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カモミールの花をあなたに  作者: 枕崎 純之助


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第6話 『敵のほどこし』

「夕食にするぞ。さっさと準備をしろ」


 夕方、部屋から出てきてそう言うと、イグナートは自ら台所に立つ。

 イグナートが調理をしている間、ターニャは所在なさげに椅子《いす》に座っていた。

 テーブルの上には筆談用のノートが一冊置かれているだけだ。

 自殺防止のためにペンはイグナートしか持っていない。


 仕方なくターニャはノートに書かれたイグナートの字を見つめていた。

 かなり几帳面《きちょうめん》な筆跡であり、乱れのない字が彼の人となりを表しているように思える。

 彼は結局、夕方まで部屋から出てこなかった。

 そのおかげでターニャは1人で静かに過ごすことが出来たのだ。

 すぐに良い香りが漂《ただよ》ってきて、イグナートは昼食よりも一品多く夕食を運んできた。


 タマネギやキノコと一緒に炒《いた》めた牛肉とライスに揚《あ》げたジャガイモを添《そ》えたビーフストロガノフ、魚のスープであるウハー、そして簡単なサラダ。

 平素ならば豪華というほどではないが、戦時中にこれだけの食糧が手に入るのは占領軍の将校だからこそだろう。

 ターニャは複雑な思いでそれらの料理を見つめた。

 占領された側であるウリエルの民はロクな食事にありつけていないはずだ。


「ようやく出来上がったか。さっさと並べろ」


 イグナートはそう言いながら食卓に着く。

 そしてペンを握るとそれをノートの紙面に走らせた。


【フォークとナイフを渡すが、妙な真似《まね》はしないでくれ。俺はすぐに君を取り押さえられる。おとなしく食事をして欲しい】


 そう書くとイグナートはナイフとフォーク、スプーンとナプキンの入れられたバスケットを注意深くターニャに手渡した。

 ターニャはそれを受け取ると粛々(しゅくしゅく)と食事を摂《と》る。

 だが決して味わうことはしなかった。

 祖国の同胞たちが苦しんでいる時に、自分だけが敵兵の施《ほどこ》しを受けて喜んでいいはずがない。


 食べながら悔しくて涙が出た。

 おそらくこれらの食材はこの街から奪ったものだろう。

 占領軍であるノーザリオン兵はこの街の男を殺し、女を浚《さら》い、土地や家や財産を奪った。

 同じ人間であるはずなのに占領した側に占領された側は見下され、こんな扱いを受けるのだ。

 今すぐこの持っているナイフやフォークを目の前のイグナートに突き刺してやりたい気持ちが湧《わ》き上がる。


 だが、ターニャは耐えた。

 自分は生きると決めたのだ。

 そのためには食事を摂《と》らなくてはならない。

 屈辱《くつじょく》であっても堪《こら》えて、今日を生き延びるのだ。


 ターニャは食べる間、一度もイグナートを見なかった。

 だから彼女は気が付かなかったのだ。

 そんなターニャを見て辛そうな顔をしているイグナートの様子に。

 夕食を終えるとイグナートは食器を片付け、それから浴室に向かった。

 10分ほどで戻ってくると再びテーブルに着いてペンでノートに字を書いていく。


【疲れただろう。風呂を沸《わ》かしたから入ってくれ。浴室に鍵《かぎ》はかけられないから心配だろうが、自殺防止のためだ。分かってくれ。もう一度言うが俺は決して君に危害を加えないと誓《ちか》う】


 ターニャは重苦しい気分に襲われた。

 イグナートの言葉をその通りに受け取れる心理状態ではない。

 だが心身は疲れ果て、髪も体も随分《ずいぶん》と汚れていた。


 最後に入浴したのは避難命令が出る前だから、もう3日も前になる。

 その後は防空壕《ぼうくうごう》に身を隠し、そしてノーザリオン兵に踏み込まれて捕らえられ、今に至っている。

 風呂で身を清めたかった。

 ターニャはイグナートの置いたペンを手に取ると、彼を見ることなく字を書いた。


【お風呂に入らせていただきますが、もしあなたが入ってきたら私は舌を噛《か》んで死にます】


 舌を噛《か》んだくらいで死ねるとは思わなかったが、ターニャには他に出来ることがなかった。

 そんな彼女の悲壮な表情を見てイグナートは唇《くちびる》をわずかに噛《か》む。

 そしてターニャが置いたペンを手に取った。


【絶対に入らないと神に誓《ちか》う。だから君も神に誓《ちか》ってくれ。間違っても自ら命を断つような真似《まね》はしないと。お願いだ】


 お願いだと書いた時のイグナートの手が震え、珍《めずら》しく字が乱れた。

 思わずターニャは顔を上げてイグナートの顔を見る。

 そこで初めて知った。

 イグナートがひどく辛そうな顔をしていることを。


(この人は一体……)


 イグナートの心の内が読めず、ターニャは困惑する。

 しかし彼の重苦しい雰囲気《ふんいき》に気圧《けお》されて頷《うなづ》くと、ターニャはそこで声を発した。


「クロチコフ少尉《しょうい》。入浴の許可をいただけますでしょうか」

「許可する。入浴時間は15分と決められているが、おまえはひどく汚れている。今夜は特別に30分許可しよう。汚れた体の女と褥《しとね》を共にしたくはないからな」


 そう言うとイグナートは自室に入っていった。

 ターニャは恐る恐る浴室に向かう。

 するとすでに湯が沸《わ》いている風呂の湯気が脱衣所にも漏《も》れ出てきているため温かかった。

 脱衣所には柔《やわ》らかなタオルにバスタオル、垢《あか》すりと石鹸《せっけん》、そして婦人捕虜(ほりょ)用の衣服や下着が用意されている。


 ターニャは躊躇《ちゅうちょ》したが、洗面台の鏡《かがみ》に映る自分があまりにも汚れて見すぼらしい格好だったので、意を決して服を脱いだ。

 当然のことだが、脱衣所内に武器になるようなものは一切置かれていない。

 もし入浴中や風呂上がりにイグナートに襲われたらターニャにはどうすることも出来ないだろう。

 彼女は覚悟を決めて石鹸《せっけん》と垢《あか》すり、タオルを手に浴室に身を滑《すべ》り込ませるのだった。

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