435 失われた王城と守るべき人々
アズマサール共和国の王都から山脈へ向かって、長い長い避難者の列が続いていた。
最初の避難所では、怪我人や山を登ることが難しい老人、幼子を抱えた家族などを優先して受け入れていた。
「体力に余裕のある方は、竜神様の愛し子様の魔力糸に沿って山を登ってください。山中には、竜神教会が用意した避難所がいくつもあります。
慌てず、焦らず、押し合わず、落ち着いて行動してください。皆さんの協力が必要です」
アマン家の者たちが避難者に説明し、喉の渇いた者には水を渡していく。山道の先々にも水や食料が用意されていることを伝え、体力のある者から順に送り出していた。
竜神教会の職員たちは避難者の案内にあたり、精霊協会や魔術協会の職員たちは、負傷者の治療や物資の配給に追われていた。
各地のギルドからも応援が駆けつけ、避難者名簿の作成や、離れ離れになった家族の安否確認が進められている。
混乱は続いていたものの、人々は互いに助け合い、少しずつ落ち着きを取り戻し始めていた。
その避難所の一角に設けられた執務室では、アマン家のジェイドが、次々と届けられる報告書に目を通していた。
「東側の避難路は確保できたか?」
「はい。魔術協会の方々が、道沿いに誘導用の魔道具を設置してくださいました。今のところ、大きな混乱は起きておりません」
「そうか。引き続き、体力のない者や子どもを優先して移動させてくれ」
「承知しました」
報告に来た職員が退室すると、ジェイドは深く息を吐いた。
避難してきた人々の中には、着の身着のままで逃げてきた者もいれば、家族と離れ離れになってしまった者もいる。
失ったものは多いだろう。それでも、命さえあれば、もう一度やり直すことはできる。
ジェイドはそう信じていた。
「あなた、少し休んでください」
声をかけたのは、妻のヤイだった。
彼女は温かい飲み物を机に置き、夫の顔を心配そうに見つめた。
「ずっと働き続けているでしょう?」
「今は休んでいる場合ではないからな」
「あなたが倒れたら、困る人がもっと増えるわ」
穏やかな口調だったが、その言葉には確かな強さがあった。
ジェイドは苦笑し、ようやく椅子の背にもたれた。
「……そうだな。少しだけ休もう」
そのとき、扉が勢いよく開いた。
「ジェイド様! 緊急の報告です!」
駆け込んできたのは、王都の状況を調べていた連絡員だった。
「どうした?」
「王都にスタンピードが到達しました!」
室内の空気が一変した。
「王城周辺では大型魔獣が多数確認され、城門も突破されたとのことです。王城内部にも魔獣が侵入し、建物の崩壊が始まっていると……」
連絡員は、手にした報告書を強く握りしめた。
「そして、先ほど新たな報告が届きました。王城は……完全に崩壊したそうです」
誰も、すぐには言葉を発することができなかった。
ヤイが静かに目を伏せる。
ジェイドは報告書を受け取り、記された内容を確かめた。
王城の尖塔は崩れ落ち、宮殿の大部分が瓦礫と化したという。
国王や王太子、側妃たちの安否は確認できていない。王城に残っていた兵士や従事者たちについても、詳しい状況はわからなかった。
「……そうか」
ジェイドは、ただそれだけを口にした。
そこに怒りも、喜びもなかった。
宰相ターリドの公爵家からは、これまで幾度となく支援を受けてきた。
先ほども魔鳥便が届き、人族では到達することさえ難しい山頂の竜神教会から、ターリド夫妻が竜神様の愛し子様の魔力糸を守るため、できる限りの魔力を送り続けると連絡があった。
その知らせを思い返し、ジェイドは報告書を見つめた。
ターリドは、無駄な支出を削り、国王に改革を進言し続けてきた人物だ。それも一度や二度ではない。
それでも、国王は変わらず、国を立て直すことはできなかった。
ターリドは責任を感じ、ジェイドたちに詫びるとともに、これからはアマン家の後ろ盾となり、家族も含めて守ると約束してくれた。
そして今、ターリド夫妻は山頂から魔力糸を支え、人々の命を守ろうとしている。
国王が何を失ったのか、今さら考えても仕方がない。
今、自分たちにできることは、ただ一つだった。
皆で生き残ること。
ジェイドは報告書を机に置くと、すぐに顔を上げた。
「王都から逃れてくる人々が、これからも増えるはずだ。受け入れの準備を進めてくれ」
「はっ!」
「負傷者を治療する場所を増やす。食料と水の確保も急いでくれ。家族を探している者がいれば、各地の避難者名簿と照合するように」
「承知しました!」
連絡員が走り去る。
ジェイドは休息を切り上げ、集まっていた職員たちに向き直った。
「王城に残っていた者たちの安否確認は、スタンピードが収まってから行う。今は、それぞれが自分の命を守ることを最優先にしてくれ。救助に向かうことは許可できない。二次被害が起きれば、助けられるはずの命まで失うことになる。皆の安全を第一に考えるんだ。いいな?」
その言葉に、職員たちは真剣な表情でうなずいた。
「それから、貴族であっても例外ではない。横柄な態度を取る者が来ても、ほかの避難者と同じように対応してくれ。身分によって扱いを変える必要はない」
「……よろしいのですか?」
職員の一人が、ためらいがちに尋ねた。
「何がだ?」
「王族や貴族の方々が助けを求めてきた場合も、同じ扱いでよろしいのでしょうか?」
「もちろんだ」
ジェイドは迷うことなく答えた。
「どのような立場の人間であろうと、救助が必要な命であることに変わりはない」
その声は静かだったが、揺るぎない意志が込められていた。
「私たちが守るべきなのは、目の前にいる人々だ。この先も生きていかなければならない人たちを、一人でも多く救う。それが今、私たちにできることだ」
職員たちは深く頭を下げた。
やがて、避難所の入口から新たな一団が到着した。
衣服は泥や埃にまみれ、誰もが疲れ切った顔をしていた。家族の手を握りしめたまま泣いている子どももいれば、周囲を見回し、必死に誰かの姿を探している者もいる。
職員たちはすぐに駆け寄り、水や食料を渡し、負傷者を治療場所へと案内した。
ジェイドもまた、避難してきた人々のもとへ向かった。
「ここでは、ひとまず安心してください。まずは水を飲み、休んでください。ご家族を探している方は、担当の者に申し出てください。確認できる限り、こちらで協力します」
その言葉に、人々の間からすすり泣く声が上がった。
「ありがとうございます……」
「本当に、助かった……」
何度も頭を下げる人々に、ジェイドは静かにうなずいた。
王城は失われた。
国の中枢を担っていた者たちも、多くが行方不明となっている。
これから先、この国がどうなるのかは、まだ誰にもわからない。
それでも、目の前には生き延びた人々がいる。
助けを必要とし、これからも生きていこうとする人々がいる。
ジェイドは、崩れ落ちた王城に思いを巡らせることをやめた。
今は過去を振り返るときではない。
守るべき命を守り抜くために。
彼は次の指示を出すべく、再び歩き始めた。




