305 タスワンズ湖の白蛇様
マクアリール公爵領のタスワンズ湖周辺に、近頃大きな白蛇様を見かけるようになった。領主であるラルフ様からも事前にその存在についてはお話を聞いていたのだが、やはりはじめの頃は、領民たちもその底知れぬ巨体に恐れをなしていた。
しかし、気が付けばその大きな白蛇様は、いつも遠くから私たちを静かに見守ってくれていた。
特に、仕事終わりの夕方にタスワンズ湖の薄暗くなった森を抜けて帰路につくときには、決まってその姿がどこかにあった。
普段なら何人かで固まって森を抜けるのだが、忘れ物をして今日は一人でこの森を抜けるために歩いていた。
この森には時折、悪戯好きな精霊様や妖精様が紛れ込んでいる。彼らは私たちを脅かそうと、小さな石や枝を当たるか当たらないかの絶妙な隙へと落とし、私たちが驚くさまを陰から笑って楽しんでいるのだ。
足元に「ドン!」と少し大きな石が落ちてきた。
驚いて跳び上がった直後、さらに頭上から何かが勢いよく落下してくる気配を察した。避けるのは間に合わない。私は反射的に頭を抱えてその場に座り込んだ。しかし、待てど暮らせど衝撃は来なかった。
不審に思って見上げると、その落下してきたはずの石は、まるで意思を持ったかのように空中で不自然に静止し次の瞬間、猛烈な速さで木の上にいる何かに向かって吸い込まれるように飛んでいった。
「ガツン!! バキッ!」と木肌が激しく割れる強烈な音が響き渡った。
少し離れた林の奥から、白い魔法の残光がスッと消えていくのが見えた。白蛇様が魔術を発し、私を守ってくれたのだとすぐに理解できた。
しかし、白蛇様は決してこちらに近づこうとはしなかった。顎を引いては伸ばし、何度も同じ動きを繰り返している。
それはまるで「早く歩いて、この森を抜けろ」と私を急かしているようだった。
その日を境に、夕暮れの森で頭上から石や枝が降ってくることは一切なくなった。
翌日、その出来事を口にすると、助けられていたのは私だけではなかった。
何人もの従業員たちが、同じように白蛇様に救われていたと声を上げたのだ。
私たちは、かつてラルフ様から聞かされた言葉を思い出し、深く納得していた。
「獣人の皆さんは、緊張した時の汗の匂いなどで私たちの感情を読み取っている。耳が人族より物凄く良いので、小声で話していても聞かれていることがほとんどだ。
特に蛇はどこにでも住んでいて、共有が出来るので危険を察知すると直ぐに駆けつけてくれる心優しい蛇が多い。
しかし、その見た目と穏やかな性格がわからず、外見だけで差別されて傷ついてきた方が多いんだよ。
出来たらそっと様子を見てほしい。誠実な人柄と優しさがわかるはずだから。
見た目だけは、少しずつ慣れて欲しい。
カーナリアン王国の小さい時に読んだ、白蛇様の絵本とまったく同じなんだよ」
ラルフ様のその言葉の通りだった。私たちは恐れではなく、深い敬愛と温かい感謝を込めて、今日も静かに森の守護者にそっと頭を下げた。
マクアリール公爵家の従者たちは、庭で小さくなったネネの顎を優しく撫で、その美しい鱗を心から褒めるラルフ様の姿を、穏やかな眼差しで見つめていた。
最愛のエミリア様が天に還られてからというもの、ラルフ様は仕事に没頭し、その顔から笑顔が消えていたため、従者たちは深く心を痛めていたのだ。
しかし、ネネ様がやってきてからというもの、ラルフ様には目に見える変化が訪れた。
もちろん、愛娘であるルノア様に向ける父親としての表情とも、どこか違う。温かく柔らかな、笑顔が戻ってきたのだ。その奇跡のような穏やかな日常の変化に、誰もが深い安堵と感謝をしていたのである。
それは竜皇国の先王夫妻を警護する竜人たちにとっても同じだった。
彼らは、ネネの身に纏う鱗が、純白の部分が多く少し神秘的な薄い灰色へと変化していくその美しい鱗を、畏敬の念を込めて見つめていた。
普段は三メートルもの巨体を誇りながら、誰よりも疾く、音もなく移動して湖の安全を守る。
かと思えば、小さく姿を変えたときのその純白の鱗に赤い目は、彼らが幼い頃に読んだ絵本の一ページをそのまま映し出したかのようだった。
『家に寄り添い、守る白蛇様がいる場所には、必ずや幸福が訪れる。感謝を忘れず誠実に伝えればその繁栄は永遠に続いていく。』
絵本に描かれたその伝承の蛇そのものであり、縁起の良い福の神として、ネネ様は皆から慈しまれていた。
過酷な隠密として生きてきた過去を包み込むように、いまや彼女の周りには、国境を越えた温かな笑顔と、静かな幸福の光が満ちあふれていた。




