433 ターリドのできること
ターリドは、臣下たちを見送ると、自分の私物を手に公爵家へ移転した。
「おかえりなさい」
出迎えたのは、避難させたはずの妻、ナターシャだった。
「避難しろと言っておいたのに……ナターシャ」
困ったように眉を下げるターリドに、ナターシャは微笑んだ。
「あなたがいなければ、私も生きられませんわ。
どこにいても同じですもの」
「それはそうだが……」
「私、一人にしないでと申し上げましたよね?」
ナターシャは、いたずらっぽく目を細めた。
「それとも、ここでもう一度『腕輪の誓い』の口上を唱えていただきましょうか?」
「……勘弁してくれ」
ターリドが苦笑すると、ナターシャはふふっと笑い、そっと夫を抱きしめた。
「大丈夫ですか? きちんとご挨拶できましたか?」
「ふっ……最後まで名前を覚えてもらえなかったよ」
苦笑するターリドを、ナターシャはもう一度強く抱きしめ、背中を優しく叩いた。
「お疲れ様でした。あなたは最後まで責任を果たしましたわ。もう、命まで差し出す必要はありません」
ナターシャは、夫の顔を見上げた。
「ターリドの命は私のもの。私の命はターリドのものですわ。忘れないでくださいね」
彼女は竜皇国の侯爵家出身の竜人であり、ターリドの『運命の番』だった。
二人が出会ったのは、ヨーリアン帝国の魔術学院。卒業と同時に結婚し、『腕輪の誓い』を交わした。
あれから、何年が過ぎただろう。
今年は、その誓いを交わした記念日さえ、一緒に過ごすことができなかった。
ターリドの母方の祖父母が亡くなってからは、ナターシャが公爵家を切り盛りし、家を守りながら夫を支え続けてきた。
王家への資金援助を続けられたのも、彼女が家の財政を管理し、支出を切り詰めながら領地を守ってくれたからだ。
それにもかかわらず、王家は支援を当然のように受け取り、借金を返済する努力さえ怠ってきた。
「では、魔法契約書に基づいて、王家の借金を精算してしまいましょう」
ナターシャは、夫の感傷を断ち切るように、きっぱりと告げた。
「あなたの魔法鞄を出してください」
「今すぐか?」
「ええ。契約に従って返していただくだけですもの。何も問題はありませんわ」
ナターシャは微笑み、王家との魔法契約書を取り出した。
契約書に記された精算の術を発動させる。
『精算。不足分は現物精算。ターリドの魔法鞄へ収納』
次の瞬間、ターリドの魔法鞄が淡く光り始めた。
王城の宝物庫から、宝飾品や魔石、宝石が次々と引き寄せられていく。
金庫に保管されていた王家所有の古代魔道具までもが、吸い込まれるように鞄へ収まっていった。
小さな鞄の中へ、膨大な量の品々が消えていく。
「……まだ終わらないのか?」
「かなりの金額でしたからね。これだけでは足りず、王城の地下宝庫からも精算されているようですわ」
ナターシャは、光り続ける鞄を確かめながら答えた。
ターリドは、ふと王城の方角へ目を向けた。
「王城の結界はもつのか?」
「あなたもご存じでしょう?きちんと手入れをしていませんでしたから……」
ナターシャは、呆れたように首を傾げた。
「私も王太子妃様に、あなたも、王太子に何度も伝えました。
王城の結界管理は王太子の責任ですもの。
宰相であるあなたが、勝手に管理を引き受ける必要はありませんわ。
依頼されていれば、私たちも手を貸したでしょうけれど……」
「ああ……何度も進言したが、結局、断られた。
最後まで聞き入れてもらえなかったよ」
「そもそも、魔力を注ぐ者がいなければ、魔壁はただの壁ですわ」
ナターシャの声が、わずかに厳しくなった。
「五百年前のスタンピードの後に築かれた古代魔壁です。維持するには膨大な魔力が必要なのに、今の王家には、それを賄えるだけの魔力を持つ者がいないのでしょう?」
「……そうだな。今、王家で十分な魔力を持っているのは、私くらいだろう」
「だからといって、あなたが王城に残る必要はありません。国王も王太子も、必要な忠告を聞き入れなかったのですから」
ナターシャは、夫の手をそっと取った。
「あなたは十分に尽くしました。これからは、自分の命と、あなたを信じてついてきてくれた人たちを守ることを考えてください」
「ありがとう、ナターシャ」
ターリドは、妻の手を握り返した。
その表情に、ようやく安堵が浮かぶ。
「それにしても……」
ふと、ターリドはいたずらっぽく笑った。
「こうして無事に精算できたのも、愛しの奥様の優秀な知力と魔力のおかげですけどね」
「まあ」
ナターシャも、柔らかく笑った。
やがて、ターリドの魔法鞄は静かに光を失った。
「終わりましたわ」
ナターシャは契約書をしまい、今度は公爵家の建物を見渡した。
「この建物も、祖父母様たちが使っていた建物も、従事者たちの寮も、周囲の魔壁も、すべて私の魔空間に収納します。
公爵家を取り囲んでいた広大な森林は、建築資材として、すでに伐採して収納しましたわ」
「そうか……。それなら、奥の沼地に魔獣を誘導できるな。すべてが山脈へ向かうわけではなくなる」
「はい。沼地も、さらに深くまで掘りました。
掘り出した土も、山の手前に積み上げてあります。
五百年前の資料どおりなら、魔獣の流れを少しは分散できるはずですわ」
ナターシャは、静かに頷いた。
「すべて、過去の当主様が残してくださった資料のおかげです」
王家が目を向けなかった危機に備え、二人はできる限りの準備を重ねてきた。
今、その備えが役立つときが来ていた。
「では、先に建物を収納しますね」
ナターシャが魔力を込める。
「収納!」
一瞬、公爵家全体が薄い青白い光の球体に包まれた。頬をかすめるように風が吹き抜け、光が消えたときには、そこにあった建物も寮も魔壁も、すべて姿を消していた。
広大な敷地に残されたのは、建物の跡と、沼地へ続く森林の切り株だけだった。
ターリドは、かつて自分が守ってきた公爵家の跡地を見渡した。
寂しさがないわけではない。
それでも、もう振り返るつもりはなかった。
「では、頂きの竜神教会へ移転しましょう」
ナターシャが夫の手を握った。
「人族では、誰も登ることができなかった場所です。竜神様の愛し子様が張ってくださった魔力糸の始点をお守りするのです」
ルノアの魔力糸は、これから避難する人々を守り、安全な場所へと導くための大切なものだ。
その始まりを守ることは、国の行く末を案じ続けてきたターリドにとって、新たな務めとなる。
「ターリド。約束しましたわね」
「ああ」
ターリドは迷いなく頷いた。
「私は、この国を変えることができなかった。
宰相としての責任は重い。だが、これからも王家に尽くし続けることが、国を守る唯一の方法ではない」
彼は妻の手を握り返した。
「私は政界を引退する。これからはアマン家の後ろ盾となり、私にできる形で、この国の人々を守っていこう」
「ええ。それでこそ、私のターリドですわ」
ナターシャは満足そうに微笑んだ。
二人は顔を見合わせ、声を揃えた。
「「移転!」」
次の瞬間、二人の姿はその場から消えた。
向かう先は、頂きの竜神教会だった。




