289 ラルフの決断
昼間の喧騒が嘘のように静まり返ったマクアリール公爵邸。
その一角にある執務室で、ラルフが最後に残った書類へと署名を終えたとき、時計の針はすでに深夜を大きく回っていた。
窓の外を見上げれば、雲一つない夜空に、冷たくも美しい月が見えた。
ラルフは疲労の滲む目元を指先で押さえ、深く息を吐き出した。
静かに魔術を発動させた。視界が一瞬だけ歪み、夜の空気の匂いが変わる。
サラを伴い、移転でタスワンズ湖の精霊王様の大樹の根元へと降り立った。
静かにさざめく湖面には、月光を浴びて憩う竜皇国先王夫妻の、圧倒的に巨大な竜の影が幻想的に揺らめいている。
ラルフは静寂に包まれた大樹を見上げ、意を決して声をかける。
「精霊王様、お話を聞いていただきたい」
ラルフが深く頭を垂れると、それに応じるように大樹の葉が神秘的な音を立てて鳴り響いた。
溢れ出た光の粒子が夜空に集い、厳かな気配とともに精霊王様がその姿を現す。
「当主よ。世界の希望たる我が大樹と、逃れてきた同胞たちを守り続けるお前の苦悩は、すべて知っている。……だが、お前の命もまた、枠を出ぬ有限のもの。お前がこの世を去った後、この聖域がどうなるのかを心配しているのだな……」
精霊王様の静かな問いかけは、まさにラルフが最も恐れていた未来そのものだった。
ラルフは意を決し、懐に秘めていた胸中をすべて明かした。
「現在のこの地を治めるカーナリアン王国は、王が変わりはじめたとはいえ、あまりにも脆弱で本当の意味での危機感が足りませぬ。
我が公爵家騎士団のみで、永遠にこの地を他国の脅威から守り抜くことは不可能です。
現に今もなお、他国からの見えざる脅威にさらされております。
なればこそ……私の死後、このタスワンズ湖とその周辺一帯を、表向きは王国の領地としたまま、実質的な『竜皇国の管理地』へと移行させたいと考えております」
その提案に、精霊王様の鋭い瞳が小さく見開かれた。公爵領の最重要部を、竜皇国の主権、あるいは不可侵の管理下に置く。
そうなれば、たとえ将来的に王国が内憂によって自滅しようとも、聖域だけは竜皇国の圧倒的な軍事力と結界技術によって永久に守護される。
そして何より、竜神様の愛し子であり、竜皇国第二王子の番となった最愛の娘、ルノアの未来と安全も、これによって未来永劫担保されるのだ。
「この地は、竜神様の愛し子の実家であり、やがては竜皇国の王族の縁者ともなる場所。今まさに竜皇国の先王夫妻がここに身を寄せているという、これ以上ない大義名分もあります。
この聖域を、人族たちの愚かな権力争いから完全に切り離す。これこそが、私の死後も聖域と娘を守る最善の策かと存じます。
……精霊王様、もし私の死後、この地を竜皇国に委ねることを、お許しいただけますか?」
精霊王様は大樹を見上げ、しばらくの沈黙ののち、深く厳かに頷いた。
「よかろう。まだ先のことは分からぬが、世界の理を知る竜皇国に管理を任せる方が、我が同胞にとっても遥かに安全だ。
必要があれば、私も宣言しよう。お前のその決断を支持し、我ら精霊も、妖精も、また全力でお前の背を支えよう」
精霊王の確たる承認を得た瞬間、ラルフの心を押し潰していた重石が、少しだけ軽くなった。
王国への最低限の義理は通す。しかしその足元では、いつでも国から聖域を切り離せるよう動くべきだ。
ラルフは、竜皇国のリアム陛下に向けて「マクアリール公爵家領地タスワンズ湖・共同管理協定」の草案を提出することを決意する。
執務室に戻ったラルフは、朝までの時間を使ってその詳細を練り上げた。
そして完成した極秘親書を侍女のサラに託し、竜皇国のリアム陛下へと転送してもらう。
すると、すぐに返信が届いた。
『我が身内が負担をかけ、申し訳ない。ラルフの心情は分かっていたし、心配もしていた。
だからこそ、その負担を私達にも分けて欲しい。
ラルフの草案に、私達からの提案を上書きしたものを送る。検討してくれ。
それから、例の間者や冒険者どもはすでに手配済みだ。心配はいらない。タスワンズ湖の周辺は防衛が強固で、誰も侵入できなかったようだ。
まずはゆっくり休んでくれ。皆がお前の体調を心配している。
クロリナラドをもっと酷使して構わないぞ』
簡潔ながらも、温かい気遣いに満ちた返信であった。その言葉が、今のラルフには心からありがたかった。




