第8話 『2日目の朝』
朝が来た。
ターニャはハッとしてベッドから身を起こし、愕然とする。
(わ……私、寝てた……)
絶対に寝ないと決めていたのに、ターニャはすっかり寝入ってしまっていたのだ。
自分の迂闊さに呆れてしまい、ターニャはベッドから飛び降りた。
そしてまず自分の体を見る。
捕虜服に乱れはない。
そして昨夜、扉の前に置いた洗濯籠は不安定な角度のままだった。
倒れてはいない。
扉は開けられていないということだ。
(……入られてはいない)
絶対に寝室には踏み込まないと言ったイグナートの昨夜の神への誓いは守られたということになる。
もしイグナートがその気だったら、この部屋に押し入って無理やりターニャを手籠めにすることは容易だったであろう。
それをしなかったということは、ターニャに決して危害を加えないという彼の言葉は本当ということになる。
そんなことを考えてターニャは1人首を横に振った。
(油断してはいけない。自分を信頼させようとしているあの将校の策略かもしれないんだから)
しかしこうなるとイグナートは他の兵士らのように自分の欲望のためにターニャをここに連れてきたわけではないということだろうか。
やはりターニャを懐柔してノーザリオンの意のままに動くスパイにしようとしているのかもしれない。
ターニャはゆうべ考えていた通り、イグナートの思惑を探ろうと思案を巡らせた。
(でもそんなことを聞いてあの将校が急に態度を変えたらどうしよう……余計なことを詮索すると危害を加えられるかも……)
ちょうどその時、扉がノックされた。
ターニャはビクッとして思わず声を上げそうになる。
寝室の壁にかけられた時計を見るとちょうど午前6時を指していた。
イグナートがノックをすると言っていた時刻だ。
ターニャは恐る恐るベッドから起き上がり、扉を開く。
するとすでに軍服に袖を通したイグナートが立っていた。
彼は小声で囁くように言う。
「朝食の時間だ」
「はい……クロチコフ少尉。厠と洗面所の使用の許可をお願いします」
「許可する。急げよ」
そう言ってからイグナートは声を出さずにその口を動かした。
ゆっくりでいい、と。
ターニャが頭を下げるとイグナートはすぐに踵を返して居間へ向かっていった。
寝室から出たターニャは厠で用を済ませて洗面所で顔を洗い、簡単に身支度を整えた。
そして居間に向かうと、すでにイグナートが朝食の準備をしている。
軍服の上にエプロンを付けている姿が何とも滑稽で、ターニャは自身の警戒心が緩むのを感じた。
だが、すぐに胸の内で思い直す。
(いけない。こちらの警戒心を解くのが彼の手だ。だからゆうべも何もしてこなかったんだ。きっとそうに決まっている)
ターニャはゆうべ、イグナートが自室に持ち帰ったノートがテーブルの上に開かれているのを見た。
これをもし軍の他の者に見られると大変なことになるので、自分で管理しているのだろう。
開かれたそのページにはすでにイグナートの字が記されていた。
おそらく今朝書いたものだろう。
【おはよう。今日は物資の配給で兵士の出入りがここにもある。捕虜として振る舞うよう気を付けてくれ】
ターニャはそれを見ると台所に向かい、調理中のイグナートの横に立つ。
そして声を出さぬよう身ぶり手ぶりで自分が調理したほうが良いのではないかと伝えた。
するとイグナートは首を横に振り声を出す。
「早めに朝食の支度を済ませろ。今日は物資の支給班が来る。物資の検品を覚えるんだ」
そう言うと顎をしゃくってターニャに席に着くよう促し、イグナートは手際よく調理を進めていく。
慣れている者の手つきだった。
ターニャは言われた通り、テーブルに戻ると椅子に腰をかける。
ほどなくしてイグナートが朝食をテーブルに並べ始めた。
白チーズを使ったシルニキというパンケーキ。
蕎麦の実で作ったカーシャという粥。
ゆで卵や牛乳、剥いたフルーツの盛り合わせだ。
ターニャは思わず食欲が湧いてくるのを感じた。
昨夜、風呂に入ってから不本意ながらベッドでグッスリと眠ったことが良かったのだろう。
体調はかなり回復しており、お腹もすいてきた。
ターニャはイグナートと共に手早く朝食を摂ると、食後の紅茶を飲みながらイグナートにペンを貸して欲しいと身振り手振りで頼む。
イグナートは胸ポケットに差しているペンをターニャに手渡した。
ターニャは意を決してノートに字を書いていく。
【昨日言っていた5日後というのはどういう意味ですか? 5日後に何が起きるのですか?】
イグナートはその字を見ても驚かなかった。
ターニャからペンを受け取るとスラスラと淀みなく字を書いていく。
【5日後、君は国外にいる。ウリエルでもノーザリオンでもない。第3国に。そこは安全な場所で、現在のところ我々の手は及ばない。詳しくは言えないが、その予定だ。なぜノーザリオン兵である俺がそんなことをするか気になるだろう】
そこでイグナートはペンを走らせる手を止めた。
ターニャは彼の顔を見る。
その顔はいつものように平然としていたが、心なしか目に寂しげな色が滲んでいるように思えた。
そして彼がその続きを書こうとしたその時だった。
玄関の扉が大きくノックされたのだ。
イグナートはすくさまペンを胸ポケットに戻してターニャに言う。
「配給班の到着だ。おまえはさっさと食器を洗え」
そう言うとイグナートはノートを手に立ち上がり、室内の本棚と壁の隙間にそれを隠し、すぐさま玄関に向かうのだった。




