288 ラルフの懸念
マクアリール公爵家のラルフが購入した、最新の「世界全言語翻訳魔道具」。
実はラルフもルノアも、すでに世界中の五言語を理解し話せていた。
それでもルノアが魔道具に向かうのは、単に言葉を覚えるためではない。
言葉の裏にある「文化」や「信仰の機微」にまで深く踏み込み、より自然な表現へと洗練させるための、高度な応用訓練であった。
「主よ〜偉大なる〜翼を広げ〜迷える我らに永遠の安息を〜」
午前中の清らかな光が差し込む一室で、ルノアは厳かな竜皇国語の調べに乗せて、竜神教会の聖歌を美しく歌い上げる。
歌い終えると、侍女のサラクが感嘆の声を漏らした。
「ルノア様、素晴らしいです。今の発音には、聖職者が祈りを捧げる際特有の、深く厳かな抑揚が見事に再現されておりました」
「ありがとう、サラク。でも、ただ直訳するだけでは足りないの。竜皇国の方々が最も尊ぶ信仰の言葉に、最大限の敬意を乗せられなければ、本当の意味で彼らの心を動かすことはできませんものね」
サラたちの手ほどきを受けながら、ルノアは瞬く間に外交の理を吸収し、着実に成長していくのだった。
そして、そのひたむきな姿に触発されるように、屋敷で働く従者たちもまた、職務をこなしながら貪欲に他国の言葉を学び取っていた。
厨房からは料理長が仕込みをしながら聖歌を口ずさむ声が聞こえる。
廊下を磨く若い侍女たちは、行動しながら唱え、忘れたらまた読んで書くという極意の通り、聖書の一節を雑巾の動きに合わせて復唱している。
主たちの未来を支えるため、公爵家全体が比類なき知性を吸収し、進化を遂げつつあった。
しかし、その美しい歌声や従者たちの頼もしい姿を、執務室の窓辺から遠く見つめるラルフ公爵の胸中は、未だ深い苦悩に満たされていた。
(皆、支えようとここまで勤勉に努力を重ね、強くなっている。だからこそ、私は間違えるわけにはいかない)
現在、マクアリール公爵領のタスワンズ湖には精霊王様の大樹があり、世界中から傷つき逃れてきた精霊様や妖精様たちの最後の砦となっている。
精霊様たちの心が何百年も先に癒え、この世界のどこかにまた自然とともに復活できるまでの長い年月。
この重圧と危うい未来を単独で守り続けるなど、とうに限界を迎えているのが現実であった。
そこへ竜皇国の三王子たちを預かり、何とか合格の目処が立った。
しかし現在、別の問題が浮上している。
竜皇国の先王夫妻が、真の姿である「竜」となって療養のために身を寄せているのだが、それを嗅ぎつけた他国から、礼儀知らずな多数の冒険者が高額な竜の素材を目当てにカーナリアン王国へ入国しているのだ。
この危うい状況を正常に維持する責任が、すべてラルフの双肩にのしかかっていた。
カーナリアン王国のロバート国王は果断な処置を下し、隠密たちも死に物狂いで変わり始めてはいる。
だが、それでも竜の素材を目当てにした冒険者や間者の入国に、王宮は未だに気づいていない。
ラルフに、王宮と正面から対決し、国を割るような不忠を働くつもりはなかった。
しかし、それを差し引いても王宮の変革はあまりにも生ぬるく、危機の核心を本当の意味で理解しているとは到底言えない。
未だに危機感が足りない王家に、この世界の命運を握る「聖域」の管理を分担させるなど、到底不可能なことであった。
(いずれ訪れる私自身の死後、この広大な聖域を、いったい誰がどうやって管理し、守っていくのが最善なのだ……)
ラルフの脳裏に、ある一つの、極秘の策が浮かび上がっていた。
表向きはカーナリアン王国の領地としたまま、実質的な防衛と統治を、強大な力を持つ「竜皇国の管理地」へと移行させ、不可侵または共同管理の形を取ることはできぬだろうか……。
そうすれば、たとえ王国が内憂によって自滅しようとも、聖域だけは守られ、竜皇国の第二王子の番となる最愛の娘ルノアの未来と安全も未来永劫担保される。
だが、それはまだ誰にも打ち明けていない。
ラルフ一人の胸中に秘められた独白に過ぎない。
精霊王様がそれをお許しになるかどうかも分からず、竜皇国がその巨大な欺瞞を受け入れてくれる保証もない。
もし一歩間違えれば、王国を裏から支えるどころか、大陸中を巻き込む大戦乱の引き金になりかねない諸刃の剣であった。
愛しい娘が歌う竜神教会の美しい聖歌が、風に乗って微かに執務室まで届いてくる。
ラルフは、ルノアの幸福を思い、誰にも相談できぬ守護者としての果てしない重圧の狭間で、深く、深く悩み続けるのだった。




