434 アズマサール共和国の最後
国王は、王太子に何度も肩を揺すられ、ようやく目を覚ました。
「父上、起きてください! 大変なことになっています!」
「……騒々しい。何事だ?」
不機嫌そうに身を起こした国王は、王太子に急かされ、執務室へ向かった。
扉を開けた瞬間、国王の足が止まった。
「……何だ、これは?」
壁を飾っていた絵画も、棚に並んでいた宝飾剣や魔道具の盾も、他国から友好の証として贈られた品々も、すべて消えていた。
王家の威厳を示すために飾られていた品は、一つも残っていない。
執務机の上には、魔道紙の束が整然と積まれていた。
最上部には王家の借入金一覧と公爵家からの返済請求書が置かれ、その下には担保品の名称と管理番号、精算記録、領収書が並んでいた。
「何だ、これは! 誰が余の剣を勝手に持ち出した!」
国王が怒鳴った直後、側妃たちが次々と執務室へ押しかけてきた。
「陛下! 私のドレスが消えましたわ!」
「宝飾品も魔石も、魔道具までありません!」
普段は豪華な衣装をまとい、宝飾品を身につけていた側妃たちは、今や飾り気のないワンピース姿だった。
身の回りの世話をする侍女たちも、いつものようには現れない。
朝食こそ用意されたものの、その後のお茶も身支度も、誰も手配してくれなかった。
王城で働いていた者たちが、次々と職場を去っていたのだ。
昨日までに退職した者たちは、未払い賃金や退職金を含め、すべて精算を受けていた。
長年、低賃金に不満を抱いていた者。
王家に仕えることに見切りをつけた者。
そして、家族に説得され、迫りくるスタンピードから逃れるために避難した者。
それぞれの事情は違っても、彼らは皆、王城を去ることを選んだ。
残されたわずかな従事者だけで、広大な王城を維持できるはずもなかった。
「食事はどうなっているのですか!」
「いつまで待たせるつもりなの!」
「まさか、あの噂は本当なのですか?」
一人の側妃が、不安そうに声を潜めた。
「竜神教会が避難を呼びかけているのは、本当にスタンピードが迫っているからなのでは……?」
その言葉に、室内が静まり返った。
しかし、国王は側妃たちを面倒そうに一瞥しただけだった。
「うるさい。避難したい者は勝手にすればよい。王城には結界がある。何も心配することはない」
そう言い放つと、机の上の書類を乱暴に手に取った。
「公爵家だと? 勝手なことをしおって! 王太子、今すぐ呼び出せ!」
誰も動かなかった。
「聞こえぬのか!」
国王が怒鳴ると、王太子が堪えきれずに声を上げた。
「父上こそ、何をおっしゃっているのです! 私は何の権限も与えられず、政務についても教えられていません。今さら何とかしろと言われても、できるわけがないでしょう!」
「王太子のお前が、父に口答えするのか!」
「口答えではありません! 事実を申し上げているのです。何も任せてこなかったのは父上でしょう!」
二人の怒声が執務室に響き渡った。
見かねた年配の臣下が、机の上から書類を一枚取り上げた。
「……陛下。まずはこちらをご確認ください」
男は借入金一覧と精算記録を照らし合わせ、顔を曇らせた。
「五年前から宰相を務めていたターリド殿が、公爵家を通じて資金を調達していたようです。
国印も押されています。王城の宝飾品や魔石、魔道具などを担保に、資金を借り入れていたのでしょう」
「それがどうした!」
「宰相を辞任する際、借入金をすべて精算する魔法契約が結ばれています。こちらには陛下の署名と捺印もございます」
男は別の書類を差し出した。
「退職した従事者への支払いも、契約に従って完了しています」
さらに、担保品の一覧を指で示した。
「こちらが担保品の記録です。執務室にあった宝飾盾五番……従事者の退職金にあてられています。
ここに記載されています」
国王は書類を奪い取った。
署名も捺印も、間違いなく自分のものだった。
「……そんな馬鹿な!」
「借入金の不足分は、魔法契約書に基づき、担保品を含む現物で精算されたようです。側妃様たちのドレスも、すべて担保品です。宝物庫の品々がなくなったのも、そのためかと……」
「宰相を呼び戻せ!」
国王は書類を握りしめ、怒鳴った。
「呼び戻して、もう一度金を用意させればよい!」
「陛下、魔法契約書に基づく精算を取り消すことはできません。
それに、これほどの借金を、今後どのように返済されるおつもりですか?」
「黙れ!」
国王が書類を机に叩きつけた、そのときだった。
ドドォンッ! ドォォォン――!
遠くで爆発したような轟音が響いた。
窓の外に目を向けた者たちは、一斉に息を呑んだ。
黒い影が、空を覆い尽くすように王城へ迫っていた。
砂埃を巻き上げながら押し寄せる、無数の魔獣の群れだった。
室内の魔道具が明滅し、照明が次々と消えていく。
「何事だ!」
兵士が血相を変えて駆け込んできた。
「陛下! 王城の備品を持ち出そうとした者たちが、盗難防止の術によって魔牢に収監されました!」
「そんなことはどうでもよい!」
その後から駆けてきた兵士が大声で叫んだ。
「魔獣が!数え切れなきほどの魔獣が!城門の外に大型魔獣が現れました!
すでに群れとなって押し寄せています!」
報告が終わる前に、再び地響きが起きた。
床が揺れ、棚から書類や本が次々と落ちる。
続いて響いた魔獣の咆哮が、王城全体を震わせた。
「まさか……本当にスタンピードが?」
側妃たちの顔から血の気が引いた。
「陛下! 早く避難の指示を!」
国王は窓の外を確かめようともせず、王太子に命じた。
「王太子! 魔壁を発動させろ!」
「何をおっしゃるのです! 結界があるから大丈夫だと、ずっとおっしゃっていたではありませんか!」
「何もしていなかったのか!」
「何も教えられていないのです! 結界の管理は父上の仕事でしょう!」
「余はお前に引き継いだと言っただろう!」
「引き継いだのは王太子の地位だけです! 管理方法など、一度も聞いていません!教わっていません!」
父子が責任を押しつけ合う間にも、城門への攻撃は続いていた。
「魔壁を発動させろ!」
「魔力が足りません!」
「何でもいい、早くしろ!」
兵士たちが必死に操作すると、古代魔壁にかすかな光が浮かび上がった。
しかし、その光は一瞬で消えてしまった。
「発動できません!」
次の瞬間、魔獣の巨体が城門に激突した。
轟音とともに門扉が砕け散り、魔獣の群れが城内へと雪崩れ込んだ。
兵士たちは武器を構えて立ち向かったが、圧倒的な数を前に、抵抗は長く続かなかった。
魔獣たちは庭園を踏み荒らし、建物へと突進していく。
砂埃とともに石壁が簡単に砕け、柱が折れ、廊下の天井が崩れ落ちた。
人々は悲鳴を上げながら逃げ惑った。
しかし、どこへ向かっても魔獣の咆哮が聞こえてくる。
「陛下! こちらも持ちません!」
兵士の叫びに、国王は王太子の腕をつかんだ。
「お前が何とかしろ! 王太子だろう!」
「父上こそ国王でしょう!」
その瞬間、執務室の窓が砕け散った。
壁が大きく傾き、天井から石片が降り注ぐ。
側妃たちは出口へ殺到したが、廊下の向こうから魔獣の唸り声が迫っていた。
逃げ道は、もう残されていなかった。
国王は机にしがみつき、床に散らばった書類を見下ろした。
そこには、王城を支えてきた者たちの働きと、王家が積み重ねてきた借金の記録が残されていた。
しかし、今になって目を向けたところで、失われたものは戻らない。
人々が去った王城には、働く者も、支える者も、そして国を守るための力さえ残されていなかった。
轟音が執務室を呑み込んだ。壁が崩れ、床が割れ、巨大な魔獣の影が国王たちを覆い尽くした。
王城を守るはずだった古代魔壁は、最後まで沈黙したままだった。
やがて、王城の尖塔が大きく傾き、音を立てて崩れ落ちた。続いて宮殿の屋根が砕け、幾重にも重なった石壁が土煙の中へと沈んでいく。
かつて王家の威光を示した壮麗な建物は、魔獣の群れに踏み荒らされ、次々と瓦礫の山へ変わっていった。
城門も、庭園も、王族が暮らしていた離宮も、容赦なく破壊されていく。
やがて、地響きが遠のいた。
空を覆っていた土煙が、ゆっくりと薄れていく。
そこに、もう王城の姿はなかった。
砕けた石材と折れた柱、かつての栄華をかすかに思わせる瓦礫の山が広がっているだけだった。
こうして、誰も責任を負わず、誰も国を守ろうとしなかった王家とともに、一つの国の歴史は静かに幕を閉じた。




