第5話 『疑念』
夕食が終わり、イグナートが自室に戻るのを見送ると、テーブルに残されたターニャは1分ほど置いてから立ち上がり、廊下に進む。
廊下の花瓶台に置かれた花瓶の前に立つと、ターニャはそこに飾られたカモミールの白い花びらにそっと指を触れた。
小さな白い花がかわいらしく揺れる。
(あの人が花を飾っているのかしら……)
戦争で敵と凄惨な殺し合いをする軍人が、可憐な花を自室に飾るなどという行為をするとは思えなかった。
ターニャは顔を上げ、あらためて廊下を見回す。
厠と浴室はそれぞれ扉に表示があるのですぐに分かった。
ターニャは厠に入ろうとして立ち止まる。
厠と浴室に入るのは申告制だとイグナートは言っていた。
それらを無視して勝手な行動を取っていることが盗聴によって発露し、その結果として憲兵隊に踏み込まれては彼女は一巻の終わりだろう。
不快だが従うほかなかった。
ターニャは扉越しに室内のイグナートに声をかける。
「クロチコフ少尉。厠の使用許可をお願いいたします」
「……許可する」
室内から無機質な声が返ってきた。
ターニャは屈辱を覚えながら厠に入る。
(毎回、厠に行く度にこんな思いをしなければならないなんて……)
気が重くなる。
そう思いながら用を終えて手洗いを済ませると、洗面所から廊下に出た。
すると廊下の壁際に置かれた花瓶台に、1枚の紙が置かれている。
先ほどは無かったものだ。
ターニャがその紙を覗き込むと、そこにはこう書かれていた。
【辛い思いをさせてすまない。厠は2回に1回は黙って入っていい。俺が入ったことにする。盗聴されていても声さえ出さなければトイレの使用主までは分からない。それからこんなことはあと5日の我慢だ。もう少しだけ耐えてくれ】
ターニャはますます混乱する。
軍という組織の一員でありながら、軍規違反になるような危険を冒してまで捕虜のターニャに配慮するその理由が分からない。
そしてあと5日というのが何を意味しているのかも分からなかった。
(5日……5日経ったら一体何が起きるというの?)
イグナートはターニャを国外に逃がすと言っていた。
そんな都合のいい話を信じられる精神状態ではない。
逃がすからと言われて喜んで付いていったら、とんでもない目に遭わされる危険性は大いにあるのだ。
ターニャは自分に言い聞かせる。
(ノーザリオン兵の言葉は信じてはダメ。絶対に気を許してはいけない)
それからターニャは部屋で淡々と過ごした。
椅子に座り、改めて部屋の構造を観察する。
居間、台所、廊下、寝室、イグナートの部屋、浴室と厠、それがすべてだった。
庭に出るための窓はかなり厚いガラスであり、通常の錠とは別に金属錠つけられているため、その鍵なしにそこから逃げるのは不可能だろう。
後は明かり取りの小さな窓しかない。
(盗聴器はどこに仕掛けてあるんだろう)
ターニャはテーブルの裏側なども見てみたが、それらしき物は何もなかった。
そもそも彼女は盗聴器という物を見たことがない。
おいそれと見つけられるはずはなかった。
すぐにそれを諦め、ターニャは静かに周囲の物音に耳を澄ませてみた。
外でノーザリオン兵らが軽薄な調子で笑う声が聞こえてくる。
それに混じって女性の泣いている声が聞こえてきた。
ターニャは先ほどの広間を思い返して暗い気持ちになる。
あそこに集められていた女性たちは全員、自分と同じようにノーザリオン兵らに連れて行かれたのであろう。
とすればこの近隣の家にも自分と同じく囚われの女性たちがいるはずだ。
そして彼女たちの中には今頃、ノーザリオン兵によってひどい目に遭わされている者もいるだろう。
それを考えるとターニャは恐ろしくて体が震えた。
イグナートとて今は理性的に振る舞っているが、いつ本性を表して牙を剥いてくるか分からないのだ。
かといって何も知らないターニャでは、この状況から脱することはまず不可能だった。
下手に逃げようとすれば、銃殺されてしまうかもしれない。
ターニャは唇を噛んだ。
今はここにいるしかない。
ターニャは耳を塞いで、外からの物音を聞かないようにするのだった。




