315 ルノアの入学準備2
ルノアは、もう一度、ゆっくりと論文へ視線を落とした。この論文を発表すれば、魔空間という未知の領域に対する新しい理論を提示することになる。
けれど、その理論を実証できる人族が、そもそもほとんど存在しない。そして、その実証を自分が行えば……。
「……私が魔空間を開けることまで、知られてしまう?」
そうなれば、話は単なる卒業論文では済まない。
魔空間を自在に扱える人族。それだけで、十分すぎるほどの価値を持つ。
自分で自分の立場を危険にさらすことになるのではないか。
そう考えたルノアは、すぐにイヤーカフへ手を添えた。
『ラド様。少しよろしいでしょうか?』
しばらくして、聞き慣れた声が返ってくる。
『はい。ノア。どうした?』
『少しご相談したいことがあるのですが……。ラド様のご都合のよい時間をお知らせいただけないでしょうか? 学院のことなので、ヴァリー伯父様に相談したほうがよいのか判断に迷っていまして……』
『学院のことか。今からでもいいぞ』
思っていたよりも早い返事に、ルノアは少し驚いた。
『今から……ですか?』
『ああ。ノアがそこまで言うということは、何か一人で判断しないほうがいいことなんだろう?』
その言葉に、ルノアは小さく息を吐いた。
『……はい』
『では、そちらへ向かう。少し待っていてくれ』
『ありがとうございます』
念話が切れる。
それからほどなくして、部屋の扉が軽く叩かれた。
「ノア、入っていいか?」
「はい」
扉を開けると、クロリナラドが立っていた。ルノアは机の上に置かれた論文を手に取り、そのままクロリナラドへ差し出した。
「実は……卒業論文を書き終えたのですが……」
「ああ……やはりそうか。兄上の言葉を聞いて、嫁ぐ為に色々と考えてくれたんだな。ありがとう。お疲れ様。」
「ありがとうございます。でも……問題があることに気がつきまして……」
クロリナラドは論文を受け取り、最後の章へ目を通す。
「魔力タンクの需要が減る、か」
「はい。ヴァリー伯父様から教えていただいた方法を、魔術理論としてまとめました。魔力を魔空間へ流し込み、必要なときに取り出す方法です」
「……なるほど」
クロリナラドは、しばらく黙って論文を読んでいた。
やがて顔を上げる。
「ノア。これは、確かにすごい。うん。問題はそこじゃないんだな」
ルノアは小さく頷いた。
「この論文を発表するには、実証が必要になると思います」
「そうだろうな……」
「そして、実証するためには……私が魔空間を開けることを知られてしまう可能性があります」
その言葉を聞いた瞬間、クロリナラドの表情が変わった。先ほどまでの穏やかな表情が消え、真剣な眼差しになる。
「それは、確かに問題だ」
「私も、学園長先生に言われたことを思い出して……。魔空間を開けることができる人族は、ほとんどいないのですよね?」
「ああ。少なくとも、誰でも使える技術ではない。
ノアが考えた理論そのものを発表することと、ノア自身が魔空間を開けると公表することは、別の話だ」
「……別の話?」
「そうだ」
クロリナラドは論文の表紙を指先で軽く叩いた。
「だから、まずはヴァリアードに相談しよう。これは俺たちで決めていいことじゃない」
「やっぱり、そうですよね……」
「むしろ、俺はヴァリアードにも同席してもらったほうがいいと思っている」
「ですが、伯父様に相談したら……発表しろと言われるのでは……」
ルノアが不安そうに言うと、クロリナラドは少しだけ笑った。
「その可能性は高いな」
「やっぱり……」
「でも、ノア」
クロリナラドは優しくルノアを見る。
「発表することと、ノアの秘密をすべて明かすことは同じじゃない」
「……!」
「理論だけを発表する方法もある。あるいは、実証をヴァリアードが行う方法だってあるかもしれない」
ルノアは目を見開いた。
「伯父様に……?」
「ああ。ノアの身を守りながら、ノアの成果を正当に評価してもらう方法を考えればいい」
その言葉に、胸の奥に張りつめていたものが、少しずつほどけていく。自分が考えていたのは、
発表するか、しないかの二択だった。
けれど、クロリナラドはその間にある道を示してくれた。
「……私、最初から一人で決めようとしていたんですね」
「ノアは何でも自分で頑張ろうとするからな」
「……うっ……」
図星を突かれて、ルノアは言葉に詰まる。
クロリナラドはそんなルノアを見て、ふっと笑った。
「でも、それは悪いことじゃない。今回みたいに、自分一人では判断できないことまで抱え込まなければいい」
「はい」
「それに……」
クロリナラドは論文をもう一度見下ろした。
「こんなものを書き上げたんだ。まずは自分を褒めていいと思うぞ」
「……ラド様」
「卒業論文、完成したんだろう?おめでとう。」
「はい」
ルノアは論文を胸に抱え、嬉しそうに微笑んだ。けれど、その胸の奥では、新たな疑問が生まれていた。自分が見つけたこの魔術は、一体どこまで世界を変えてしまうのだろう。そして、その答えを知るためには……。まず、ヴァリー伯父様に相談しなければならなかった。




