318 ルノアの論文検証
クロリナラドとルノアが帰ったあと、学園長室をシェットとヴァリアードが、完全防音、防壁の空間を作った。
「では、実際に試してみよう」
シェットが論文を机の上へ広げた。
「本当にやるのか?」
ヴァリアードが尋ねる。
「だからこそ、この論文が正しいのか確認する必要がある」
シェットは指先で、論文の一節をなぞった。そこには、魔空間を開くための手順が簡潔に記されている。
『魔空間とは、体内に存在する魔力を外へ放出する空間ではない。自身の魔力を一定方向へ流し続けることで生じる、魔力の循環路である。まず体内の魔力を一点へ集める。
次に、集めた魔力を外へ押し出すのではなく、自身へ向けて流す。流れが途切れぬよう循環させ、その中心に魔力の密度差を作る。
密度差が一定値を超えたとき、魔力の流れが空間を押し広げる。その先に生じる空隙こそが、魔空間の入口となる。』
ヴァリアードは文章を読み終えると、眉を寄せた。
「……ずいぶん簡単に書いてあるな。だが、これは普通の魔術師には理解できない」
シェットは立ち上がった。
「だから、実際にやってみよう」
二人は学園長室の中央へ移動した。
「まず魔力を集める」
シェットが目を閉じる。
体内を巡っていた魔力が、ゆっくりと一点へ集まっていく。普通なら、ここから魔力を外へ放出する。
火なら火球へ。
水なら水流へ。
風なら風圧へ。
魔術とは、基本的にそういうものだった。しかし……。
「外へ出さない?!」
シェットは論文を確認する。
「むしろ、自分の中へ戻す。それが最初の問題だな」
ヴァリアードが言った。
魔力を外へ放つことは簡単だ。だが、自分の中にある魔力を、もう一度自分へ向けて流す。そんな魔力操作をする者はいない。
「魔力を水流だと思え、と書いてある」
「ならば、水を円環状に回すようなものか」
シェットが魔力を動かした。体内へ集めた魔力を、ゆっくりと流す。一周。二周。三周。しかし……。
「……消えた」
魔力の流れが途切れた。シェットが目を開く。
「今のでは駄目か……論文には続きがある」
ヴァリアードがページをめくった。
『流れを作るだけでは足りない。流れる魔力の中心に、魔力が存在しない場所を作る』
「魔力が存在しない場所?!?つまり、空白だ」
ヴァリアードはシェットを見る。
「魔力を集めるのではなく、魔力で囲いを作る……なるほど」
シェットは再び目を閉じた。今度は魔力を一点へ集めない。自分の魔力を細い流れに変え、輪を作る。魔力の輪。その中心には、何もない。
「これか……」
シェットが呟いた。魔力の輪がゆっくりと回転する。
最初は小さな輪だった。しかし、魔力の流れが安定すると、中心部分の空間がわずかに歪んだ。空気が揺れたように見えた。
「見えるか?」
ヴァリアードの目が鋭くなる。
「ああ……見える。空間そのものが沈んでいる」
シェットは魔力をさらに循環させた。輪の中心が、黒い水面のように揺らめく。そして……。ぽう、と……小さな光が生まれた。
「「……開いたぞ!?!」」
二人が同時に呟いた。それは拳ほどの大きさしかなかった。だが、確かにそこには、この世界とは違う空間が存在している。中には何もない。ただ、深い闇が広がっている。
「これが……ルノア様の考える魔空間か……私の魔空間とは全く大きさが違うし……感覚の違いか……全く違うもののような感覚……なぜだ?なぜ?違うのだ?!私が開いた魔空間なのに……」
シェットは驚いた顔で、その小さな入口を見つめていた。ヴァリアードが息を呑む。
「成功した……信じられん。魔空間を開くためには、特別な才能が必要だと思われていた実際には?才能ではなく、方法だった!?!魔力を外へ放つことしか知らなかった我々は、魔空間を開くときも魔力を外へ押し出そうとしていた。だが、ルノア様は逆だった」
シェットは論文を見た。
『魔力を外へ放つのではなく、循環させる。そして循環の中心に空白を作る。その空白を、魔力の密度差によってこちら側の空間から切り離す。そして、その切り離された空間が魔空間になる』
二人は顔を見合わせた。あまりにも単純だった。だからこそ、誰も気づかなかった。魔術師は魔力を「力」として考えていた。強く放つ。大量に集める。圧縮する。変換する。
しかしルノアは、魔力を「流れ」として考え、流れる水のように扱い、循環させ、中心に空白を作った。その結果、魔力そのものが空間を生み出した。
「……これなら、魔力が多い竜人ほど失敗する理由も説明できる。魔力が多すぎるのだ」
ヴァリアードが呟いた。
「……ああ魔力を制御しきれず、空白を作る前に中心まで魔力で満たしてしまう。だから竜人は、魔力の量では優れているのに、魔空間を開けない。
逆に、人族は魔力が少ないからこそ、偶然この条件を満たす者が生まれる。これは魔力の才能ではない。魔力の扱い方の問題だった」
シェットも、ヴァリアードも、深く息を吐いた。
シェットは再び魔空間を見る。
「……ルノア様は、これを一人で見つけたのか?」
「そうらしい」
「恐ろしい頭脳と多角的な視点、天性な才能……」
そう言いながらも、シェットの顔には笑みが浮かんでいた。
「だが、論文にはもう一つ重要なことが書いてある。
『入口を維持するには、魔力を一定速度で循環させる必要がある』
つまり、開けただけでは駄目か」
ヴァリアードは深く息を吐いた。
「ならば……」
シェットは魔空間の入口を見つめた。
「ここへ魔力を貯められるのか?論文では、それを可能にしている」
ヴァリアードが次のページを開く。そこには、魔力を水流に見立てた図が描かれていた。
『魔力を循環させながら、一部だけを魔空間へ流し込む。循環する魔力を川。魔空間を貯水池。そして、その間を繋ぐ流れを水路として考え実行できる』
シェットはしばらく黙っていた。やがて、静かに笑う。
「ヴァリアード」
「何だ?」
「これは魔空間の研究ではない。魔術そのものの考え方を変える研究だ。魔力を『消費するもの』から、『循環させ、蓄え、必要なときに取り出すもの』へ変える」シェットは完成した魔空間を見つめた。
ヴァリアードも頷く。
「ああ……だから魔力タンクの役割が変わる。そして、魔力切れの概念すら変わる可能性があるのか……」
二人は、しばらく何も言わなかった。
学園長室の中央には、小さな魔空間が浮かんでいる。
それは、これまで一部の者しか扱えなかった未知の領域。しかし今、その扉は……。
論文に書かれた方法によって、確かに開かれていた。ヴァリアードは論文を閉じる。
「シェット。この論文を、学院の卒業論文としてそのまま公表するわけにはいかない」
シェットも頷いた。
「同感だ。しかし……」
二人の視線が重なる。シェットは小さな魔空間を見つめた。
「世界に公開する範囲を決めよう」
その言葉に、ヴァリアードは静かに頷いた。
ルノアの論文には、この魔空間を開く方法だけではなく、魔空間を開いたあと、そこへ魔力を流し込み、蓄積し、必要なときに取り出すための理論まで完成されている。だからこその判断だった。
しかし……この二人も優秀すぎて見落としているものも多かった。




