303 リオンブラン王国ブラックマンバ公爵家ネネ
私は長年勤め上げたリオンブラン王国での隠密、警護任務を無事に終え、定年退職の日を迎えた。
王妃様から手渡されたのは、丁寧な文字で書かれたマクアリール公爵家への特上の紹介状。
それと、私の大好物であるリオンブラン特産の極上のお菓子が入った、ずっしりと重い木箱だった。
リオンブラン王国の王妃マリア様からの、これ以上ない労いと感謝の言葉。
それが私の胸の奥を、じんわりと温めていく。
「……ありがとうございます、王妃様。そのお言葉だけで、報われます」
念話でそう返した私の顔は、きっといつもより少しだけ緩んでいただろう。
「ネネ、本当に本当に今までありがとう。体に気をつけてね。またいつでも遊びに来てください。ラルフ様によろしくお伝えしてね」
そう言って涙ぐむ王妃様に深く一礼し、私は懐かしい風が吹くマクアリール公爵領へと、転移魔法で向かった。
久々に訪れたマクアリールの森は、以前と変わらず穏やかで、タスワンズ湖から流れる瑞々しい空気に満ちていた。
大きな蛇の姿で、木々の間を滑るように進む。
ありのままの姿で受ける風は、驚くほど心地よかった。
公爵邸の裏手にある静かな庭園へと近づくと、見覚えのある姿が見えた。
いつもおやつをくれた、優しくて、穏やかなラルフ様だ。
カサリ、と私がわざと葉を鳴らすと、ラルフ様がこちらを振り向いた。
普通の人族なら腰を抜かして悲鳴を上げるであろう私の巨体を見ても、彼は逃げ出すどころか、その瞳をパッと輝かせたのだ。
「ああ……! 遊びに来てくれたんだね。元気に過ごしていたかい? 体調は大丈夫かな?『癒し!』 サラ!いつものおやつをお願い!」
ラルフ様は満面の笑みを浮かべ、駆け寄ってくるなり、私の鱗に躊躇いなくその白い手を伸ばした。
そして高度な『癒し』魔法をかけてくれた。
大きな蛇の姿である私に、一片の恐怖も、嫌悪の色の欠片すらない。
その温かい掌が私の鱗に触れた瞬間、私の中にあった、かつて浴びせられた理不尽な畏怖や孤独の記憶が、すべて嘘のように溶けていくのを感じた。
「おぉ……。鱗、今日もすごく綺麗だ。好きなあの果物パイ、今日も焼いて待ってたんだよ」
そう言ってお皿に乗ったお菓子を差し出すラルフ様を見つめながら、私は心の底から、ため息ではなく、深い安堵の息をこぼした。
王妃様の言った通り、この優しさに満ちた場所なら、私はありのままの姿で、これからの日々を歩んでいけるかもしれない。
そんな確かな希望を、私はそっと胸に抱きしめた。
「私はね、ルノアがヨーリアン帝国魔術学院に入学したら、週末だけヨーリアンに行くつもりなんだ。ルノアは寄宿舎に入るけれど、週末だけは家に帰ってくるからね。もし良かったらなんだけど、君もタスワンズ湖に住まないかい? いつでも住めるように領民には伝えてあるからね。もちろん、人族の中には怖がる者もいるけれど、竜に見慣れているからきっと大丈夫だよ。ゆっくり過ごしてほしいんだ。……それから、時々私とお茶を飲んでくれるかい? おやつはいつでもあるから」
私はこれまで、ラルフ様と一言も言葉を交わしたことはなかった。己の素性すら伝えていない。今までは隠密として、魔法契約書の厳格な縛りの中にいたからだ。
けれど、話さずともすべてが通じてしまうのが、ラルフ様の非凡で恐ろしいところだった。
私は勇気を振り絞り、はじめて念話を用いてラルフ様に語りかけた。
『いつも優しいお声掛けと、美味しいおやつ、そして「癒し」の魔法まで、細やかなお心遣いをありがとうございます。私はリオンブラン王国、ブラックマンバ公爵家が次女、ネネと申します。本日をもちまして、リオンブラン王国の隠密警護を定年退職いたしました。……こちらは、マリア様から預かってまいりました手紙です』
私は魔空間から、紹介状と簡単な経歴、そして身上書を移転魔法で手元へ呼び出し、そっと差し出した。
「ええええぇ……お話できたの? あぁ……隠密だったのかぁ……。大変だったんだね、お疲れ様でした。長い間のお勤めだったんだね。そうか……あの、今まで凄く子供扱いをしてしまって……あの、このままでもいいかな? 嫌なら改めるのだけれど……」
『はい。どうか今まで通りでお願いいたします。私は口下手なものでして……。私の正体をとうに察していらっしゃったことは分かっておりましたが、是非ともタスワンズ湖に住まわせていただきたいのです。
竜皇国の先王夫妻様にもご挨拶は済ませてあるのですが、出来れば、あそこに住みながらラルフ様の警護として雇っていただけないでしょうか』
「でも……定年退職したのに、まだ働くの? 好きに住んでくれていいし、警護なんて気にしなくていいから、何か気がついた時だけ念話で知らせてくれるくらいでいいんだよ。給金もきちんと払うから、ゆっくりして、気が向いた時に毎日お茶をしに来てくれてもいいんだからね。あまりしつこくすると嫌われるとサラたちに怒られたけれど……時々でいいから、お茶友達になってほしいな。それが私の癒しの時間なんだ。……ネネ、と呼んでいいかい? 私のことはラルフと呼んでね」
『はい。では、ラルフ。私にはもう、使い切れないほどの退職金がございます。ですので、ラルフの警護と隠密の仕事を、どうか昼間の間だけさせてくださいませ。夜は移転魔法でタスワンズ湖へ戻り、静かに過ごします。……宜しいですか?』
「あぁ……ありがとう。体に無理がないようにお願いします。いつでも自由で良いからね。じゃあ一応、マクアリール公爵家の魔法契約書を交わしても大丈夫かい?」
「はい。よろしくお願いいたします。時々子供たちも遊びに来ますので、その際にまた紹介させてくださいませ」
私はちょこんと頭を下げた。
こうして私は、タスワンズ湖の最強の護衛として、その地で働くこととなった。
やがて湖の領民たちからもその存在と実力を認知され、いつも深く感謝されるようになった。
「ネネ様、いつも私たちを守ってくださり本当にありがとうございます」
ある日、領民の一人にそう頭を下げられたとき、胸がいっぱいになって泣きそうになってしまった。
かつて日陰の存在だった隠密の私に、これほど温かい言葉が注がれるなんて。
さらに、竜皇国の近衛警護や隠密たちからも、私は一目置かれる存在となっていた。
「ネネ殿、どうかその無音の隠密魔術を教えてはいただけないか」
竜人の隠密からそう熱心に慕われ、請われて魔術を教える日々は気恥ずかしくも誇らしかった。
それに、私の姿を見た誰もが「なんと美しい鱗でしょうか」と感嘆の声を漏らしてくれた。
美味しいおやつと、温かい言葉。そして、私を必要としてくれる人々。
そんな穏やかで満ち足りた毎日に、私は心から、偉大なる竜神様への感謝を捧げた。




