436 七日間の恐怖と、感謝の祈り
誰もが不安を抱えながら避難の列に加わる中、山道に沿って白く輝く魔力糸が見えてきた。
その向こう側には、避難する人々を追うように、無数の魔獣が押し寄せていた。
一体の魔獣が魔力糸に触れた瞬間、紫色の光に包まれ、跡形もなく消滅した。
「魔力糸に触れただけで、消滅した……?」
避難誘導にあたっていた魔術協会の職員が、驚きの声を上げた。
「攻撃魔法を発動した様子はありません。魔力糸そのものに、魔獣を浄化する力が組み込まれているのでしょうか」
別の魔術師が目を凝らした。
大型の魔獣が次々と突進してくる。魔力糸はそのたびに大きくたわむものの、決して切れることはなかった。魔獣が何度か衝突すると、紫色の光とともに消滅していく。
しかも、魔力糸は内側を進む避難者に触れることなく、魔獣だけを確実に排除していた。
「衝撃を受け流す柔軟性と、魔獣を浄化する力を両立させている……。しかも、避難者を傷つけないよう制御されているとは。こんな魔術は見たことがありません」
精霊協会の職員も、白く輝く糸を見つめていた。
「魔力糸から、清らかな気配を感じます。魔獣を排除するだけでなく、周囲の魔力まで整えているようですね」
「そういえば、私たちも不思議なくらい疲れを感じません。昨夜は一度も目を覚まさず、朝までぐっすり眠れました」
「私もです。長時間魔術を使っているのに、身体が軽いままです。疲労だけでなく、不安まで和らげているのでしょうか」
魔術協会と精霊協会の職員たちは、顔を見合わせた。
「広範囲を守り、魔獣を自動的に浄化しながら、人々の体調まで整えている……。いったい、どのような理論で構築されているのですか」
「竜神様の愛し子様は、私たちの想像をはるかに超えたお方なのですね。一度お会いして、魔術構築について教えていただきたいものです」
彼らは、竜神様の愛し子様が持つ力の大きさを、改めて思い知らされていた。
しかし、感嘆している時間はない。
「何を話しているんだ! 後方から魔獣の群れが迫っているんだぞ。今は避難誘導に集中しろ!」
魔術協会の代表職員が、鋭い声を上げた。
「皆さん、立ち止まらずに進んでください! 愛し子様の魔力糸が皆さんを守っています。走らず、押さず、前の人との間隔を保って進みましょう!」
職員たちの声に促され、人々は再び歩き始めた。
魔獣の咆哮が山々に響き、地面を揺るがす。
それでも、白く輝く魔力糸は人々と魔獣の間に立ちはだかり、押し寄せる群れを食い止め続けていた。
竜神教会の避難所では、アマン家の使用人たちが到着した人々を迎えていた。
「こちらで休んでください。水も食料もあります。疲れている方は、遠慮せずに横になってください」
高齢者や幼い子どもを連れた家族には、優先して休める場所が用意されていた。
「貴族も平民も、身分を気にする必要はありません。ここでは皆さん、同じ避難者です。困ったことがあれば、遠慮なく声をかけてください」
その言葉に、張り詰めていた人々の表情が少しずつ和らいでいった。
それでも、避難の列が途切れることはなかった。
長く続く列の最後尾では、アマン家の私設騎士団が人々を守りながら進んでいた。
殿を務める騎士たちの周囲には、通常の魔力糸とは異なる、箱型の防御空間が形成されていた。
竜神様の愛し子様が騎士たちのために考案してくださった、魔力糸で作られた防御箱である。
硬化した白い糸が幾重にも重なり、大人が十人ほど入れる透明な箱を形作っていた。さらに、その内側では騎士たちが強固な結界を展開し、二重の防御で身を守っている。
箱は避難者の最後尾を守りながら、ゆっくりと山道を進んでいた。
その様子を見た魔術師たちは、再び驚きの声を上げた。
「魔力糸を硬化させ、移動できる防御空間にしているのですか!」
「外側の魔力糸が衝撃を受け止め、内側の結界が騎士たちを守っている……。しかも、あの大きさを保ったまま移動できるとは!」
そのとき、一体の大型魔獣が透明な箱に向かって突進してきた。
凄まじい衝撃音が山道に響き渡る。
しかし、箱はわずかに揺れることすらなかった。
次の瞬間、魔獣は紫色の光に包まれ、跡形もなく消滅した。
「衝撃も振動も、内部にはほとんど伝わっていない……」
「魔獣の突進を受け止めたうえ、瞬時に浄化したのですか……!」
魔術師たちは言葉を失った。
「これほどの防御を維持しながら、騎士たちも安全に移動できる。愛し子様は避難する人々だけでなく、彼らを守る者たちのことまで考えておられるのですね」
精霊協会の職員も、深く感嘆した。
箱の中では、騎士たちが周囲を警戒しながら、最後尾の避難者を守っていた。魔獣が何度衝突しても防御空間は崩れず、騎士たちは足を止めることなく進み続けた。
しかし、すべての人々が速やかに避難できたわけではなかった。
首都から離れた村々では、スタンピードの報せを聞いても、自分たちの村までは魔獣が来ないだろうと考える者が少なくなかった。
子どもだけを先に竜神教会へ送り、大人たちは荷物をまとめてから出発しようとする家族もいた。
ところが、地面を揺るがす音が近づき、空を覆うほどの魔獣の群れが見えたとき、人々はようやく事態の深刻さを悟った。
「早く逃げなさい! 荷物なんて置いて走りなさい!」
「こんなことになるなんて……!」
人々は必要最低限の物だけを手に、必死に避難列を目指した。
それでも、間に合わない者たちがいた。
あと一歩のところで魔獣の群れに飲み込まれ、避難列に加わることができなかった者たちもいた。
昨日まで笑顔で話していた人が……
もっと早く避難していれば……
そんな後悔を抱く余裕さえなく、人々は迫り来る魔獣から逃れようと必死に足を動かした。
殿を務める騎士たちも、最後まで一人でも多くの人を救おうとした。しかし、魔獣の群れに追いつかれ、救助に向かうことさえできなくなった。
助けを求める声が聞こえても、魔力糸の防御範囲から出るわけにはいかない。
目の前の避難者を守るためには、進み続けるしかなかった。
「……本当にすまない。全員を助けることができない……」
騎士の一人が、悔しげに奥歯を噛み締めた。
「今は、この防御の中にいる人々を一人でも多く避難させる。それが我々の役目なんだ。」
隊長は苦しげな表情を押し殺し、前を見据えた。
「進め! 前の者を押さないように! 周囲に気を配りながら進むんだ!」
騎士たちは悔しさを胸に押し込み、避難者たちを守りながら前進した。
中腹の避難所では、ジェイドが最後尾の到着を今か今かと待っていた。
やがて、遠くに最後尾の一団が見えた。
しかし、その背後には、山道を埋め尽くすほどの魔獣の群れが迫っていた。
まだ昼間のはずなのに、空は魔獣の影に覆われ、夜のように暗い。
「間に合ってくれ……!」
ジェイドは祈るような気持ちで、一団を見つめていた。
最後尾が避難所に到着すると、ジェイドはすぐさま大声で指示を出した。
「防御箱をこちらの魔力糸に連結するんだ! 接続部を合わせて、しっかり固定しろ! 急げ!」
騎士たちは防御箱を所定の位置へ移動させ、山道に沿って張り巡らされた魔力糸へと連結した。
箱がつながると、白い光が一帯へと広がり、山道を覆う防壁の結界が強まっていった。
ジェイドは、避難者たちが全員、防御壁の内側に収まったことを確認してから声を上げた。
「連結が完了した! 愛し子様の魔力糸と結界が一体となり、防御壁が完成した。」
しかし、魔獣の襲撃はそれで終わりではなかった。
その日も、翌日も、さらにその次の日も、魔獣の群れは避難者たちのいる防御壁へ向かって突進してきた。
夜になっても咆哮は途切れず、魔力糸に衝突する激しい音が山々に響き渡った。
そのたびに避難所の人々は不安げに顔を上げ、家族や隣人の無事を確かめ合った。
「まだ、終わらないのでしょうか……」
「大丈夫です。竜神様の愛し子様が張ってくださった魔力糸と結界が、私たちを守ってくれています。
今は落ち着いて、竜神様に祈りましょう」
そう声をかける者もいたが、いつ終わるとも知れない襲撃に、誰もが不安を抱えていた。
それでも、白く輝く魔力糸は一度も途切れることなく、人々を守り続けた。
魔力糸の働きによって疲労が和らぎ、深い眠りを得られる人々も多かった。避難者たちは自分にできる仕事を分担し、食事の準備や物資の整理、子どもたちの世話などを行った。
教会の職員や協会の者たちも、交代で休息を取りながら、治療や物資の配給、見回りを続けた。
そして、七日目の朝。
夜明けとともに、山脈に響き続けていた魔獣の咆哮が、少しずつ遠ざかっていった。
最後の衝突音が響いたあと、山々に静寂が戻った。
誰もが息を潜め、次の咆哮を待った。
しかし、いつまで経っても魔獣の声は聞こえてこなかった。
山頂では、ターリドとナターシャが周囲の魔力の流れを確認していた。
「……終わりましたね。魔力溜まりにいた魔獣は、もう一体も残っていません」
ナターシャは、山脈を守るように伸びる白い魔力糸を見つめた。
「本当に素晴らしい防壁でしたね。これほど長い間、魔獣の襲撃を受け続けても、最後まで私たちを守り抜いてくれました」
「ああ。私たちも、まったく疲れを感じない。あの魔力糸が、どれほど多くの人々を救ってくれたことか……」
ターリドは、遠くに見える避難所へ目を向けた。
「竜神様の愛し子様とは、どのようなお方なのでしょうね。これほどの力を持ちながら、避難する人々だけでなく、最後尾を守る騎士たちにまで心を配ってくださった。本当に感謝しかありません」
ナターシャは胸の前で両手を組んだ。
二人は静かに目を閉じ、竜神様と愛し子様に祈りを捧げた。
「竜神様、愛し子様。私たちをお守りくださり、本当にありがとうございました」
その祈りは、山頂だけにとどまらなかった。
竜神教会の避難所でも、魔獣の襲撃が終わったと知った人々が、次々と祈りを捧げ始めていた。
家族を抱きしめて涙を流す者、救われた命の重みを噛み締めて静かに頭を垂れる者。それぞれが胸にあふれる思いを、感謝の祈りに込めていた。
「竜神様、ありがとうございます」
「愛し子様のおかげで、家族と一緒に生き延びることができました……」
やがて、人々の祈りは感謝だけでなく、これからの未来へと向けられていった。
「私たちは、この土地をもう一度耕します」
「失われた自然を取り戻し、妖精様や精霊様が安心して戻ってこられる場所にしてみせます」
「竜神様、どうかこれからも、この世界をお守りください」
それは、守られた命を大切にし、荒れた土地を再生し、失われた自然を取り戻すという決意でもあった。
山脈を渡る風が、静かに木々を揺らした。
魔獣の咆哮も、魔力糸に衝突する音も、もう聞こえない。
七日にわたる恐怖が終わり、人々の胸には安堵と感謝、そして未来への希望が満ちていた。
竜神様と愛し子様への祈りは、山脈の隅々にまで広がっていった。




