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カモミールの花をあなたに  作者: 枕崎 純之助


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第7話 『静寂の浴室と不安な寝室』

 浴室の中は湯気が濛々(もうもう)と立ち込めていて体が温まるのを感じる。

 しかしターニャにはそれをじっくり楽しんでいる暇《ひま》はない。

 与えられた時間は30分だが、その間にイグナートが踏み込んで来ないとも限らないのだ。

 ターニャは手桶《ておけ》で湯船のお湯をすくって体に浴びると、石鹸《せっけん》を泡立てて髪と体を手早く洗っていった。


 数日分の垢《あか》を落とせる喜びよりも、急がなくてはならないという焦《あせ》りの方が強かった。

 すばやく体を洗い終えると、ターニャは湯船に張られたお湯の熱さを確かめる。

 多少熱かったがゆっくりと湯船に身を沈《しず》めた。

 全身を湯に包まれると、じんわりと体に熱が伝わっていき強張《こわば》っていた筋肉がほぐれていく。


 ターニャは湯に浸《つ》かったまま耳を澄《す》ませた。

 浴室の外からは一切の音は聞こえてこない。

 昼間は外から聞こえてきていた男の怒声《どせい》や女の泣き声も今は聞こえてこなかった。

 静寂《せいじゃく》の浴室の中でターニャはお湯の温かみを感じながら考える。


(あの将校は実際、私をどうするつもりなのだろう)


 もしターニャの体を求めるのであれば、もっと乱暴にしているはずだ。

 考えたくはなかったが、恐らく他の兵士らは捕らえたウリエルの女たちにそうしているだろう。


(本当に私を逃がすの? まさかね。捕虜《ほりょ》を1人国外に逃がすのも簡単なことじゃないはず……そんなことをして彼に一体何の得があるというの)


 ターニャはハッとした。

 イグナートがウリエル側のスパイなのではないかという可能性に思い至ったからだ。

 ノーザリオン軍にもウリエルが送り込んだスパイが兵士として潜入しているのかもしれない。

 だが仮にそうだったとしても単なる一市民に過ぎないターニャを逃がそうとする理由はよく分からなかった。

 

(やはり逃がすつもりなんかなくて、私に情けをかけて懐柔《かいじゅう》し、ノーザリオンのスパイにでもするつもりなんだ)


 敵国の捕虜《ほりょ》を洗脳教育し、自国のスパイにする手法はどこでも行われていると聞いたことがある。

 特に男女の恋愛感情を利用する方法が横行しているらしい。

 数か月前にもウリエルの大臣の1人が女スパイに誘惑されて国家機密を漏《も》らした罪で懲役刑《ちょうえきけい》となった。

 イグナートがターニャに今のところ紳士的に振る舞っているのはターニャにもそうしたことを仕掛けようとしているのではないか……そんなことを考えると吐き気がした。


(絶対に騙《だま》されない。気を張っていないと)

 

 ターニャは体がしっかり温まったと感じ、急いで風呂から上がると体を拭《ふ》いて捕虜《ほりょ》服を着た。

 元々着ていた服と下着は洗濯籠《せんたくかご》の一つに入れ、備え付けのドライヤーで髪を乾かす。

 乾かし終えるとターニャは洗濯籠《せんたくかご》を抱えて脱衣所から廊下《ろうか》に出た。

 

 廊下《ろうか》にかけられた時計を見る。

 風呂に入ってから約25分が経過していた。

 ターニャはイグナートの部屋の前で扉《とびら》越しに声をかける。


「クロチコフ少尉《しょうい》。浴室から上がりました」

「分かった」

「明日の朝、衣服を洗濯《せんたく》してもよろしいでしょうか」

 

 脱衣所には洗濯用の盥《たらい》と洗濯《せんたく》用洗剤、そして洗濯《せんたく》板が置かれていた。


「好きにしろ」


 そう言うイグナートの部屋の前の花瓶《かびん》台には、昨日のままカモミールの花が飾られている。

 そしてその花瓶《かびん》の傍《そば》にはまたしても一枚の紙が置かれていた。

 そこにはイグナートからのメッセージが記されている。


【寝室を君専用の部屋にしていい。俺はこの部屋で寝起きする。明朝6時に寝室の扉《とびら》をノックするから、そのつもりでいてくれ。起床後すぐに朝食だ。くれぐれもおかしな真似《まね》をしないように】


 それを読むとターニャは台所で水道の水を飲み、厠《かわや》で用を済ませて寝室に向かった。

 寝室には大きなベッドが置かれている。

 どうやらこの家の主だった夫婦が使っていた物のようで、暖かそうな布団《ふとん》が置かれていた。

 1人で寝るには広すぎるくらいだ。


(武器になりそうな物は……何もない。当然か)


 部屋を見回してからターニャはベッドに腰をかけると深くため息をついた。

 ものすごく疲れていたが、とても眠れそうにない。

 この年になるまで他人の男性とひとつ屋根の下で眠ったことなどないのだ。

 ターニャの両親はそうしたことに厳格で、婚前交渉《こんぜんこうしょう》は許されていなかった。


 だからこそ今、こうして知らない男と、ましてや敵軍の将校と同じ家に寝泊まりしなければならないという事実が耐え難《がた》かった。

 イグナートは紳士的に振る舞っているが、ターニャは今日出会ったばかりの彼のことを何も知らない。

 油断をさせておいてターニャが寝入っている隙《すき》に襲い掛かってくるかもしれないのだ。

 ターニャは持ち込んだ藁《わら》の洗濯籠《せんたくかご》をわざと不安定な角度に傾けて、扉《とびら》の前に置いた。

 扉《とびら》が開けられればパタンと倒れて音を立てるように。

 

 それからターニャはベッドに座ったまま自分が生き残るためにどうするべきかを考えた。

 祖国ウリエルは劣勢だが、まだ負けたわけではない。

 きっとこの占領された街を奪還しに動いてくれるはずだ。

 

 だが、それがいつになるかはまったく分からなかった。

 いつになっても助けは来ない恐れもある。

 一方でイグナートは5日間の辛抱《しんぼう》だと言った。


(5日間。それが何なのか……明日になったら聞いてみよう。どうせ騙《だま》されるなら悪あがきしてやる)


 ターニャはそう決意すると、布団《ふとん》に潜り込む。

 眠るつもりはなかった。

 もしイグナートが踏み込んできたら、死んだつもりで徹底的に暴れてやると決意し、ターニャは柔《やわ》らかな枕《まくら》を胸に抱いて歯を食いしばるのだった。

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