、もっと私に向いた仕事が他にもあったのだろうか。
そんな事を想いながら机の上に置いていたスマホを手に取るが、画面に光が灯る事は無かった。焦りながらもパソコンに手を伸ばすが、こちらも同じく反応がない。
昨晩の内に充電器には挿していたが、どうやら海に落ちて使えなくなってしまったらしい。
頭を抱えるように俯いていると、チャイムの音が部屋中に鳴り響いていた。
何か頼んでいたのか、勧誘か。
重たい体を起こし、モニターをのぞき込むと予想だにしなかった人物がそこには映されていた。
「海乃さん!?」
『朝からすまんな、ちょっと話がある』
私は慌てて玄関へと向かい、扉を開ける。
「お、おはようございます」
「おはよう。すまないな、朝早くに」
「いえいえ、どうしてここが」
「人事に聞いた」
「え、それって」
「まぁまぁ気にするな、中入ってもいいか?それとも近くの喫茶店でも行くか」
「あ、いえ。どうぞどうぞ」
昨日、風呂から上がった後に部屋を見渡して衝撃を受けていた。ゴミが散乱し、整えられずに崩壊したようなこの場所が異常だと。
これも元に戻ったからと言っていいのか、取り敢えず昨日一日を費やして部屋の掃除をしていたおかげで、そのまま部屋に案内することが出来ていた。
「おじゃましま…お、綺麗にしてるね」
「いやーっ。ははははは」
少しバツが悪そうに愛想笑いで返すしかなかった、昨日来られていたら迷わずに喫茶店を選んでいた事だろう。
「私は追い詰められると、部屋の中も崩壊していたがな」
「え?」
「いや、そうだな…。私もかつて同じように追い詰められ、逃げるようにして死に縋りたくなった事もあったんだよ」
「まさか」
「だから分かるんだよ、米倉くんの気持ちが」
その言葉に何も返せずに、リビングへと案内する。私はそのまま何かを考えるようにして、お茶を用意して差し出す。
それでも、言い返せる言葉は思い浮かばなかった。
「話とは、その事ですか」
「それもあるが…勧誘しに来た」
「もうあの会社に戻るつもりはありませんよ」
「分かっているさ。そうじゃなく…」
続く言葉は、またしても想像出来ていない事で。
「会社を興すから、そこに来てほしい」
「え?会社を辞めるんですか」
「そのつもりだよ、丁度いいタイミングさ」
「それで何の会社を」
「何だって、決まっているだろう。共にゲームを作ろうよ」
その瞳は真剣そのもので、冗談ではない事は簡単に理解できてしまった。
だからこそ、今の立場を捨ててまで独立する理由が見受けられずに、もしかしたら私に憐れみを感じたからなのかと思わずにはいられなかった。
「先も言ったように、私もかつて同じように追い詰められたことがあった。それが今の会社だよ」
「そうなんですか」
「やれ女のくせに、やれ生意気だなどとな」
今の姿からは全くと言っていいほど、想像することが出来ずにいた。
クールに全てを跳ね除け、自身の確固たる地位を築き上げて順風満帆に過ごしていたもんだと。
「それにこれは前々から思っていた事でね。始めは一人でやろうかと考えていたが」
「それはかなり無茶ですね」
「そう、だからこそ君の力が必要なんだよ」
「なんで私なんですか、出来ない人間だからこそ今の状況になったんですから」
「君の実力は知っているし、私ならそうさせない」
「憐れみ…ですか」
「そんなわけないだろう!」
突然張り上げられた声に、体が強張る。
怒っているようにも見えるその表情は、私の出した言葉が不用意なものだったと思い知らされる。
「君のゲーム作りに対する気持ちや、その技術力はあの場でも群を抜いていると言っても過言ではないよ」
「いや、でも…」
「だからこそ、誰もが。特に押野が疎ましく思っていたのさ」
「そんなはずは…」
「確かに、会社の思い描く方向性からは外れていたかもしれないが、私の望むゲームの形としては君の考えは必要なものなのだよ」
力強く握られた肩から決意が伝わる。
「私も追い詰められはしたが、君は本当に海に身を落とそうとしたのだろう。そんな事を聞いて黙って見過ごせないよ!」
「でも関係ないって」
「そんな冷たい事言わないでくれ、一緒に仕事をしただけの仲だけかもしれないが。君のその姿勢には心打たれていたんだから、その手から生み出されるキャラクターにも」
海乃さんから注がれる熱がそのまま心の中へと注がれていくように、私の中でも何かが燃え上がっていくような感覚を覚える。
「私なんかで良いのですか」
絞り出したような震える声は、流れる雫が扉をこじ開けるようにして溢れ出していく。
「米倉くん、君が良いんだよ」
「ありがとう…ございます」
考える事はしなかった。
それは失礼だと思ったからだ。
本気の言葉には、本気で答えねば。
手を握り、止まらない涙を流し続ける。
「こちらこそ、よろしく」
そうして机の上に急に袋に入ったお酒が、音を立てながら置かれていた。
「え?」
「構うもんか、全部吐き出そうよ!」
「はははっ、好きですね」
「嫌なことは今日で終わりにしようよ」
そうして二人して会社や、周りの人たちの愚痴をこれでもかと吐き出しながら飲み続けた。時間が経つにつれて気持ちは軽くなり、胸の中に抱いていた不安や言い表せない感情は跡形もなく無くなっていた。
もう一度生まれ変わったような、そんな気が。
「そういえば、二人だけですか?」
「いや、何人か声をかけてみようかと。同じような気持ちを抱いている者は未だいるからね」
「それはいいですね」
「私たちを切り捨てようとしたのさ、あの会社を潰すぐらいのつもりでやるよ!」
用意されていたものは全て飲み干し、気が付けば窓から差し込む光はオレンジに色づき始め、優しく包み込んでいた。
「今考えたことがあるんですけどいいですか」
「お、何?」
「人魚のキャラクターで海を冒険するような、そんなゲームはどうですか」
「それならさ、敵はさ…」
その日は日が暮れても関係なく、これから作るゲームの構想を話し合っていた。
いつしかこのゲームが会社の看板作品と成れるように、多少の難しさもありながらもそれは成長の糧として楽しめるように。
辛い人生の中で、あの日感じた感動を世界中の人に届けられるように。
色彩豊かな景色に、心脈打つキャラクター。
誰かの世界を壊せますように。
そんな願いを込めて。
そうだ、あの日の歌をメインテーマに起こせるだろうか。美しい音色に乗せられた、透き通るような声を。
その為には、あの海へともう一度。
ご完読、誠にありがとうございます。
ぜひ次回もお楽しみに。これからも応援よろしくお願いいたします。また次話でお会いしましょう(*´∇`*)




