396 マイルズの中のマリワンズ湖
心配そうな王太子グレイヴと、その隣にいる王太子妃アージェにクロリナラドが声をかけた。
「おい……グレイヴ。お前がそんな顔色で大丈夫か?」
「違うんだよ……クローの久しぶりの高魔力に酔いそうだ。アージェは大丈夫か?」
「ええ……本当にお久しぶりのクロリナラド殿下の高魔力ですもの。皆、緊張していますよ。ヨーリアン帝国の魔術騎士団も、久しぶりに鍛えていただきたいですわ!」
元ヨーリアン帝国の魔術騎士団に所属していたアージェらしい言葉に、クロリナラドも苦笑した。
そんな雰囲気の中、ルノアはマイルズへ話を続けた。
「マイルズ様の中には、今まで逃がしきれなかった魔力が溜まりすぎています。このままでは、魔力の塊が魔力源から伸びる魔力の通り道を塞いでいるような状態になっています」
「それを……治せるの?」
「少しずつなら」
ルノアはクロリナラドを見る。
「ラド様、お願いします」
「ああ」
クロリナラドはすぐに意図を理解し、ルノアの隣に座った。
「無理はしない。少しでも苦しくなったら、すぐに止めるからな」クロリナラドが言った。
「はい」
ルノアはマイルズへ向き直った。
「では、少しずつ始めますね」
ルノアが左手を差し出すと、クロリナラドが右手をそっと繋ぐ。続いてクロリナラドの左手とマイルズの右手を繋ぎ、マイルズの左手とルノアの右手を繋いだ。
三人の手が繋がり、ひとつの輪になる。
そこから温かな魔力が、ゆっくりと流れ始めた。
強く押し込むことはしない。
身体に負担をかけないよう、詰まっている場所を探しながら、少しずつ魔力の流れを整えていく。
「……温かい」
マイルズが小さく呟いた。
「そのまま力を抜いてください」
「はい」
マイルズは静かに目を閉じた。
ルノアはマイルズの体内を流れる魔力を、一つずつ丁寧に確認していく。
指先から腕へ。
腕から肩、首へ。
そして頭部へと続く魔力の流れを確認したあと、胸元へと意識を移した。
首の周りと心臓の近くには、特に大きな魔力の塊があった。
まるで細い通り道を塞ぐように、魔力が固まっている。
ルノアは針に糸を通すような繊細さで、その塊の中心に小さな隙間を作った。
そこへ、ほんの少しずつ魔力を通していく。
詰まっていた魔力が、わずかに動いた。
さらに慎重に流れを整えながら、腹部へと進む。
そこから腰、太腿、膝、足先へ。
全身の魔力の通り道を確認しながら、少しずつ流れを繋げていく。
やがて、マイルズの中で滞っていた魔力が、ほんの少し動き始めた。
「動いたのを感じましたか?」
「……ああ……動いた」
マイルズの目が大きく開く。
「流れてる……」
「はい」
「魔力が……苦しくない」
ルノアはそのまま、ゆっくりと魔力を流し続けた。
そして、マイルズに声をかける。
「マイルズ様。ヨーリアン帝国のマリワンズ湖が療養先だったとお聞きしました。マリワンズ湖は、どんな色でしたか? 周りの風景も思い浮かべて、私に教えてください」
「……はい。新緑の季節には透き通った水色で、深いところは濃い青色で……とても綺麗です。鹿や小さな動物が、ときどき水を飲みに来るんです。とても大きな湖で、風も気持ちよくて、空気も澄んでいて……妖精様や精霊様もよく遊びに来てくれて、話し相手になってくれました」
マイルズは目を閉じた。
最初はうまく想像できなかった。
けれど、ルノアの魔力に導かれるように、少しずつ景色が浮かんでくる。
青い湖。
静かな水面。
湖へ流れ込む水。
そして、湖からゆっくりと流れ出ていく水。
「……マイルズ様。その湖に、ゆっくりと水を流すようなイメージで、魔力を流してください」
マイルズの声が震えた。
「ああ……僕の中に……マリワンズの青い湖がある」
「はい」
「魔力が……そこへ流れていく……」
「その感覚を覚えてください。魔力が多すぎるときは湖へ流してください。足りないときは、湖から少しだけ取り出します」
「……自分で調整できる?」
「はい。今は魔力が多いので、無理のない範囲でどんどん入れてください」
ルノアは優しく微笑んだ。
「マイルズ様の魔空間は、マイルズ様自身の魔力で作られたものです。だから、その魔空間に蓄えられる魔力に決まった大きさはありません。私は、もともとあったマイルズ様の魔空間と、体内の魔力の流れを繋げただけなんです」
「これを……ルノア様が?」
「はい。魔術学院の卒業論文にしたんです。魔力が多すぎる人が、余った魔力を自分の魔空間へ保管して、必要なときに取り出せるようにする方法です」
マイルズは驚いたように目を開いた。
「そんな方法が……」
「ただ、使い方を間違えると危険なことにも利用できます。ですから、すべての人に公開できる方法ではありません」
ルノアは少しだけ表情を引き締めた。
「毎日、少しずつ練習してください。魔石を作ることも続けてください。急に全部を変える必要はありません。まずは、自分の魔力を少しずつ魔空間へ移す感覚を覚えましょう」
「はい……」
マイルズは自分の中のマリワンズ湖を思い浮かべた。
溢れそうになっていた魔力が、ゆっくりと湖へ流れていく。
身体の中に詰まっていた苦しさが、少しずつ薄れていく。
「確かに……これは危険な使い方もできますね」
マイルズは静かに息を吐いた。
「魔法契約書の意味が分かりました。このご恩を忘れません。そして、絶対に平和な世界を乱さないと、竜神様とルノア様、クロリナラド様に誓います」
しばらくすると、マイルズの呼吸が明らかに変わった。
今まで身体全体に入っていた力が、少しずつ抜けていく。
肩の力も抜け、表情も穏やかになっていった。
やがて、マイルズがゆっくりと目を開く。
「……身体が、軽い」
誰に言うでもなく、マイルズが呟いた。
「こんなに……軽かったんだ」
その声は震えていた。
長い間、身体の中に溜まり続けていた魔力。
それが初めて、自分の意思で流れ始めた。
マイルズは自分の胸に手を当て、もう一度、小さく息を吐いた。
「……苦しくない」
その言葉に、ルノアは静かに微笑んだ。




