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ノウミ短編作品集(全10作品)  作者: ノウミ


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3/11

金が成る球は積もり散る

こんにちは、ノウミです。


たくさんの小説や素晴らしい作品がある中で、私の作品を手に取っていただきありがとうございます。

これまでに多くの作品を発表してきましたが、皆様に楽しんでいただけるよう、これからも様々な物語をお届けしていきます。


皆様に「読んでよかった」と感じていただけるよう、

一層精進してまいります。


どうぞ、これからもご期待ください。

今でも鮮明に思い出すことができる。

焼き尽くす様な熱気と突き刺すようで逃れられない視線、鼻を通る匂いでさえ息苦しさを覚え、手に握る白球は心臓があるかのように脈を打っている。


【九回裏3-1 二アウト満塁 フルカウント】


このスコアを前に、目の前には食い入るように睨みつけてくるバッター。

味方の視線でさえも焼きつくようでこの場には味方がおらず、一人なんだと。


俺の投げる球で全てが決まる。


それは、良くも悪くも。


味方の応援も観客席の声援でさえも、何も聞こえないほどに気持ちを落ち着かせている。見つめるのはただの一点で、眼前に構えられたキャッチャーミットのみ。


俺は高らかに腕を振りかぶり、全てをこの球に込める。


球が指から離れるその瞬間ー。


見ていた夢を掻き消すほどのアラーム音が鳴り、響き目が覚める。


「うあ、朝かよ」


重たい体を持ち上げながら、スマホのアラームを止めて時間に目を配る。


今日もまた夢見が悪い朝だと余計に重たくなる、これはここの所毎日だった。

見たくもないあの日の光景に、朝から気分が悪くなる。


高校三年生で終わった最初で最後の夏、あれから数年は経つというのに。


これ以上考えるのはやめてベッドから起き上がり、身支度を整えていく。

学生時代も大学までは過ごしていたが今となってはただの社会人、日々を職務に費やし休日出勤も厭わない立派な社畜だ。


今日も今日とて会社に出勤して、変わらない業務に従事していく。


「あ、一条(いちじょう)先輩おはようございます」

「おはよう、昨日の資料役に立った?」

「はい!お陰様で今日いい返事をもらえそうなんです、夜遅くまでありがとうございました」


社内関係も良好で。


「一条さん、昨日はごちそうさまでした」

「気にしないでください、こちらこそいつもよりご飯がおいしく感じましたから」

「ふふっ、上手ですね。またお願いします、誠(まこと)さん」


女性関係も苦労したことはない。


「今月の成績は一条君がトップだね、おめでとう!」

「皆さんのおかげです、ありがとうございます」


成績も常に上位をキープして、良く稼がせてもらっておりお金にも困らないようにしてきた。


上からも下からも慕われて会社での存在もあり、欲しい物を欲しい時に買って、気が向けば住む場所を変えながら美味しい食事を美しい女性と。


そんな日々を過ごしていた。


そうしていつもと変わらない日々。

のはずだったが、この日を境に歯車が狂い始めていく。


難なく商談を進める予定で、既存のそれも入社以来良くして頂いてる顧客からの紹介だった。

何でも父親が亡くなって相続も手間なので、簡単に売却して現金化したいといったよくある話。


それなのに、約束の日時と場所に着くと。


「福井様のお宅でしょうか、私桜井様のご紹介で伺いました一条と申します」

『はいはい、ありがとうございます。そのまま中に入ってください」

「はい、失礼します」


インターフォン越しに軽く挨拶を交わし、古風な家ながらも最近つけたような門が構えており、電子ロックの外れる音が聞こえたのでそのまま敷地の中へと入っていく。


整えられた庭園の間を間引くように、石の踏み場が不規則ながらも丁寧な感覚で並べられていてその上を歩いていく。


玄関の前には、二人の男性が立っていた。

一人は私服姿で福井様だと予想できるが、もう一人はスーツを着た出で立ちで相続関係の人かと思う。


近づいた僕は、名刺を取り出し改めて名乗る。


「はじめまして、一条と申し…」


俺の声にスーツ姿の男が振り返る。


その瞬間、雷が走ったかのような衝撃が走る。

でも今は顔に出すことが出来ず、向こうも同じように考えたのか知らないフリを通して挨拶をしている所をまじまじと見つめる。


「いやー、一条さんごめんなさいね。実はこちらの方も土地の買い取り話に来てまして、父親が生前に査定だけでも頼んでたみたいでつい」


内心紹介で来てるんだからそれぐらいなら断ってくれよと叫びたくなるが、それどころではない。


仕事に対する思考と、目の前の人物に対する思考が蠢きあって何も考えがまとまらない。

正直、このまま逃げるか話を切り上げたかった。


この案件は会社としてもかなり大型の案件で、土地もかなり広くここを買取ることが出来れば、業績に大きく響くことは間違いない。


それなりに気合を入れて臨まなければならない。


「いえいえ、仕方ありませんよ。それでは軽く拝見させていただいてもよろしいでしょうか」

「はい、お二人共案内しますのでさぁこちらへ」


そう言われながら庭園を一周して、家屋の中も上がらせてもらう。終始俺たちは福井様とのやり取りだけで、お互いに話す隙はなかった。

談合をしたと思われたくないので、得策ではあるが時間が立つにつれて汗が噴き出しそうになる。


「すいません一条さん、ちょっと暑いですか?」

「いえいえお構いなく」


そう言いながらもハンカチで汗をぬぐう。


その日は一通りの査定が終わり、金額についてはまた後日案内しますと言って切り上げた。


俺は門を出てその場から逃げるように立ち去ろうとしたが、離れたところで声をかけられてしまった。


「よう、一条。久しぶりだな」

「神崎、久しぶり」


そう、この男は神崎といって昔からの幼馴染。高校三年間野球部でバッテリーを組んでいた。


そしてバッテリーでありながら野球部のキャプテンを務め上げた奴で、俺の事を誰よりも恨んでいるはず。


「お前も不動産で働いてんだな」

「そっちこそな」

「どうせお前のことだ、昔と変わらず汚い金の稼ぎ方してんだろ」

「そんなことねえよ」

「どうだかな」


その口調と態度、視線からは間違いなく憎んでいると断言できる。それならば声などかけなければいいのにと、言葉を心の中で閉じ込める。


「何が何でもこの案件は俺が貰う」

「申し訳ないけど、俺も譲れないから」

「ちっ、ならさっさと俺の前から消えろ」

「言われなくても」

「二度とその面、見せてくんなよ」


そうして終始、悪態をつきながら反対方向へと向かって歩いていった。


真夏の炎天下、暑苦しいはずなのに不気味な静けさが体を覆っていた。背中を伝う一筋の汗が、更にあの表情の恐ろしさを物語る。


会社に戻って資料を手に取り、天井を仰ぐ。


高校は他府県にあって、こんな所で再開するなど思っても見なかった。あの頃関係した人物と会いたくないからこそ、この地に来たのに。


そうして渦巻く気味の悪い感情が脳の中まで犯し始め、仕事が手につかなくなる。

金額については数日後に改めて伺う予定をしているが、二人の時間は合わせないようにとお願いしてる。


これ以上は何を考えても無駄だと思い、ふとカレンダーに目をやると明日が休みだった事を思い出した。 


「あれ先輩、もう帰るんっすか?」

「明日は休みだからな」

「お、その感じは何処かお出かけですか」

「みたいなもんだな」

「いいっすね、僕も連れてって下さいよ」

「駄目だ、お前は宅建の勉強を頑張れ」

「やっべ、そうだった。お疲れ様です!」

「おう、お疲れ」


ようやく訪れた休日、これで今日の事は綺麗さっぱり忘れてしまって次の日を迎えよう。そう考えると少しだけ気持ちが軽く足取りも軽快になり、足早に明日に備えて家に帰り眠りにつく。


迎えた休日の朝、俺はいつものようにバットと大きめの鞄を手に取り車へと乗り込む。隣には仕事で使っている高級外車を停めてあるが、今日は気軽に使えるコンパクトカーで指定された場所へと向かう。


車で約一時間、着いたのは市の運営するグラウンドでDMの履歴を再度確認してから〝今着きました〟とメッセージを送信して返事を待つ。


施設内の駐車場へと車を止めた頃、通知が届く。


届いたメッセージを頼りに球場内にある、控室のような所までバットと鞄を携え向かっていく。


「もしかして依頼してた〝セイイチ〟さんでしょうか?」


廊下のように伸びた施設内を歩いてた時、後ろから男性に声をかけられる。メッセージでやり取りをしている時はセイイチと名乗っていたので、送り主で間違いなさそうだ。


俺が返事をしながら振り返ると、声の主は思いもよらない人物が立っていた。誰か冗談だと言ってくれ、二度目だぞと膝から崩れ落ちかけた。


「おいおいおい、二度と面見せるなって言ったよな?」

「……これは不可抗力だろ」

「違うって言えよ、〝助っ人〟じゃねぇって」


言い逃れようにも、グラウンドにバットを構えながら入ってきている。十分過ぎる程に証拠は出揃っていた。


「なんで手前ぇなんかが、まだ野球やってんだよ!答えろよ、なぁ!!」


そう言いながら神崎は勢いよく掴みかかり、その瞳には憎悪の刃を覗かせこちらを斬りつけようとしてくる。


「痛いって、離せよ」

「ふざけんなよお前が何をしでかしたか!」

「昔のことを今さら引き合いに出すなよ、こっちは助っ人として呼ばれて仕事として起点だよ」

「そんなもんこっちから願い下げだね」


「おいおいおいどうした!離れろ二人とも」


神埼の腕を力強く引き剥がしてくれたのは、ユニフォーム姿でヒゲのたくわえた大柄な男だった。


もう一人後から来た奴も神崎を後ろから抑えるようにして、俺たちは引き離される。神崎は抑えられながらもずっと喚き続けて、ずっと俺しか見えていない。


「落ち着け神崎、急にどうした失礼だろ!」

「こいつはライバル会社ですよ!昨日報告に上げた福井様の件でバッティングしてますから。それでなくとも…」

「おいおい、本当ですかいそりゃ」


大柄な男が目を点にしながら凝視してくるが、確かにその言葉は間違ってない。


「その人の言う通りですよ、偶然にしては出来すぎてますがね」

「何、白々しいこと言ってんだよ外道が!」

「参ったなこの状況。どうしようか」


頭を掻きながら落ち込んだように悩んでいるが、それも仕方ない。


俺の呼ばれたこの試合は通常の草野球とは違って客同士の賭博は勿論で、互いの試合結果に金銭や権利等様々なものを盤に上げて競っている。


そうして俺は助っ人選手として休みが合えば、その前金とその結果に応じた報酬を貰っている。今回も例外ではなく、呼ばれた以上はこちらのチームに不安要素があるからで何を賭けたかは知る由もないが。


「おい、一条」


それは神崎のこ羽交い締めにされながらドスの効いた低く重たい声で、先程まで爆心地のように荒れ狂っていた雰囲気はその一言で一気に静まり返り張り詰める。


「あれから鈍ってねぇだろうな」

「勿論」

「……っくそがぁ!!」


けたたましい叫び声を響かせながら、腕を振りほどくと壁を蹴りつける。重い音が響き騒然としながらも、こちらを再び睨みつけてくる。


「お前に助っ人を頼むのは忌々しいが、俺らは後に引けない事情がある。それに、前払いは済ませている以上結果を残すだろうが」

「その為に来てるからな」


その言葉に笑い声を上げているが、それは決して面白くて出しているものではないと理解できる。


「昔と変わらず金に汚い野郎だな」

「おいおい、神崎。さっきから何の話をしている、互いに知り合いのようにも見えるが大丈夫なのか?」

「えぇ、社長。金が賭かったなら大丈夫ですよ、こいつはそういう奴です」


その言葉に棘を感じるが、仕方ない。

それに俺としてもここまで来た以上は、前金を返すつもりもなければ成功報酬も貰えずに帰りたくもない。せっかくの休みを費やしているのだから、稼げなければ全くの無意味でしかない。


「ま、まぁ。お前が言うなら仕方ない、すいませんが今回はお願いします」

「こちらこそお願いします。全力は尽くしますし、今日この日僕たちは会っていないのだから」

「そうですな、お互いに都合も悪いでしょう」


そう言いながら社長と呼ばれていた大柄な男は笑い声を上げながら奥の方へと歩いていき、それに合わせて神崎ともう一人も歩き始める。


すれ違う際のたった一言。


「お前がこんな事に参加しているなんてな」

「裏切り者のお前に言われたくない、クズ野郎」


一人取り残された廊下で大きく息を吐く。

息苦しく感じた空気は肺を埋め尽くし、ようやく息を整えることができる。


数年ぶりに再会した幼馴染とは二度と会わないように離れた土地で腰を据えてたのに、意味がなかった。


あの日、同じ部員だった中で一番に会いたくなかったよ。


僕はいつの間にか床に落ちていたバットと鞄を拾い上げ、三人が歩いていった方へと進んでいく。

更衣室と書かれた部屋の前で、先程神崎を抑えていた男が俺を待っていたかのように立っていた。


軽く打ち合わせをして、ユニフォームを受け取る。事前にサイズは伝えていたので、体には上手く馴染んでいた。


そこからはいつも通りで、バットとグラブを手に案内されたグラウンドの方へと出ていく。


外に出た瞬間差し込む光は視界を遮り、灰を焼きそうな熱気が襲いかかってくる。何度も立っているはずここは場所が違えど懐かしくもあり、恐ろしくも感じる。


今回に限っては、恐ろしさの方が勝るが。


「おい神崎、こっち来い」


すでに着替えていたのか、キャッチャーの装備を身にまとい視線だけで呼びつけてくる。

多少気には触ったが、言い合っても無駄。

招かれた方へと足を踏み出し、土の感触を足で拾い上げながらグラブを手にはめ込む。


案内されたのはブルペンで、軽い肩慣らしとピッチングの擦り合わせをするらしい。

俺はいつも投手として呼ばれており、奇しくもあの日のバッテリーを再現する事になる。


「おい、始めるぞ」

「あぁ」


受け取った球をグラブに収めて握りしめながら、深呼吸をしながら、想う事がある。甲子園のマウンドと比べると見劣りし、あの日はもう二度と戻って来ないと突きつけられているようで。


ここで瞼を閉じれば歓声が聞こえて心が揺さぶられ、目の前に神崎がいればそれはより鮮明に映り込んでくる。


後悔など、全てをあの場所に置いた筈なのに。


見開く視線の先には、待ち構えられたキャッチャーミットだけでそれ以外は眼中に無い。


俺は何も言わずに腕を振りながら脚を持ち上げ、静かに球を抱き抱えるように構え溜め込むように堪えながら身体を静止させる。


そして、脚を踏みしめるように降ろし腕を地面に叩けるように、強く握りしめられた球を一気に解き放つ。


指先から放たれた球は一筋の軌道を描き、そのミットへと吸い込まれるようで響き渡る轟音は心地よく身体に染み渡っていく。


この瞬間だけは、何も考えなくていいから好きだ。ミットに収まる瞬間だけを、想像しながら。


「おい」

「なんだ」

「肩壊す気か、いきなり全力で投げるな」


そう言いながら、ミットに収まっていた球をこちらに向かって投げ返してくる。思っても見なかった言葉に唖然とするがそれを受け取り次からは軽く投げていく。


この後の試合を思っての言動だろうな。


次第に球速を上げていきながら、肩を温める。その中で幾つかの変化球も実際に投げながら、空白の数年間を埋めるように擦り合わしていく。


時間が経つにつれ、返される球も強くなっている気がする。


最後の球を投げ終わり、社長と呼ばれていた人が全員を呼び集める。


「おい、あの時なん…いや今はいい」

「なんだよおい」

「絶対勝てよこの試合、甲子園の時みたいに裏切ったら許さねえから」

「言われなくても分かってるよ」

「…金の亡者め」


度重なる言動に言い返そうとしたが、今さら話した所で過去が戻るわけでもなくこの関係を修復出来るとも思えなかった。


飲み込んだ言葉を胸に、俺も向かう。


今は目の前の試合に集中するだけ。


迎えた試合開始の合図。

疎らな観戦客もいる中で始められ、照り返す熱気と味方の視線に身を焦がしながら息を呑む。


俺の舞台であるマウンドへと歩いていき、後攻として始まるこの試合は最初の投球が肝となる。


ここで三者三振、若しくは綺麗に打ち取れれば流れを大きくこちらに寄せることが出来る。


帽子を深くかぶり直しながら、バッターボックスに一番打者が入ってくるのを少しの間待つ。良く見れば数人、見知った顔ぶれも相手チームに並んでおり、同じように助っ人選手だろう。


これもまた、金にものを言わせられるチームなのかどうかが問われている。試合前に見たオッズはこちらの方が数字は大きく高くなっており、周りの評価を物語っている。


幸いな事に、俺もまだ助っ人としては駆け出し。

名もそこそこなのでこちらのチームも呼ぶことが出来ていたのだろう、その分単価は低く設定せざるを得ないから。


だからこそ、相手は油断しているはずだ。


風を切るようにバットを何回か振りながら、目の前に悠々と獲物が歩いてきた。


さぁ、今回も俺の糧となり稼がせてくれ。

油断したその喉元に喰らいつくこの瞬間が、俺の血肉を沸き立たせる。


『プレイボール!!』


高らかに上げられたその声に、俺は構える。

過去のことは今は忘れよう、そう言い聞かせながら。


始まりの第一球、ミットに吸い込まれた球は激しい音を鳴り響かせ相手チームの度肝を抜く。観客席からもざわつきの声が聞こえ始め、雑音を全て掻き消す。


俺を知らないなら、ここから知るがいい。


楽しい試合が始まったばかりだ。


気がつけば試合結果は【0-4 】全部の回を投げきり、無失点に抑え込むことが出来ていた。相手チームも予想できなかった結果に、苦しむ表情を浮かべながら唇を噛んでいた。


俺は急いでその場を後にし、汗も引かないままに更衣室で着替えを済ませる。部外者、それもライバル会社の人間があの場に居づらいこともあるが、それ以上にもう神崎と顔を合わせたくない。


今から両チームの精算が始まるだろうから、俺はスマホを手に取りDMで今回の成功報酬について振り込むようにと送っておく。


「おい、一条!!」


そう叫ばれながらロッカーに勢いよく叩きつけられ、狭い更衣室の中に荒々しい音が反射する。


「痛ってぇな、何しやがる!」

「ふざけんなよお前!!」

「何だよ、文句無しの完勝だろうが!」

「なんであの日俺たちを裏切った!!」


試合終わりの姿のまま、俺の後を追いかけてきたのだろう。体を帯びた熱量がこちらにも伝わって、鼻を突き抜ける汗の匂いが必死さを物語る。


「はっ、金のためだよ」

「そんなことは知ってるよ全部、お前が相手の高校から賄賂を受け取って八百長をしたって!」

「そう言われながらあの日も責められたな」

「なんで金なんかで最後の甲子園、俺達の最後を裏切った!」

「だから言ったろ全部金なんだよ!!」

「そんなに金が大事か、今だって直ぐに金の催促してきやがって!」

「あぁ、大事さ。金があれば好きな物も女も全てが思いのままだ、なんだって叶えられる。あの頃の貧乏な生活なんて、死んでもごめんだね」


そう言い切った瞬間に、視界を覆うかのように何かが飛んできた。その衝撃に理解が追いつかなかったが、良く見ると強く震えるほどに握られた拳が下へと垂れ下がっている。


後から激しい痛みが左半分を包み込み、反射的に手で押さえる。


「気が済んだかよ」

「こんなもんで済むわけねぇだろうが!!」

「付き合ってられっかよ、俺は帰るぞ。金は直ぐに振り込んどけよ」


そう言いながら荷物を手に取り、部屋を出ていく。扉を閉めた瞬間に唸るような叫び声がこちらまで聞こえてきて、中からは荒れ狂うように何回も激しい音が鳴り響いていた。


(金なんだよ、全部。世の中……)


そう呟き、頬を押さえながら車に戻っていく。本当に心の底から会いたくなかった、そう悔やんだってあの日に戻る事は出来ない。


それでも最後に、俺とバッテリーを組んでくれてありがとう。


最高に気持ちよかった。


その日家に帰宅した俺は、野球に関する全ての荷物を押し入れの奥へとしまい込んだ。もう二度と関わる事はしないと。


数日経って入金確認もできたら、助っ人募集用のやり取りしていたアカウントも全て削除。


綺麗さっぱり、全てを断ち切る事にした。


俺の人生から野球という存在が無くなっただけで、何も困りはしない。今は会社での地位もあるし、ほんの数回の助っ人とはいえ、それなりには稼がせてもらった。


仕事の方でも福井様にはある程度条件も伝えた上で、返事も保留となって社員全員から見守られているような状況だった。


相手が神崎とはいえ、決して悪くない条件で社内決裁を取れたことに胸を撫で下ろしていた。それ程に会社としても本気なのだと、再びふんどしを締め直されたようで気合も入る。


助っ人のお金と、福井様への条件提示が重なったその日の夜。いつもいきつけの居酒屋へと、顔を覗かせていた。


「大将、久しぶりです」

「おお。まー坊じゃねぇか、入れ入れ」

「カウンター失礼しますね」

「あれお前、今日は一人か。寂しいねえ」

「女性と来るならもっとお洒落な店にしますよ」

「うるせぇよ」


ここは赤提灯が表を彩り、店内にはカウンターとテーブル席が多くもない数並べられている。大将一人で切り盛りするには十分な広さで、俺が初めて買い取った跡地に店を新しく建ててオープンさせた場所だった。


とても気前のいい大将で、厳つい顔つきとは裏腹に人を見る目はあるようで一挙一動にも敏感に反応し話を聞くのが上手い。そのおかげか、俺も含めた常連からの信頼もとても厚い。


「賑わってるようで何よりですよ」

「おかげさまでな。まー坊はいつものか?」

「そうですね、あといつになったら坊は取ってくれるんですか?」

「ははっ、生意気言うなや。俺にとってはあれだけミスを重ねたまー坊は、ずっとまー坊だよ」

「あれから成長しましたよ?厳しいな〜」

「まだまだケツが青いよ、ハッハッハ」


そう笑う大将の不躾ながらも、悪気のない本心で相手を思いやった言葉はいつも染みる。この店の明るい雰囲気と、美味い飯に程よく馴染む酒がいつも心地良いと感じさせてくれる。


「そういえばまー坊、元気ねぇな」

「そんな事ないっすよ、返事待ちの商談があって気が気じゃないだけですよ」

「本当にそれだけか?…何かあっただろ」


その言葉に思わず泣き言を言いそうになるが、手元に握られた酒で流し込んで抑え込む。

これだけはいくら大将であっても話すことは出来ない、理解はされても共感はされないだろう。


俺が犯した罪と、それに伴う結果は。

見事に釣り合いが取れなかったのだから。


「ならいいけどよ、何でも言えよ。まー坊なんだからよ」

「なんですかそれ。でも、ありがとうございます」


その、寂しげな表情は良心を少し抉り取る。


ごめんなさい、大将。これだけは言えないです。


そうして束の間の幸せを噛み締めながら、他愛もない話をカウンター越しに交わし続ける。気がつけば閉店時間にはまだまだ遠いが、入店してからそれなりの時間が経っていた。


大将と再び挨拶を交わし、会計を済ませる。


店を出ようと引き戸に手をやると、開けるよりも先に外から誰かが開けてきた。慌てて少し後ろに下がり、会釈をする。


三度目だった、なんでまたここに。


目の前で立ち塞がるようにしているのは、あの神崎だった。


俺は流石にこの店先で事を荒らげたく無かったので、何も言わずにこちらを睨みつけ動かない神崎の隣から立ち去ろうと通り過ぎた。


「こんなとこで節約ですか、金の亡者は」

「なんだその言い方は」


その言葉に引っ掛かり、歩みを止める。


「美味い飯でも何でも思い通りの一条様が、こんな場末の居酒屋で晩酌ですか」

「関係ねぇだろうが」

「あれ?傍に女でも侍らしてるのかと思いましたが、さみしく一人なんですね。そりゃ、金に汚い男に寄ってくる女なんて知れるわな」

「お前に関係ねぇだろうが!!」


怒号を上げると和やかだった店内が一変、声が掻き消えて視線がこちらに集中する。それでも俺は構わなかった、どれだけ悪口を憎まれ口を叩かれようがこの店に矛先を向けられるのは我慢ならない。


「はっ、金の亡者様が金にど汚い。本当のことじゃありませんか?」

「おい神崎、酔い過ぎだぞこれ以上はやめろ」

「止めないでくださいよ社長!」


先日見た大柄な社長が、制止をしようとしている。確かに顔は赤らんでおり、目も虚ろになっているように見える。


「こちとら見たくない面を三回も、それにあいつに案件取られたりと散々なんすよ!!」

「おい、声が大きいしここで言う話じゃないだろうが」


案件、一体何の話をしているのか理解できずにいたが震えているスマホの画面に福井様の名前が表示されその意味が飛び込んできた。


「はっ、ざまぁねえな。落ちこぼれ営業マン」

「てんめぇ……っ」


社長と呼ばれていた人の腕を振り切りこちらに向かって殴りかかってきたが、足元のおぼつかない酔っ払いの拳を避けるのは容易く身をかわしながら、遠くへ抜けていった神崎を目に店を背にしながら向き直る。


「避けてんじゃねぇよ、クソ野郎が」

「語彙力もなければいよいよ落ちこぼれだな」


そうして再び殴りかかろうとしたところに、反撃を噛まそうとすると後ろからガタイのいい男性に羽交い締めにされた。神崎も同じように、社長が体で抑え込んでいる。


「離してください、誰ですか一体!」

「あらぁ、結構いい体してるじゃない。喧嘩なんかに使うのは勿体ないわよ?」

「おい郷田、そのまままー坊を抑えとけ」

「誰が郷田じゃい、マリンって呼べや!」


その野太い声に、別の意味で体が硬直して身の危険を感じる。先程から異常なほどに密接した郷田と呼ばれていた人の体は剥がすことが出来ないでいた。


そうしていると、神崎が言葉にならない叫び声を上げてこちらを睨みつけていた。


「すみません、皆様。このお詫びは後日しますので、ここで連れて帰ります」

「社長っ、ぶさけんでくださいよ!」

「いい加減帰るぞ!!」

「親が親なら子も子だな!死んじまった母親が可愛そうだよ!」


そう言いながら、夜の街へと異様な二人組が姿を消していく。残された俺も体の力を緩めて、もう暴れないと伝え解放される。


「ご迷惑をおかけしました」

「私は全然いいのよ〜、む・し・ろ。久々のいい体に火照ってきちゃいそうよ」

「郷田もからかってないで席に戻れ」


そう言いながら大将が後ろからお盆で頭を叩き、再度マリンって呼びなさいと言いながら席に大人しく戻っていった。


「まー坊。中、入るか?」

「いえ、今日は…すみません」

「まぁ、なんだ。人生色々あるさ、帰り道には気を付けてな」

「はい、また後日お詫びに来ますので」

「気にすんなや、また飲みに来い」

「ありがとう、ございます」


深いお礼を残し、俺は帰路につく。

帰り道、福井様からの着信を思い出して折り返しをすると神崎の言っていた通りで売却先を俺に決めてくれたという電話だった。


電話越しなので、勢いよくガッツポーズをして今後の打ち合わせを軽くして電話を切る。

一人の夜道、言いようのない高揚感だけが残されて月夜の道標が優しく家まで伸びていた。


二度あることは三度あると言ったもので、その先はないのが不安になるが今は気分の良いままに家のベッドへと飛び込む事だけを考えて足取り軽く、鼻歌交じりに歩いていく。


翌日からは会社の報告と、買い取りの段取りを進めていき慌ただしい日々が続いていた。しばらく大将の居酒屋にはいけてないしこりだけを胸に抱きながら、目の前の仕事を終わらせていく。


そうして迎えた契約当日。


福井様とはあの日以降電話のやり取りのみが続き、久々に会えるかと思っていたが。当日、指定していた銀行の会議室に来られたのは息子を名乗るスーツ姿の若い男だった。


どうやら福井様の妻が急病のため、代理できたと話す。

その男は鞄から取り出した書類を提示し、中には本人確認書類と血縁関係を証明する公的な書類が出揃っていた。


「すみません、父からこれを出せと言われてまして」

「いえいえ、大変な時にすみません。確認させて頂きます」

「捺印書類も必要だと聞いていますので、実印も持ってきております」

「かしこまりました、念の為ですが。本人様、お父様と直接連絡しても宜しいですか?」

「えぇ、大丈夫です。今の時間なら……まだ電話は繋がると思いますよ」


そう会話を続けながら少しの不安を募らせると、俺はスマホを手に取りながらその場を離れて電話を掛ける。


数回のコール音が鳴った後、『おかけに鳴った電話番号は、現在電話に出られません…』とアナウンスが流れ、急に抱いた不安は更に膨らむ。


少し待ってみるが折り返しが入ることはなく、息子と名乗る者のへと戻ろうとした時、突然鳴り響いた着信音に心臓が破裂しそうになる。


慌てて電話に出ると、電話口は確かに何度もやりとりをしていた福井様だった。

状況を擦り合わせるが間違っている部分は無く、むしろ電話に出れない点や立ち会えなかった事を何度も謝ってくる。


その言葉に、膨らんでいた不安は少しずつ萎む。


手に汗を握りながら、電話を切って俺は再び部屋に戻る。


「確認が取れましたので、契約を進めましょう」

「ありがとうございます。こんな大きな金額が動きますから、慎重になりますよね」

「お気遣い頂き、ありがとうございます」


そう言いながら、捺印書類を何枚か交わしていく。が、怪しい点や間違い等がないか何度も確認をして、全ての書類が出揃った時に深い安堵を覚える。


契約は何度か行っているが、この瞬間だけはマウンドに上がったような張り詰めた緊張感を感じずにはいられない。


向こうも同じなのか、固唾を飲み込みながらこちらに視線を送っていた。



「ありがとうございます、それではこちらからの支払い手続きに移らせていただきます」

「すみません、ありがとうございます」

「今回は福井様の強いご要望と条件があった為、現金でのお支払いとなります。お間違いなかったでしょうか」

「ちなみに現金の理由とか聞かれてました?」


最後の最後にカマをかけてみる。

これだけ大きい取引だ、慎重な位が丁度いい。


「えぇ、あまり大きな声で言えないんですけど。父は銀行から何度か裏切られた事があるみたいで、それ以降全てのお金は自宅に保管するように徹底してるみたいで……ってあれ。これ言っちゃ不味いですよね」

「いえ、私は何も聞いておりませんので」


自宅に大金が眠っていると言うようなもので、聞いた自分が言うのもなんだがそれを口にしてはいけないだろうと笑いそうになる。


これでも一営業マンとして、一人の人間として口は固いチャックで閉めきる。


そうして現金の用意をして、目の前に並べた。


「今回の契約金額、しめて3億2千万円をご用意させて頂きました。数える際はこちらの機械もご用意していますが、いかがされますか」

「はい、父からは帯があっても信用するなと言われてますので。少し時間がかりますが、数えさせて頂きます」

「かしこまりました、焦らずゆっくりで大丈夫ですよ」

「すみません、ありがとうございます」


ここまで来ればもう安心、銀行に裏切られたと言っていたが流石にそんな事はこの場で起きることはないだろう。頭の中には会社に戻った時の歓声と、仕事終わりの一杯だけが過ぎていく。


「はい、確かに確認出来ました」

「お疲れ様でした」

「お時間取らせてしまって、ありがとうございます」

「いえいえこちらこそ、この度は貴重な土地をお譲り頂きありがとうございます。私どもがしっかりと大切に、使わせて頂きますのでご安心ください」

「はい、父にも伝えておきます」


そう言いながら足早にお金をケースに詰め込み、この場を去っていった。


俺は銀行の人たちにも挨拶を交わし、逸る気持ちを抑えながら外に出て会社へと報告を上げる。電話口からは喜びの声が聞こえており、こっちも嬉しくなってくる。


大切な書類を抱えたまま、車へと乗り込む。


すると外には別件で来ていたのか神崎の社長が車から降りる所で、目が合った瞬間気まずそうにこちらへ向かって会釈をしてくる。先日の件で何か言われると思ったが、足早に何処かへと歩いていった。


お互いに仕事中なので気まずいのだろう、そう考えながら会社に向かって車を走らせたが、あの会社からもぎ取った案件だと再び思い返す事が出来て、更に気分も良くなる。


スマホから好みの曲をかけて、鼻歌交じりに車を走らせ続けていく。


会社に戻って直ぐに書類の手続きを済ませて、一連の報告も済ませる。ボーナスも間違いないと上司から告げられ頭の中で金の計算をしてく。今回は、いつもより多くなることは間違いない。


押し入れの中の断捨離も兼ねて、また引っ越しでもしようかと考えながらパソコンを開いて住宅情報に目を通していく。


この日の酒はいつも以上に美味く、格別だった。昔のことなど毛ほども思い出すことなく、至上の喜びと未来への期待に酔い浸っていく。



そうして数日経ったある日、休み明けに会社へと出社するといつもと違った空気を肌に感じる。

何処か慌ただしく、簡潔に言えば異常だと。


「おい一条、ちょっと来い」

「は、はい」


久しく聞いてなかった上司から出る気迫の込持った声に背筋が伸びる、もしかして書類の不備を見落としていたのかと不安を抱えながら歩いていく。


「何かミスでもありましたか?」

「福井様の案件だよ」

「も、申し訳ございません。すぐに訂正か、訂正書類を貰いに行きます」

「そういう問題じゃねぇんだよ!!」


そう言いながら上司は机を強く殴りつける。

鈍く響くその音は全員の視線を集め、全身から血の気を抜き去っていく。


その表情と声に、最悪の考えが頭をよぎる。


「お前はやられたんだよ」


止めてくれ、その先は口にしないでくれ。


「名義変更が出来ないってよ」

「何かの書類の間違いでは」

「すべてデタラメなんだよ!!」


そう叫ばれながら、書類を投げつけられる。

散らばった書類を拾い上げていき目を通す。


「そんな、何かの間違いでは」


そう言いながら慌ててスマホを取り出し電話を掛けてみるが、続く音声案内に心臓が握り潰される『おかけになった電話番号は現在使われておりません』。


「騙されたんだよお前は!!」


あの日感じていた萎んだはずの不安が、急速に膨らみ上がっていき頭の中で弾ける。


「どうしてくれんだお前、3億だぞ!!」


この世界にタイムマシーンがあれば、あの契約直前に戻りたいと切に願わずにはいられない。いや、本当にそんな物があればもっと過去に。


「何とかいったらどうなんだ一条!お前、この状況分かってんのか!!」

「申し訳…ございません」

「謝って済む問題じゃねぇんだよ、3億だぞ…」


そう言いながら上司は頭を抱えたまま机に突っ伏して崩れ、俺も呆然としたまま立ち尽くす。


こんな大金、決して払うことが出来ない。


頭の中には幾らかの賠償や、解雇宣告が全ての思考を遮るように騒ぎ立てる。


辺りを見渡すと、周囲はざわつきながら目線を逸らす。


「社長に朝一から呼ばれてる、行くぞ」

「はい…」


社長室に入るなり、それなりの上席達がその面々を揃えていた。俺は震える体を必死に抑えながら扉を閉めて立ち尽くす事しか出来ないでいる。


激しく飛び交う怒号に、息が詰まりそうになる。心臓はすでに止まったかのようで生きた心地がしない。


隣では上司が地面に頭を伏しながら、何度も謝罪を述べていたが慌てて同じような言動をオウムのように繰り返す。


時間の感覚はなくなり、解放された時には立つことさえままならなかった。


「おい一条、分かっていると思うが俺は庇えないからな」

「…はい」


その言葉が意味するところは、容易に理解できる。互いに自分の身を守ることで精一杯になり、庇っている余裕など持ち合わせていない。


取り敢えず警察署へと向かい事件のあらましをそのまま伝えに行くが、そこからの記憶は何も残されていない。


どうやって行ったのか、誰と行ったのか。

警察に対して何を説明したのか。


会社に戻ってきた時には自宅謹慎を言い渡され、私物だけを段ボールに詰めて渡された。


荷物を載せて走らせる車内でハンドルを握る手もあやふやになり、気がつけばあるお店の近くに駐車して車から降りていた。


虚ろなまま引き戸を開け、中を覗き込む。


「おう、まだ開店時間じゃ……まー坊じゃねか!どうしたこんな早くに」

「ははっ、大将すいませんいいですか?」

「死人みたいな顔しやがって、開店準備で散らかってるが中に入りな」

「すいません」


そうしていつものカウンターへと腰掛けた瞬間、全身の力が流れ落ちていくかのように何もかもを失って、残されたのは頬を撫でるような涙。


「おいおい、何かあったのかよ」

「いや、すいません。何でも…すいません」

「……とりあえず呑むか?」

「はい」


そうして大将は奥から一升瓶を持ち出し、猪口を2つ目の前に並べる。それを眺めていると準備の手を止めた大将が隣に座った。


「今日は貸し切りだ、気にせず呑め」


そう優しく言いながら2杯猪口に、透き通るようなお酒を注いでいく。


貸し切りと言う言葉を断ることは出来ずに、ただただありがとうとだけ泣きながら告げる。


そうして一杯目を口元へと運び込み、空いた場所を埋めるかのように流し入れていく。


「実は…」


今日の出来事を、洗いざらい吐き出していく。その間も呑み続ける手は止め方を知らないかのように運び続けていた。


「そうか」


大将のその一言は何よりも優しく感じられた。

罵声はもう幾度となく浴びせられ続け、中途半端な慰めは時として凶器となる。


「細かいことは俺には分からんが……何があっても、死ぬなよ」

「し、いや…そんな事考えませんて」

「生きてさえいればやり直しは出来る、絶対にそれだけは忘れるなよ」

「大将…」

「俺だって家族を火事で失った時は…いや、すまん。この話はいいや」


聞き返すことはできなかったがその言葉には確かな重みがあり、その理由がほんの少しだけ垣間見えた気がする。


それだけの事がありながら、この人は行き続けている。絶望からの立ち上がりを、その身をもって経験しているのだと。


漂う空気に目線をそらすこともできないでいると、急に雰囲気を切り替えたように笑い声を上げ、背中を何度も力強く叩き続けた。


その声と熱を帯びた背中の痛みは、酒で満たされそうになった心の中を掻き回しながら大粒の涙として流れ落とされていく。


程よい塩気がきいた透明な酒を呑み干して、翌朝目覚めるまでの記憶を全て置いて帰る。


いつものベッドとは違う見知らぬ場所で目が覚める事となり、起き上がろうとするが重石がのしがかった体は言うことを聞かず、頭が割れそうな程の激痛に見舞われる。


吐き気を催したまま近くにあったゴミ箱に顔を埋めるが、吐き出されるのは伸び切った唾だけ。喉は渇き、体の中に何も残っていない事を物語る。


突然鳴り響くアラーム音でスマホの場所を予想し、外の明かりとともにおおよその時間を把握する。


対象の店に入ってからの記憶はなく、こんな状態になるのは数年ぶりだと思い返す。


服装は昨晩のままで、荷物はベッドの上に乱雑に置かれていた。虚ろな眼で全てかき集めて、失くした物が無いことに安堵する。


よくよく見渡せばホテルの一室のようで、その大きさから何処かのビジネスホテルに泊まったらしい。昨日は車で店まで向かっていたので、酔ったまま運転して帰らなかった自分を少し褒めたくなる。


頭を押さえ体を引きずるようにして、部屋をあとにして半信半疑ながらもチェックアウトを済ます。フロントマンは慣れた手つきで精算を進めているようで、財布から取り出したカードを差し出しホテルを出ていく。


照りつける太陽は憎らしく、踏み出す一歩を阻害してくる。ただ、コインパーキングに置きっぱなしにした車を回収しないことには、家に帰ることは出来ない。


スマホで現在地を示すと、そう遠くない場所を指す。何とか指示の通りに体を引きずりながら、見つけた車内へと乗り込む。


そうしてこの日は、何とかして家まで帰り泥のようにベッドの上で再び眠りにつく。


次に目覚めたのは、スマホの着信音だった。反射的にそれを握り画面を触って通話を開く。少し気分も冴えていたのか、電話口の声が誰なのか、その内容がどんなものなのか理解できてしまった。


「そんな、嘘ですよね」

「すまんな、言ったろ。俺には庇うことはもうできないって」

「今までどれだけ」

「それ以上に会社の評判も、お金も。何もかもがお前の一件で傾いたんだよ」

「俺、これから仕事なしでどうやって」

「お前なら引く手数多だろ、何とか」

「いやいやいや。変に顔と名前も知れ渡ってますし、今回の一件だって」

「言ったろ、残るなら左遷。辞めるなら自主退職、左遷といっても…な」

「そんな……」

「取り敢えず、お疲れ様。幸いな事に荷物は全て引き渡したからな、よなったな」


そう言い残し、無残にも通話は切られる。静かな部屋の中で無機質な音だけが鳴り響き、俺は手に握っていたスマホを勢いよく壁に向かって叩きつける。


「クソがぁぁあ!!」


叫ぶ声も虚しく、空に消えていくだけ。


最悪の結果の一つとして予測はしていたが、ここまで早くに動かれるとは思ってもみなかった。それだけ、今回の一件が会社にとって重荷になるんだと、理不尽ながらも突き付けられる。


金の切れ目が縁の切れ目。


人生で二度目に訪れた切れ目は、この先の人生すらも断ち切ろうとしているようで。音の無いこの部屋の中でただ一人、行き場のない怒りと焦燥感を抱きながら崩れるように倒れ込む。


そこからは生きる気力を失いながら、クラゲのように部屋の中を無気力な意識だけが漂う。だが、人の体は欠陥品のようでこんな状態でも無情な空腹が襲ってくる。


流石に何も食べずにいるのは苦しいもので、出前を頼みながら何とか意識を保ち続ける。


そうして実質上のクビを宣告された日から同じ曜日を迎えた頃、流石にこのままでは駄目だと履歴書を買いにコンビニへと歩き、部屋に戻って今までの経歴を書き連ねる。


働きたいとか金を稼ぎたいとか、そんな動力でこの体はもう動かせない。あるのはこのまま預金が底を尽きれば待っているのは、今以上の絶望。


そうなる前に手は打ちたい。


幸いな事に経験を活かした職種は幾つとあると思っていたが、履歴書を出した端からお祈り連絡が入り続け10社を超えた辺りから履歴書を書く手すらも止まる。


「なんでだよ、くそっ。くそくそくそくそ!!」


机の上に散乱していたゴミやペンなどを全て投げ飛ばす、気がつけば部屋の中は酷い状態でここで生活しているのが嘘のようにも思える。


これがただの夢なら、どれだけいいか。


恐らくは今回の一件が同じ業界で知れ渡っているのだろう、人の口には戸が立たないもので情報が瞬時に広まるのは想像できる。


ライバル会社からすれば、恰好のネタになる。


そう考えれば率先して動いているのは神崎だろうか、あいつならこの好機を逃しはしないだろう。昔から相手の苦手なコースを読むのが上手く、何度も助けられていた。


それが相手に回ればと、頭の中で自然と組み立てられていく。


もういいや。そう漏らしながら家を出て、当てもなく歩いていく。少し涼しくなり始めたこの頃の夜は、過ごしやすくなったと笑えていたのだろう。こんな状況に、ならなければ。


気がつけば足が向いていたのは近くの運動場で、明るいうちなら小学生達が野球の試合をしている所を何度か見かけたことがある。


未練、後悔。


交互に踏み出す言葉が道筋を作ったようで、暗闇の中でも僅かな明かりが広がるこの場所を目にしにら物思いにふけてしまう。


「見つけたぞ、一条」

「なんだ、嘲笑いにでも来たか」


背中越しでもこの声の主が誰かは容易に想像できる、四度目は一体何と呼べばいいのだろか。


「そうだな、お前を心底嘲笑ってやりたいよ」

「わざわざここまで来てか、仕事の営業マン様はどうやら暇らしいな」

「お前ほどでもないよ」


精一杯の皮肉ですら哀しく思えてくる。

今は何を言ったところで、ただの笑い話として吹聴されるだけなのだから。


「嘲笑いたきゃ笑えよ、お前に大見えきった結果がこれだからな。何も残っちゃいないよ」

「なんであの日、俺たちを裏切った」

「関係ないだろ」

「良いから答えろ、なんでだ」


振り返った視線の先には以前とは違って冷静に、本心を探るような言葉を投げつけてくる。思えば学生時代もこうやって何度か追い詰められたことがある、指示通りに投げなかったりした時が鮮明に思い出せる。


「金だよ、言ったろ」

「その金は何の為だ」

「何度も言わせんなよ、金さえあれば」

「ふざけんなよ!良いから答えろ、何の為の金だ」


ずっと黙っていたことがある。

言ったところで結果を変えれるものではなかったので、真実を抱いたまま俺は最悪の投手として記憶から消されていくように。


それを一番に強く願ったのは、神崎だ。


「…知ってるか、命は金で買えるんだよ」

「母親のことか」

「お前らにはどうしようもない病気だって話してたろ?実際にはさ、金がなかったんだよ」

「そんな事はありえねえだろ」

「ありえるんだよ、日本では症例が殆どない希少な癌らしくてな。海外ならその治療に臨めると」


初めて答えるあの日の真実。

何処からか聞いたのか、相手高校の監督が試合前日に〝必要な金をよこすから、明日の試合は上手く負けろ〟そう突きつけられていた。

自分を追い込んで訳がわからなくなる位には悩んだが、最後に選んだのは母親の笑顔だった。


「その為に俺は、負ける事を選んだ」

「でも、お前の母親は…」

「死んだよ、金も間に合わずに俺を残して」


人けのない夜の雰囲気は、俯く俺たちを呑み込むように感情を消し去っていく。


「何で言わなかった」

「言ったところで何にもならねぇだろ」

「言ってくれてたら、ここまでお前を憎むことも恨むことも無かっただろうが!!」

「お前とは二度と会うつもりもなかった、だからこんな離れた土地まで来たんだよ」

「それが全てか」

「そうだよ、馬鹿野郎だよ俺は。チームを裏切って金を受け取ろうとして、それでいて母親も救えなかったんだからな」

「それは……」


必死に言葉を探しているんだろうが、慰めの言葉はいらないよ。俺はお前らに許されないことをした、数年越しにその報いが訪れただけなのだから。


だから、そんな顔するなよ。神崎…。


頼むから。


同情なんてしてくれるなよ。


「満足だったか、お前は」

「残ったのはほんの少しの金だけだよ」

「違う、俺たちとの甲子園だよ」


その言葉に思わず空を仰ぐ、思い返せばこの数年間幾度となくあの日の夏を思い出していた。忘れようと仕事と金に溺れながら、それでも気がつけば夢にまで出るようになっていた。


それは、決まって最後のグラウンドを。


「今なら満足だよ、心から楽しかったって」


この言葉に嘘は交えてない。仕事でも辛いことは何度もあったが、高校三年間を野球に費やした日々は確かに心の支えとなっていた。


今を幸せに生きないと、本当の意味で全てを失ってしまいそうで怖かったから。


「あの時は平気だったのかよ」

「平気なわけねぇだろう…」


そう、絞り出すような呻き声で答える。

何度も何度も他に方法は無かったのかって、最低最悪の考えとして母親の命が繋がるかもしれないその手を振り払って最後まで本気で挑めばよかったんじゃないかって。


「そうか、それが全てか?」

「今さら何もない」

「……何年経った、俺たち」

「さあな、数えちゃいないよ」

「この前の試合さ、懐かしくて楽しかったよ」

「ごめん、俺も」

「……そうか、そっか」


そうして俺達は夜空の下、泣きながらぐちゃぐちゃに崩れた笑顔で笑い合っていた。こんな事で遺恨が消えたとは思っていないがそれでも、ほんの少しだけ歩めた気がする。あの頃互いに切磋琢磨しながら、たったの一球を完璧なものへと昇華するように追い求めた日々の様に。


気がつけばグラウンドのベンチに腰掛け、その側には空の缶ビールが何本も積み上げられていた。


失った数年間を埋めていくように、互いに罵り合いながらも今まであった出来事を大声で話し上げながら深い夜を越えていく。


「もうこんな時間か」

「本当だな、ごめんな。この後仕事だろう」

「お前は……あっ、ごめん。そっか」

「いいって、自業自得だよ。確かに怪しい点は何回かあったからな」

「お前さ、俺と一緒に…」

「やめろよ。その先の言葉は不要だ」

「でも、お前」


立ち上がりながら体を伸ばし、顔を覗かせようとしている太陽に目を瞑りながら手で遮るようにして考える。今言おうとしている言葉は、神崎にも大きな迷惑をかける事は分かっている。


これ以上はもう、関わって欲しくなかった。


「いや、そっか。そうか…」

「ありがとうな、こうして時間をくれて」

「遅えよ、全部」


差し込む朝日を挟むようにして握手を交わす、これが最後なら良い終わり方だと思う。万が一にも次があればその時は、今の状況を何とかしておきたい。


「じゃあな一条」

「じゃあな神崎」


別れた後は真っすぐに家へと足を動かしていき、ほんの少しだけ軽くなった足取りはこれからの期待を積み重ねていくようで、どうにかなりそうな気もしてきた。


しばらく就職活動は続けながら、未経験の職種にも積極的な応募を続けていた。その甲斐あってか書類選考だけで落とされる事も少なくなり、実際に面談までこぎつけることも出来ていた。


ただ、採用通知を貰うまでには至らない。


あの日から数日経った頃、一本の電話が鳴る。


見知らぬ番号に何処か応募を出した企業かと、覚えがないながらも出てみる。


「もしもし、一条ですが」

「来週の日曜日、10時に来てください」


突然名乗りもなくある場所に来るようにと言われ、それは前に神崎の会社へと助っ人に行った野球グラウンドだった。何となく聞き覚えのある声ではあったが最後に、〝セイイチ〟の名前を呼ばれたのでそれは確信に変わる。


「おい神ざ…」


言葉を断ち切るように、電話を強制的に終わらせてきた。


生活費を稼がせるつもりかもしれないが、施しを受けるようで嫌になる。だが、それを断れない程に今の状況は追い詰められている。


苦虫を磨り潰すように噛み締める。


画面が割れたままのスマホを机に置き、押入れの方へと目を向ける。あの日、野球を断った日からずっと押入れにしまい続けていた。いつか捨てようとしても、ずっと捨てられずに残していたものを。


ここに引っ越して来る時ですら、一緒だった。


試合までの日は、遠足を待ち望んでいる子どものようにあっという間に迎える事となり眠れない夜を過ぎて朝を迎える。


前日までしまい込んでいたバットやグラブを引っ張り出して、両手に抱える。いつもの様な朝が再びやって来ると、これだけの事で俺の気分は高揚してくる。


車のエンジンと共に、自身にもエンジンをかけて約束の場所へと向かって走らせる。軽快で、運良く信号にも引っかからないこの道は俺自身を表しているかのようで誰にも止められなかった。


着いた場所には前回と違って神崎が駐車場で待機し、こちらを見るや駐車する最中も隣で待っている。この距離感がほんの少しだけ、薄気味悪く思えてくる。


一体何を企んでいるのだろうか。


「遅いぞ」

「遅いって、約束時間までまだまだあるだろ」

「いいから来い、支度を整えろ」

「ちょっと待てって。何で急に」


試合に助っ人として出るのは吝かではないが、どうしてもはっきりさせておきたかった。

何で俺を呼ぶことになったのかと。


「理由は幾つかある」

「それは?」

「まず第一に、今回の試合で賭けているものが絶対に負けられない内容」

「それは前と同じだろう」

「第二に、この試合で勝てばうちの社員として雇ってくれと条件をつけてある」

「おまっ、そんな事頼んで…」

「そして最後、お前とバッテリーを組みたい」


その声と表情は清々しいもので、何かを吹っ切れたようにも感じられ懐かしい顔つきが戻っていた。昔の俺なら想像もできなかっただろう。


「何言って…」

「あ、もうひとつ。今回は金銭の報酬は無しだ」

「はぁっ!?え、ちょ…おい!」


せいぜい頑張れと言わんばかりにユニフォームを押し当てるように渡し、高らかに笑い声を上げながら施設の方へと向かって歩いていった。


心の中で〝ありがとう〟と、そう呟きながら胸に抱いたユニフォームを力強く握り締めながら後をつけるように歩いていく。


集められていたのは前回と同じ面子で、先日から度重なっていた騒動について深く謝罪をするも神崎から事情は聞いたので気にするなと、優しく肩を叩かれながら受け入れてくれていた。


社長にも再度お礼を述べ、今回の試合に関しても本気の意気込みを伝えておく。


そうして前回と同じくして、ウォームアップを始め試合開始の合図が言い渡される。


夏の熱気は冷めやまないとはいえ、少しばかり動きやすい気温にはなりコンディションとしても申し分ない。正直、負ける気など起こらなかった。


前回とは違い、先攻での始まりだった。

迎えた初回は短時間で交代を迎える事となってしまったが、こちらも相手を空振り三振にて、三者ともに打ち取ることが出来た。


「ナイスピッチング」

「お互い様だろ」


お互いのグラブを重ねるように叩き、味方ベンチへと足軽に戻っていく。たが、再度迎えた攻撃は三者凡退にて終わる。


こうなれば、俺の投球にもかかってくる。


そうして帽子を被り直し、再びマウンドに上がる。しっかりと前を見据え、神崎と呼吸を合わせるようにして流れを整えていく。


バットを振りながら入ってきた打者は、軽く会釈をしながら構えを取る。が、そのヘルメットから覗かせた顔に、思わず言葉を失って球を落としてしまった。


目の前にいる四番打者は。


福井の息子を名乗る者だった。


高鳴る鼓動に体は抑えることができず、何故最初の挨拶の時に気づかなかったのか自分を恨みたくなるがそれよりも、今回の元凶が目の前にいる。


その様子を察したのか、神崎がタイムを宣告してこちらに駆け寄ってくる。その隣で笑みを浮かべる福井に思わず殴りかかりそうになる。


「てんめぇ」

「抑えろ一条、気持ちは分かるが」

「お前はあいつがどんなやつか、この試合の相手がどんなやつか分かってんのか!!」

「分かってる、分かってる上で試合を組んだんだよ!」

「どういう意味だよ」

「この回が終わったら説明してやる、今はあいつのこの後の二人を打ち取れ。いいな」 

「……絶対だからな」

「分かってる」


そう言い残して、元の位置へと戻っていった。再び放たれた『プレイボール』の合図と共に、球を握る手に力が込められる。


これをぶつけてやろうかとも考えたが、また神崎を裏切るわけにはいかない。


今はただ、言われた通りに。


そうして放たれる一球、見逃しストライク。


こちらを嘲笑うかのような視線は、確実に俺のことを認識しているようだった。その顔を歪めてやると、さらに強く腕を振り下ろす。


迎えた【ツーアウト ワンボール】。放たれた四球目は、見事に空振り三振をもぎ取った。


俺は、はやる気持ちを抑えながら必死に堪える。


その後も見事に三者三振に打ち取り、神崎の元へと駆け寄りながらベンチへと戻っていく。


「おい、説明しろ」 


ベンチに戻りながらも奥の方へと身を隠すように移動していき、周りの人も察したのか何も言わないでいてくれ味方の応援を続けていた。


「今回のこの試合、賭けてるものがある」

「もったいぶるな」

「こちらからは五億の現金と土地の詐欺を行ったグループの情報提供、相手からは同じく五億の現金と……お前の身柄だ」

「お前っ、裏切りやがったな」

「いいか、よく聞け。これに勝てば詐欺グループの情報が分かりお前の状況も一転するかもしれねぇんだぞ」


この試合がかなりの現金と権利をかけて行われているのは知っていたが、少し現実離れした内容に理解が追いつかなくなりそうだ。


「ならなぜ黙ってた」

「言ったらお前、試合どころじゃなく暴れ回るだろうが」


確かにその通りで、すぐさま警察に電話するなりして試合前に全てをぶち壊していたかもしれない。


「この試合は、裏野球とは言え誰もが一度定めた賭け事には何が何でも応じる。警察を呼んだところでまた逃げられて終わりだ」

「確かに、そうだな」

「だからこそ、場を整えたんだよ」

「何でそこまでして」


言いかけた途中で神崎が指をさし、その先を追いかけるように目線をやると相手チームの人物で、遅れてきたのか先ほどはいなかったようにも思える。


「なんだ」

「よく顔をみろ」

「顔って、誰だよあい…」


記憶が突然呼び起こされたかのように、口を開けたまま指をさしていた人物を思い出す。


「忘れもしねぇ、何であいつが」


そう、甲子園決勝の相手高校の監督でありながら、俺に金銭と引き換えに負ける事を提案してきたその人物だった。


「今は監督として、この界隈を荒らしてるよ」

「なんでこんなとこに」

「噂じゃ、俺らの地元で相当な事をやってたみたいでな。周囲との摩擦で八方塞がりになって、ここに逃げるように流れ着いたと」


呼吸が次第に荒くなって手のひらからは血が滲み出していた、俺を騙して最底辺に突き落とした人物がここに二人も揃っている。


それも、同じ土俵に乗せて叩きのめせる。


「あいつからは前金だけで、後の金は結局払わずに音信不通になってたんだ」

「なんだそれ、あいつがか!?」

「そうだよ、母親が間に合わないことを何処かで聞いたのか〝使わない金は渡す気にもならん、ご苦労でした〟とだけ言い残してな」

「なんて野郎だ」


唇をきつく締め付けながら必死に耐えながら、自分に何度も何度も強く言い聞かせ冷静さを取り戻そうともがく。


『…アウト!チェンジ!』


その声に顔を上げると、両チームが入れ替わるようにしてグランド内を走っていた。


「おい、行くぞ。力むなよ」

「分かってるよ」


顔に出さないようにと帽子を深く被り直し、俺もマウンドに向かって走っていく。


暑さとは別の息苦しさを感じながら、地面を踏みしめて肺に残った息を全て吐き出しながらグラブの中に収まっている球を強く握り締める。


続く七番バッター、気合いのこもった投球は激しい破裂音を響かせながらミットに収まる。だが、相手側グラウンドから覗かせた二人の顔がちらついてしまい、抜けたように放たれた球はバッターによって捉えられる。


頭上を飛び越えたそれはセンターとセカンドの丁度真ん中で跳ね、一塁へと駒を進められてしまった。


【ワンナウト 一塁】


打たれてしまった結果に思わず動揺が走り抜ける、怒りが視界を埋め尽くしそうになったところを抜け目なく打たれてしまったのだ。


「まだワンナウト、一塁!落ち着け!」


そう叫ぶ神崎の声は、よく通る。高校時代もよく、視界が狭くなった時に喝を入れられたものだ。良く見ているなと、昔から感心していた。


続く投球では切り替えて投げ込む事ができていたが、フルカウントになった際に打ち込まれる。


だが、球威はなく内野ゴロにて終わり。一塁二塁ともにアウトとして打ち取り、ゲッツーにてこの回を終えることとなった。



「おい、落ち着けって」

「悪い。気をつける」

「この試合の結果が、どうなるか説明したよな。大丈夫なんだろうな?」

「大丈夫だって、ごめん」


そうして試合は互いに一歩も引かず、【0-0】のまま延長線を迎えることになった。

満身創痍ともいえるこの状況、昔ほど体力が無いのは向こうも同じに見える。少しずつではあるが、ミスの回数も積み重なるようになり迎えたこちらの攻撃では決定的に試合の流れが変わる。


「よっしゃあ!神崎、走れ!!」


空高く打ち上がった神崎の打球はセンターを大きく飛び越えて、フェンスに直撃する。

この回は一塁に走者がおり、ホームに向かって走り抜けていく。それを追いかけるようにして神崎は、三塁で歩みを止めていたが。


投げ返されるセンターからの投球、放物線を描きながらのコースは申し分ない。ホームベースにて構える相手キャッチャーの下へと、吸い込まれるようにして放たれていた。


全員が固唾を飲む瞬間、土煙とともに走者と球が同時に相対することとなる。


緊張の一瞬、視線は食い入るように集中する。


傍にいた審判の両手は左右に大きく広げられ、俺たちのチームから大歓声が上がる。


高らかに三塁ベースを踏みながら拳を突き上げて、この試合初の点数が入ったことに遠からず喜びを分かち合う。この終盤で決めた一点は計り知れない影響を及ぼしていく事となり、俺たちの攻撃は二点差の開きにて終えることとなる。


「一条、抑えるぞ」

「任せとけ」


この回で終わりにしてやる。


そう意気込んだ延長10回戦後攻、初めのバッターは三振で終えたが続く打者にヒットを連発されてしまいながら【ワンナウト 満塁】。


正直、良いとは言えない状況に追い込まれる。


それに、この時点であの四番が回ってくることも確定となっていた。


出てきた打者を、三振にて打ち取るが。


【ツーアウト 満塁】


迎えるは四番。


手に汗を握りながら何度もズボンで擦り球の握りを確認する。軽やかにバッターボックスに立ってきたあいつの顔面にでも、全力で投げ込んでやりたいが。


ここまで我慢して試合を続けたんだ。


ここで終わらせたい。


暑さは少し和らぎながらも、体の熱量は衰えていなかった。流れる汗が全身を伝いながら全身で呼吸を整える。


サインを確認しながら、投球に入る。


続けざまに【ツーストライク】へと追い込んだ。


次の投球で終わらせる、あの日の甲子園のリベンジとはいかないがそれでも、今の状況を打ち壊す一球になるようにと、ゆっくり全身の力を溜め込んでいき前を見据える。


ただ一点だけを目掛けて、腕を振り下ろす。


叩きつけるような軌道はブレることなく、真っすぐに突き抜けていく。


この瞬間、轟くような音と共に唸り声を上げる。


『三振!バッターアウト。ゲームセット!』


駆け寄ってきた神崎と二人で抱き合う、まるで野球に費やしてきた高校球児が甲子園で優勝した時のように。涙はなかったが、お互いに声にならない声で周囲を気にする事なく叫んでいた。


向こうの監督が怒鳴り声を上げながら慌てふためく様子は、見ていて気持ちが良かった。最後の打者もバットを地面に叩きつけ、怯えるようにベンチへと帰っていた。


その様子を眺めていると、その二人が互いに殴り合っているようで神崎も隣で笑っていた。


「やったな、一条」

「ありがとう、神崎」


そして、号令とともに整列をして礼をする。俺は初めて見る光景だが、ここで賭けていたものの譲渡が行われるらしい。


今回は現金五億と、詐欺師の情報。


現金に関しては社長が必死に笑みを堪えながらケースを受け取り、中身を確認していた。その間に、神崎が俺の一件に関する情報を聞く。


その相手は監督だった。


「久しぶりだな」

「誰やお前、しゃしゃり出てくんなや」

「覚えてないか、甲子園の試合で」


あの日の事をわざわざ説明するが、はっきりと覚えてないと言われてしまった。どうやら似たような事をずっと続けてきたので、一つ一つは覚えてないと悪びれる様子もなく淡々と。


「まぁええわ。なんやっけ、あの角の土地の詐欺に絡んだ奴の情報やな?」

「そうだ」

「まぁ、知ってる思うがこの若いやつともう一人、の二人でやっとったわ」


そう指差すのは四番打者を務めていて、あの日銀行でお金を受け取った人物。もう一人とは、土地の持ち主を装っていたあいつだろう。


「ほら、連れてかんかい」


そう言いながらこの男は乱雑に身柄を投げるように渡し、俺が戸惑っていると隣にいた神崎は全てを知っていたかのような冷静さで事を進めていく。


「また、試合しましょうね」

「当分ええわ、流石にここでも荒らしすぎたわ」

「良いですよいつでも、また潰しますから」

「えらい大層な口叩くな兄ちゃん。どや、俺とここんか?」

「冗談を」

「ええやないか、おたくんとこの社長かて同じ狢の穴やないか」

「だとしてもですよ、貴方には虫酸が走る」


二人のやり取りに息をすることも忘れてしまいそうで、張り詰めた空気は全身を凍えさせ、冷えついた汗が背中を伝わせていた。


それ以上は言葉を交わさずに、背中を向けながら去っていく。俺も我に返ったように後を追いかけ、今回の試合についてもう一度問いただす。


「一体どうなってんだよ、これ」

「別にどうってことないよ、誰かが犠牲にならなければいけないんだよ」

「それに俺を呼んでたってことかよ……」


詳しく聞いていくと今回巻き込まれた俺の一件、どうやらどこかで足がついていたのか事件の全容が明らかとなり捕まるのは時間の問題でそうなる前に持ちかけてきたと。

この試合に賭ける5億の現金と、だれかの身代わりを。


向こうに関しては、身代わりどころではないと思うが。


「万が一にも負けてたら、お前」


その話に歩いていた脚を止めて落胆の声で崩れ落ちそうになるが、神崎に裏切られたとしてもそれは因果応報というものなのだろう。受け入れるしかないのだ、この状況を、現実を。


「お前の身柄の引き渡しは嘘だよ、よかったな」

「な、それってどういう」


思いがけない言葉に、俺の気持ちは急転直下の勢いで叩きつけられる。


「あれだけ裏切られてんだよ、一回の嘘ぐらい許せよな」

「なんでこんな嘘を…」

「その方が気合入ったろ。まぁ、負ける気はしてなかったけどな」


屈託なく笑うその顔は、これ以上責める気力を削いでいった。

ただ、それでも一つの疑問点が残る。


万が一に負けた時は、誰が身代わりになっていたのか。


なぜこのチーム同士が試合を組むことになったのか。


その疑問は帰りの車内で明かされることとなる。神崎には一緒に家まで送ってほしいといわれて断る理由もなかったので了承して共に帰路につく。ほんの少しだけ気まずさの残る車内の中で、これといった会話もなく走らせていた頃。


窓の外を見ながらつぶやく。


「なぁ、仕事は見つかったか」

「なんだよ突然、あるわけないだろ」

「そっか、なら良かったよ」

「なんだよそれ」


なんだかんだ言いながら俺が不幸の底にいるのを上から眺めて楽しんでいるのだろうか、その嫌味が詰められた言葉に自然とハンドルを握る手が強くなりアクセルを強く踏む。


「一緒に会社やろうぜ」

「はぁっ!?」


突然の提案に思わずブレーキを強く踏みしめ、その衝撃に合わせるように二人とも体が前へと押し出されシートベルトが強く締まり込んでくる。


「あっぶねぇな、急になんだよ」

「こっちのセリフだよ、正気かお前」

「正気じゃなかったらこんな事は言わねえよ」

「会社ってお前、設立資金はどうすんだよ。銀行か?」

「ほれ」


そう言いながらずっと気になっていたボストンバックを取り出しチャックを開けて中身を見せてくる、その光景に言葉を失い詰め込まれた現金に意識が飛びそうになる。


「おま、これどうしたんだよ」

「今日の賞金一部、退職金と口止め料込みで1億」

「はぁっ!?1億、って、えぇぇっ」

「これだけあれば取り敢えずはなんとかなんだろ」

「いやいやいやいや、だとしても退職金に口止め料って一体……」


先ほどから何度もクラクションを鳴らしながら横を車が走り去っていくが、そんなことは今どうでもよくてそこまで本気なのかと疑いたくなる。でも、その目と表情は嘘をついているようにも思えなかった。


車内でそのまま話し込んでいると。


もう既にあの会社は退職しており、その原因となったのが俺の詐欺事件との事で。本当の黒幕はあの社長と監督らしい。俺が契約したあの日、銀行の近くでその姿を目撃していたのは単なる偶然ではなくて金の受け取りをしていたのだと。


その現場を俺以外の人物と、俺の警察への証言が足がかりになっていたと。


「目撃して密告したのは俺なんだけどな」

「なんでそんな事」

「本当はさ、そのまま何もしないつもりだったんだけど。あの夜のグラウンドで、お前と話して気が変わった」

「そんな事で」

「そんな事かもしれないけど、俺にとってはあの話が聞けて良かったんだよ。どこかで許してしまったのかもしれねぇな」


「神崎……」

「それにあんな事続ける会社に、あの日お前を追いつめて苦しめ、裏切ったあの野郎と結託しているのが気に食わなかった」

「そっか……そうか…」


目の前は潤んで視界がぼやけ前が見えなくなる、これ以上の運転は気持ちが落ち着くまでできそうにない。それを笑いながら叩く背中の手はとても暖かく、さらに視界を見にくくしてきた。


「それにさ、お前と俺なら最強のバッテリーじゃん」

「なんだよ……それ」

「なんでもやれそうな気がすんだよね」


そうして嗚咽しながら泣き崩れる俺の隣で、気持ちが落ち着くまで優しくずっと待っててくれていた。もう駄目かもしれないかと何度思ったことだろうか、これ以上は何しても無理なんだって、落ちていくだけの人生に身を委ねるしかないんだって。


落ちかけた俺を引っ張り上げてくれたこの日は、一生忘れることが出来ないだろう。


この先何年と続く苦難の連続だったとしてもこれ以上の喜びは無いと思える。


お金があれば何でも手に入る、何でも買える。


そう思っていたが、本当に大切なものはお金を失って初めて手にすることができた。


これを決して離さずにこの先の人生を歩んでいこう。


この手に残ったかけがえのないものだけを背負いながら。

ご完読、誠にありがとうございます。


長くてごめんなさい…。


ぜひ次回もお楽しみに。これからも応援よろしくお願いいたします。また次話でお会いしましょう(*´∇`*)

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